ラプンデルの魔物襲撃事件が収まった後、ファルスディーンは、兵を率いて国内の魔物退治に明け暮れた。味方の少ない城にいて窮屈な思いをするよりは、外で剣を振るっていた方が気が晴れるのだろう。
「戦いが恐いなら城に残っていい」
相変わらず偉そうに腕組みなどをしたまま王太子は告げたが、未来は彼と共に各地を巡る事に決めた。
それこそ、自分が城にいても意味が無い。スティーヴはファルスディーンと共に旅立つし、芙美香は己の属する国に帰ってしまった。近しい者が一人もいない城にぽつんと居座っても仕方無い。それに未来は戦巫女だ。戦巫女の本分は国の為に戦う事だ。それが戦に赴きもせずに城でだらだらと暮らしていては、城内の誰もが扱いを持て余すに違い無い。
だから未来はファルスディーンと共に戦いへ身を投じた。恐怖が無くなった訳ではない。魔物が鋭い牙をむき、自分目がけて飛びかかって来る度に、ひきつれた叫びをあげそうになる。しかし未来はそれを堪え、悲鳴の代わりに力ある言葉を発した。銀色の光は時に剣となり、炎となり、楯となって、敵を斬り、燃やし、時に彼らの攻撃から未来やファルスディーン、周囲の兵士達を守った。
戦う時も決して一人ではなかった。スティーヴやフォルティアの兵が未来を守ってくれる。その筆頭がファルスディーンである事に気づくのに、時間は要らなかった。明確に言葉にする事は無い。しかし明らかに、戦闘力は高いが戦慣れなどしていない未来の、隙を埋め、背後を敵に取られないようにし、死角を守る。それがこの無愛想な王太子の精一杯の気遣いなのだと、未来は理解した。どうせそっけなくかわされる気がするので、言葉で感謝を示す事はしなかったが。
そうして国内を転戦し、少しずつ戦に慣れていき、己の戦巫女としての能力にも馴染んで来た頃。ナサリダという、古い都市に行った時だった。
「戦巫女様、お手をわずらわせて申し訳ありませんが、殿下を探して来てくださいませんか。我々も手分けしているのですが、まだ見つからないのです」
他の騎士達のいる手前、他人行儀な口調になるスティーヴに頼まれて、未来は、騎士団の駐屯場所になっている古城の廊下を一人歩いていた。
フォルティアにとって尊い戦巫女に供の一人もつけないのは、不用心極まりないのかもしれないが、未来も以前のように、何の力も無い、名ばかりの戦巫女ではない。己の身は己で守れる。その気になれば、この城全体を銀の光で覆って外敵から守る事も可能だろう。言葉さえ奪われなければ、実質最強だ。それに、魔物の出没する郊外ならともかく、都市中心部のこの城内ならば、そうそう危険もあるまい。
しばらく廊下を進んで中庭にさしかかった時、どこからか聞こえて来る笑い声に、未来は歩を止めた。
「お前、どこから来た? 野良にしては立派な毛並だな。いい食べ物を分けてもらっているのか」
随分と親しげに話しかける声色が、普段のそっけない態度からは想像もつかないが、これは間違い無くファルスディーンのものだ。未来は中庭に出て、きょろきょろと辺りを見渡し、そして、まさに今自分が歩いて来た廊下の屋根の上に、探している当の本人がいるのを見つけた。
「どうだ、一緒にフェーブルに来るか? もっといい物を食べ放題だぞ」
ファルスディーンは屋根にごろりと寝転がり、その腹の上に、猫――あの模様はキジトラとでも言っただろうか――を乗せていた。彼か彼女か、とにかく猫に向けられる紫の瞳は、未来には見せた事も無いくらい優しく、両手で抱き上げ顔に近づけて、「にゃーん」などとまで言っているではないか。
猫が、好きなのか?
心底から驚愕した後に、笑いがこみあげて来て、未来が変な表情のまま固まってしまうと、さすがに視線に気づいたらしい。ファルスディーンははっとこちらを向き、たちまち、緩んでいた表情をむっつりとしたものにすり替えて、身を起こした。
「何だ」
「……猫、好きなの?」
「別に」
何とか言葉を探した未来の問いに顔を逸らし、今更ながら、興味など有りませんとばかりに猫を脇にどかす。急につれない扱いを受けた猫は不満そうにみゃあみゃあ鳴いたが、やがてファルスディーンへの興味を失い、ついと顔をそむけて立ち去った。その後姿を見送るファルスディーンの瞳に落胆が宿っていた事は、言うまでも無い。
しかし彼も猫を目で追う事を諦めて立ち上がると、まるで自身が猫のように身軽に、ひらりと屋根から未来の前へ飛び降りて来た。
「それで。何の用だ」
折角の楽しみを中断させられた不機嫌を隠しもせずに、紫の瞳が見すえて来る。
「スティーヴ達が探してたの。あなたに話があるみたいだった」
「何だ、そんな事か。お前が呼びに来るなんて、魔物が出たりでもしたのかと思ったぞ」
ふうと息をつきながら、その燃えるような赤毛の頭をかき、それから、ファルスディーンは未来を真正面から見たところで、「あ」と小さく声をあげた。
「な、何?」
突然何なのか。妙にどぎまぎして、視線を彷徨わせながら未来が問うと、ファルスディーンは未来の頭を指差しながら、一言。
「虫」
「え?」
「羽虫が髪についている」
途端、未来はさーっと自分の顔から血の気が引くのを感じた。
「嫌ーッ!!」
理性というものをすっ飛ばして、最早本能で、口からかん高い叫びがほとばしる。
「取って! 取って取って取ってー!!」
ファルスディーンが吃驚してしばし棒立ちになった後、戸惑いながらも手を伸ばした。親指の先程の大きさも無い、透明な羽を持つ小さな虫が、彼の指につままれてじたばたと細い足をばたつかせる。
「やって! どこか、見えない所に!」
それを絶対に見ないように顔をそむけたまま未来が怒鳴ると、ファルスディーンは後方へ振り返って、羽虫をつかむ指を離す。解放された虫は透明な羽を羽ばたかせ、あっという間に秋の空へと飛び去った。
「一体何だ。あんな小さな虫ごときで」
ファルスディーンが少し呆れた様子で向き直る。
「大体お前は戦巫女なのだから、力を使って払うなり燃やすなりしてしまえば済む事だろうが」
しかし、未来はまだばくばく言っている心臓を抑えながら、涙目で切れ切れに返す事しかできなかった。
「虫は、虫は……駄目なの。小さい、頃から」
未来にとって、虫は過去の嫌な思い出に直結する。金色の瞳を理由に、子供特有の無邪気な残酷さでさんざんからかわれ、悪意をぶつけられた時、元々未来が虫を苦手にしている事を知った彼らは、毛虫だの団子虫だのみみずだのを棒切れの先にひっつけて、未来を追い回した。未来が足をもつれさせて転び、膝を盛大にすりむくと、より愉快だとばかりに笑い声をあげて、虫を鼻先に突きつけた。そんな記憶を刻まれて、虫を大嫌いにならない方が不思議である。
未来のその告白を、ファルスディーンは、腕を組み表情を動かさずに聞いていた。が、やがて、ぼそりと洩らす。
「大人気無い」
未来は一瞬、自分の事を言われたのかとどきりとした。しかし、ファルスディーンが続けた言葉は、予想の反対側を行く。
「そのように他人の弱点を笑い物にする連中は、大人気が無さすぎる」
彼がそんな意見を述べるのが意外で、未来は思わず金の瞳をみはってしまう。すると、強気な紫色が見返して来た。
「お前もお前だ。そんな低俗な奴等にやられっぱなしで泣き寝入りするな。しゃんとしていろ」
まあ、彼なら厳しい言葉を放つだろう。はなから親切な台詞など期待してはいなかった。未来が溜息をつき、うつむくと。
「だが」
ファルスディーンがぼそりと付け足した。
「この世界にいる内は、虫がついたら俺に言え。取るくらいはしてやる」
未来がきょとんとしている間に、王太子はさっさと踵を返し、立ち去った。残された未来はしばし、彼が放った言葉の意味を探して瞬巡し、やがて思い至る。
いつもの、どうにもわかりづらい、彼なりの気の遣い方だったのだろうか、と。
触れられた髪にそっと手をやると、今更ながら気恥ずかしさがこみ上げる。
まるで気まぐれな猫のように、真意をつかみづらい彼。しかし彼に対する苦手意識は、当初の頃より大分薄れたような気が、未来にはするのだった。