第3章:離苦 ――りく――(4)


 アイゼンハース城の謁見の間では、ネーデブルグ王カーレオンが玉座に収まって、昨日までの余裕に満ちた態度はどこへやら、落ち着き無く肘掛けをとんとん叩き、きょどきょどと視線を彷徨わせている。
「もう一度言います、陛下」
 その前に形ばかりかしこまってひざまづき、しかし強い口調で、瀬戸口芙美香は申し出た。
「フォルティアの戦巫女を救いに行く為、エズリルへの進撃許可を」
「ならん……ならんぞ……」
 カーレオンは自分の手を揉み指を弄びながら、芙美香に目を向ける事も無く洩らす。
「フォルティアの戦巫女が、最強の戦巫女がいないのに、ステアに攻め込むなど」
 それを助けに行くのではないか。誰も攻め込めとは言っていない。自分一人で行く事も厭わない。ヒューリとか呼ばれたあのいけすかない女は喧嘩を吹っかける気が満々だろうが、可能ならば穏便に未来を取り戻したい。それなのに、この馬鹿王は。
 芙美香が苛立ちを募らせ、声を荒げようとした時だった。謁見の間に近づいて来る幾つかの足音と、
「ファルスディーン様、お待ちくださいませ、ファルスディーン様!」
「ファル、サフィニア姫のお言葉に従ってください!」
 必死に引き止めるサフィニアと、珍しく強い口調のスティーヴの声が聞こえたかと思うと、ばん、と扉が開かれた。
 ステアの戦巫女――交わされた会話が真実ならば、未来の弟だ――に傷を負わされ、血まみれのまま運ばれて行って、最前まで床についていたのだろう。痛々しく包帯を巻いた身の上にいつもの騎士服を羽織っただけで、赤い髪も乱れているファルスディーンは、しかし紫の瞳から光を失わず、毅然とカーレオンを見すえると、その前へ進み出て膝をつき、ゆっくり頭を垂れた。
「カーレオン陛下、お願いがございます」
 ファルスディーンは澱む事無く言葉を継ぐ。
「どうか、グランシャリオを私にお貸し与えください。それをもって、私一人で戦巫女を救出にまいります故」
 カーレオンの頬がぴくりと引きつるのが、芙美香には小気味良かった。しかし。
「無茶です、ファル」
 おろおろするばかりなサフィニアの後方に立つスティーヴが声をあげる。
「サフィニア姫の回復の術で傷口が塞がったとはいえ、本来は、まだ動くのさえ許されない状態です」
 回復魔法は瞬時に傷を癒す事ができる。だが、それは表面的なもので、病や、内臓にまで達した傷はなかなか癒し得ない。ファルスディーンの現状は後者だ。
 そして、問題はもう一つ。
「グランシャリオの転移能力は、見た事か行った事のある場所までしか及ばない、って聞いた事があるけど」
 芙美香が眉をひそめると、ファルスディーンは顔を上げ、「問題無い」と自信を持って答えた。
「エズリルには幼い頃、叔父上……フォルカ王と共に訪れた事がある。行ける」
 そして再び前を向き、カーレオンに頭を下げる。
「陛下、どうか」
「算段は、あるのか」
 カーレオンは、やや声をうわずらせながらファルスディーンに問うた。
「戦巫女を取り戻す算段は」
「失敗すれば私が命を失うだけです。ネーデブルグにご迷惑はおかけしないよう、全力で努めます」
 きっぱりと言い切るファルスディーンの気迫に圧され、カーレオンは、ぎくしゃく頷くしか無かった。
「わ、わかった。事が済み次第、速やかに返すのだぞ」
「感謝いたします」
 カーレオンが差し出した秘剣を、ファルスディーンは鞘ごと両手でおしいただく。そしてそれを腰に佩くと、怪我を感じさせぬしっかりとした足取りで、謁見の間を出て行くのだった。

 全身が重い。
 寝起きは悪い方ではない。いつもなら、眠って目覚めれば、倦怠感など取れているのに、今回ばかりはまぶたを持ち上げるのさえ億劫だった。何とか目を開き、ぼうっとする頭で自分の今の状況を把握しようと努める。
 このところ各地を転々として、目覚める度に枕が違うのには慣れた。だが、この違和感は。
 そこで急速に記憶が蘇り、未来はかけられた毛布をはねのけながら飛び起きた。見渡せば、どこかの客室のようだ。ベッドもきちんと整えられたものではあったが、見覚えが無い。そこで未来は、己が身に起こった出来事を振り返る。
 そうだ、アイゼンハースがステアに攻め込まれ、自分は銀髪の少女に捕まって。ファルスディーンは酷い怪我を負っていた。無事だろうか。その傷を負わせたのは。
「利っくん……」
「姉ちゃん」
 名を呟くとその当人の声が返って来たので、未来は思わずびくりと肩をすくめ、それから恐る恐る声の方を向いた。
 部屋の片隅には、利久がいつに無く深刻な顔をして立っていた。いつも、未来が学校でいじめられると、表情を曇らせていた弟だが、ここまで翳りを帯びた事は無かった。やはり記憶の中より、少しだけ背と髪が伸びている。未来がフォルティアに来てから数ヶ月が過ぎているのだから、利久にも、同じだけ、ともすればそれ以上の時間の経過があったと考えて差し支え無いだろう。
「ここはステアなの?」
 姉の質問に利久はこくりと頷き、しばし黙りこくった後、
「……何でだよ」
 心に溜まった苦しさを吐き出すように洩らした。
「何で姉ちゃんが、フォルティアの戦巫女なんだよ」
「何でって」
 それは、選ばれたから、としか答えようが無い。同じ質問を返す。
「それよりも、利久だよ。どうして利久がステアの戦巫女なの。ステアの女王様は、フォルティアとネーデブルグに戦争を仕掛けた人でしょう。どうしてそんな酷い人に協力するの。利っくんらしくない」
「俺だって、好きでやってる訳じゃない! 好きで人を殺したりなんかするか!」
 唐突に、利久が声を荒げた。
「姉ちゃんにはわからないだろ、自分の背後に、アルテムの人達の……、何十人もの命がある気持ちなんて」
 その一言で、未来は、利久がこの世界で背負った重い物に感づいた。
 利久は昔から責任感が強い。
 小学生の頃、利久はサッカークラブに所属していた。その頃から彼の才能は惜しみ無く発揮され、チームは地区大会の決勝まで進んだ。利久さえいれば必ず勝てると、周囲の誰もが言っていた。
 しかし、決勝当日の朝、会場へ向かう途中、利久は自転車と接触して足を痛めた。携帯電話をいじりながら信号を無視して一時停止も無く突っ込んで来た、完全に相手が悪い事故だったが、そのまま逃げられた。利久は痛む足で会場へ行き試合に出場したものの、思うような動きを全くできず、結果チームは惨敗した。
 利久はその直後、クラブから退団した。
 中学にあがった時、かつての仲間達がもう一度一緒にサッカーをしようと熱心に誘ってくれ、両親や未来の後押しもあって、利久は再びスパイクを履く事になった。だが、またエースと呼ばれるようになった今でも、自分の失敗でチームメイトに迷惑が及ぶのを、酷く恐れている節があった。
 恐らく弟は、恩のある人達をステアに質として取られたのだろう。そして、どんなに己の道徳心に反する事をしても、彼らを見捨てる事はできない。
「バロック将軍も同じだ。奥さんと娘を人質に取られてる。ステアの兵は皆、いつセルマリア女王に粛清されるか恐くて逆らえない。それだけで逃げ出せずにいる」
 苦しげに告げる弟の横顔を見て、何とかその苦しみを消す事はかなわないかと思案し、未来はベッドから抜け出して利久の元に近づくと、その腕を取る。
「利久、逃げよう」
 未来は告げた。
「ファルスディーンやカーレオン王に頼めば、何とかしてくれるかもしれないから」
 しかし姉の気遣いは、ぱしんと乾いた音を立てて手を払われる事で報われた。
「俺が戦巫女でも何にもできなかったのに、ただの人間に何ができるって言うんだよ、姉ちゃんは!?」
 そんなに冷たい弟の態度を真正面から受けるのは、生まれて初めてだった。金の瞳を見張って立ち尽くしてしまう未来の背後から、
「そうそう。余計な事されちゃあ、楽しくなくなっちゃいますのことよ」
 くつくつと嫌な笑い声が聞こえたと同時、未来は首筋に熱を感じた。噛まれた、と理解したのは、しばらく間があってからだ。
「ヒューリ、何してる!」
 利久が顔色を変えて怒鳴りつけると、ヒューリ・リンドブルムは、悪戯っぽい笑いを洩らしたまま、血と唾液の混じり合った糸を引きながら未来の首から顔を離し、ぺろりと口元を舌で舐めた。
「ふふ、あんまりおいしそうな肌してるから、思わず、噛みつきたくなっちゃっただけですね」
 少しも悪びれた様子も無く少女は言い放ち、傷をおさえて青ざめる未来に再度顔を近づけて、色の薄い瞳を猫のように細めて囁きかけた。
「会ってみる? 『酷い人』に。セルマリア女王様に?」