唐突に。
誰かに呼ばれたような気がして、未来(みく)はシャープペンシルを動かす手を止め、顔を上げた。しかし見渡す教室内は、変哲の無い、退屈で眠気の襲い来る午後の授業の風景。
きょろきょろする未来の様子に気づいた教師が、公式の説明を止め声をかけてきた。
「どうした、矢田。何か質問か」
「いいえ、何でもありません」
慌てて取り繕い、再びノートに向かう。
「集中しろよ。二年生とはいえ、もう大学受験を視野に入れなければならない時期なんだからな」
教師はそうたしなめて授業に戻ったが、周囲からはひそひそと声があがる。
「まーた矢田さんだよ」
「ちょっと成績がいいからって、気ぃ抜いてるよね」
「違う違う、あれは宇宙と交信してたのよ」
「なんたって矢田は宇宙人だからね、ウチュージン」
再びノートの上を走らせ始めていたシャープペンシルを握る手が止まる。
こつん、と頭に何かが当たって床に落ちる気配がした。ちらりと横目で見れば、くしゃくしゃに丸められたノートの一ページ。未来はそれを拾って広げる事をしなかった。誰がやったか大体見当はつくし、中には、程度の低い心無い言葉が書き殴られている事も想像できる。
無視して授業に意識を傾けようとした未来の耳に、囁き合いの続きが届いた。
「そうそう、矢田さんのあの目。ニンゲンやめてるよねえ」
幼い頃から、その特異性ゆえに好奇と嫌悪の視線を向けられ、珍しがられたり、からかわれたり、避けられたり、あからさまに悪意をぶつけられる事は、数えきれないほどあった。
もう慣れた。生んでくれた両親を恨む気はさらさら無い。
それでも時折孤独感は襲い来る。うつむいた未来の瞳――薄茶色を越えて最早金に近い瞳――が、かすかに潤んで揺れた。
ホームルーム終了と共に生徒達は、あるいは部活動へ、あるいは居残りの勉強の為に図書室へ、あるいは帰宅の道へと、散ってゆく。
特定の部に所属しておらず、勉強も家の自室でやるのが一番落ち着くしはかどると認識している未来は、家路へつこうと自転車置き場へ向かった。
二年近く通学を共にしているオレンジ色の相棒に鍵をさそうとして、未来はあるひとつの異変に気づいた。後輪に手をやり押してみる。タイヤはぺこぺこと頼り無い感触を未来の手に返した。
まただ。しばらく無かったから油断していた。
また母に頼んで、修理代を出してもらわねばならない。その理由、そもそもの原因を告げるのは、親をどれだけ哀しませるかと思うと、押して帰るしかなくなった自転車以上に、未来の胸に抱えるものは重たくなった。
「姉ちゃん」
自宅への上り坂道を、のろのろ自転車を押し歩いている所で、未来は、背後から呼びかける声と駆け寄って来る軽快な足音を聞いた。振り向かなくてもわかる。弟の利久(りく)だ。
「利っくん、部活は?」
「今日は休み」
あっという間に隣に並んだ弟に短く問いかけると、やはり短い返事が返って来る。
第二中学サッカー部のエースストライカーである利久には、この程度の上り坂はきつくも何ともない。息を整える必要も無いまま、未来の手にした自転車に目を落として、眉間に皺を寄せた。
「またやられたのかよ?」
「……うん」
未来が萎縮して肩をすくめると、利久は無言でハンドルを奪い取り、未来の代わりに自転車を押し始めた。しばらく落ちる沈黙の後。
「俺、やっぱり第一志望、北高でいく」
「利っくん」
弟の発した言葉に、未来は驚きに目をみはった。中学三年生の利久がそろそろ本気で進路を決めねばならないのはわかっている。しかし。
「だって利っくんは、白山学院に行きたいんでしょ?」
利久の実力ならば、スポーツの盛んな名門校へ進学しても立派にレギュラーとして活躍できるだろう。未来の通う北高のサッカー部はお世辞にも強いとは言えない。折角の利久の才能が埋もれてしまう。
未来は公立校通いだが、利久が私立校に進むくらいの資金が用意できないほど家は貧しくはない。むしろやや裕福な方だ。両親も反対はしないだろう。それに、学ランを着こなす利久に、北高の紺色のブレザーは似合いそうにない。それでも。
「サッカーなんてどこでだってできる。それよりも」
利久は不機嫌そうな声色で言うのだ。
「俺の見てない所で姉ちゃんがこんな目に遭うのは、もう嫌だ。一年しか一緒にいらんねえけど」
幸いにも未来のように特殊な色にはならなかった、日本人としては標準的な黒い瞳に憤りをたたえて、利久は言葉を継ぐ。
「姉ちゃんは、俺が守る」
また言わせてしまった。未来は弟に気づかれない程度に小さな溜息をこぼす。
幼い頃から、瞳の色が原因でいじめられた未来をかばい、時には相手に飛びかかり殴り合いをしてまで守ったのは、二歳年下の利久だった。
運動神経抜群で、父親似で顔立ちもそこそこ良い利久は、当然ながら女子にもてる。だが、彼女達の勇気をふり絞った告白を、利久はことごとく断ってきているのだ。しかもその理由は、「俺が守らなくちゃいけないのは、姉ちゃんだけだから」だという。よって未来は、他校の女生徒からもやっかみや恨みを買っているから気をつけるようにと、数少ない友人が教えてくれた事がある。
『私に気を遣わなくていいよ。私は一人でも大丈夫』
何度、そう告げようとしたかわからない。言えないのは、そう言って本当に利久が離れていってしまった時、自分一人で現状を耐えきれるかわからないからだ。結局弟の気持ちに甘えている、そんな自分がいる事を、認識しているからだった。
しかし、利久には利久の人生がある。自分の問題で彼の夢を奪う訳にはいかない。いつかは言わねばならないだろう。そしてそのいつかは、きっと近い。
「あのね、利っくん」
極力笑顔を作って、弟にその言葉を告げようとした、その時だった。
『――みこ。戦巫女……』
頭の中に直接響くような声に、未来は足を止め笑顔を打ち消し、周囲を見回した。しかし辺りには人通りも無く、暮れかけた夕陽が姉弟と自転車を照らすばかりである。
「姉ちゃん?」
利久も立ち止まり怪訝そうに振り返る。
『応えよ、戦巫女』
再度声が聞こえた。ある程度年齢を経て落ち着いた、しかしどこか恐怖を煽る女性の声だ。今度は利久にも届いたらしい。警戒で顔を強張らせて、未来の腕を取り引き寄せようとする。
『我が呼び声に応えよ、戦巫女』
三度、女性の声が聞こえた。
反射的に弟の手を握り締めた未来が気づいた時には、二人は、背後から突然押し寄せた光の奔流に飲み込まれていた。まるで濁流に落ちたかのように上も下もわからず、身動きが取れないまま流される。それでも弟の手は離すまいと、意識を集中させていた未来の指先に、
『お前では、ない!』
また声が聞こえ、電流のような衝撃が手の甲を叩いた。痛みにびくりとすくめた瞬間、利久と手が離れる。
「姉ちゃん!」
「利っくん、利っくん!」
あっという間に弟の姿が遠ざかり、光の向こうに見えなくなった。未来の胸に恐怖が訪れる。このまま、何もわからぬまま、この光に溺れて人知れず息絶えていくのだろうか。じわりと瞳が潤んだ時。
『――こ!』
声が、聞こえた。
『俺の声に応えろ、戦巫女!』
先程の畏怖を与える女の声ではない。男性、いや、少年ともいえる、ひたむきさを感じさせる声だ。
『俺の手を取れ!』
ぐぐ、と首を回し声の方を振り向くと、光の中に、自分に向けて差し出された手が見える。恐れも疑念も差し挟む余地は無かった。それにすがれば助かるだろう、という本能とも言える反応で、未来は奔流に逆らい、無我夢中で己の手を伸ばして、その手をつかみ取った。