「……ト、ノト」
朝の光がゆるく視界に差し込む中、自分に呼びかけて、肩を揺する手がある。ああ、母の手か、とぼんやりと考えながら、しかし母の手にしては細いな、という思考も浮かぶ。それに、母にしてはやけに声が若いし、自分の名前もノトではない。ノーラだ。呻きながら毛布を頭からかぶり、夢の世界に戻ろうとした時。
「起きなさい。医師見習いが初日から寝坊とは、なかなか肝が据わっているわね、あなたも」
からかうような色を含みつつも、有無を言わさず現実に引き上げる力を込めた声と共に毛布をはがれ、意識は急速に覚醒した。
「まあ、『エイルの使徒』の力を使ったのだから、昨夜は相当疲労していたはず。今回だけは大目に見てあげるわ」
がばりと寝台の上に半身を起こせば、隈の浮いた褐色の瞳がこちらを見すえている。その色を見て、ノーラは思い出す。
そうだ。ここはアタラクシア王宮。自分は昨日城下街でレオンと出会い、ミラルカ・イーディスの見習い弟子と称して、王宮医師団の暗部を探る事になったのだ。
「すすすすいません!」
認識がはっきりすれば行動は速い。耳まで赤くなって詫びながら寝台から飛び降り、服を抱えて湯浴み場の脱衣所に駆け込む。男物の服に着替えて鏡をのぞき込むと、短くなった髪を恨めしそうに見つめている己の顔が映ったが、髪を切り落とされたくらいで嘆いている場合ではない。憧れのミラルカは、その首を切り落とされるかもしれない窮地なのだ。
水色の瞳で己の幼い顔をじっと見つめ、ひとつ、大きくうなずくと、ノーラは脱衣所を出る。畳んだ寝間着を寝台の上に置いて毛布を整えると、「そろそろ良いかしら」とミラルカが声をかけてきた。
「王宮医師は、仕事が立て込んでいる時以外は、騎士達と同じく食堂で食事を摂る決まりになっているの。道すがら私達が立ち入れる場所の案内もするから、ついてきなさい」
おだんご頭を綺麗にまとめ直し、昨夜のだらしない格好が嘘のように――いや前言撤回、白衣だけはよれよれだ――、彼女は華麗に踵を返し、部屋を出てゆく。ノーラは置いてゆかれないように小走りで後を追った。
昨夜はレオンについていくのが精一杯で目を向けられなかった廊下だが、今、窓から差し込む陽光は暖かく廊下を照らし、立ち並ぶ扉の横に掲げられた札を見るくらいの余裕はある。ここは王宮医師団の人間が集まっているのだろう。男性の名前が続いている。
やがて、薬品特有のつんと鼻を突くにおいが満ちて、診察室、処置室、調剤室、資料室といった、医師の実務に必要な部屋を通り過ぎ、
「王宮医師団の範囲はここまで。後は無闇に入ってはだめよ」
というミラルカの忠告と共に、大理石の廊下の区画は終わり、昨夜来た絨毯の敷かれる場所へと踏み込む。
きょろきょろと辺りを見回していたノーラは、ふと、開かれている窓から風に乗ってきた、妙に甘ったるいにおいに、惹かれるように外を見やり、そして、目をすがめてミラルカの袖を引いた。
「あれは、何ですか?」
医師は立ち止まって振り返り、ノーラの視線を追う。そして、「……ああ」と、嫌な物を見た、とばかりに眉間に皺を寄せた。
「太后様のお庭よ」
「たいこうさま」
「前王の妃殿下」
聞き慣れぬ言葉をおうむ返しにして小首を傾げると、ミラルカは瞳を細めてノーラを一瞥する。
「あの人のお母さんですか」
レオンの母親ならば、奔放な息子に手を焼いて苦労している話も聞けるのではないかと少し弾んだ声をあげたが、ミラルカはノーラの問いかけに、表情を凍らせた。
だが、それも一瞬の事で、彼女はすぐに無表情を取り戻し、「合ってるけど、違うわね」と謎かけのような返事を寄越して庭に視線を戻したので、ノーラも再び目を向ける。
石造りの小さなあずまやがある、そう大きくない庭だ。しかしそこには、少々派手――というよりは毒々しさすらある、紫色をした大輪の花が強烈な存在感を放って咲き乱れており、王妃という立場の人はこういうものを好むのだろうかという疑問さえ浮かんでくる。
「どの道、私達には立ち入れない高貴な場所よ。あなたが注意すべきは、ふらふら踏み込まないようにする事」
うっかりしそうよね、とやんわり毒を付け加えられて、ノーラは目を真ん丸くしてミラルカを見上げる。そうだ、あの狡猾なレオンと仲が良い女性なのだ。外面の落ち着きぶりや聞こえてくる名声からは想像のつかない牙を秘めていてもおかしくはない。
そんなノーラの上目遣いに気づいているのかいないのか、ミラルカは飄々と歩き出し、またしばらく後ろについてゆく。やがて、ふうわりと焼き立てのパンの香りが鼻腔に滑り込んできたので、ノーラの胸が期待に弾む。扉の無い入口をくぐれば、故郷の村の集会場より大きな部屋が姿を現し、何十人もの人々が、整然と並べられたテーブルと椅子にめいめい腰掛けて、食事を摂っていた。
「そこのカウンターから一人分がお盆に載って出てくるから、受け取って、好きなところに座って食べる決まり」
ミラルカの指し示す通りカウンターへ向かうと、白い調理着に身を包んだ恰幅の良い中年男性の料理人が顔を上げ、興味深そうに口髭をぴくぴく動かした。
「おや、お前さん、見ない顔ね。新入りかい?」
「はい。ノトと申します」
うっかり本名を口走らないよう、上がる心拍数を必死に押さえつけながら笑顔を作ると、「そう、そう」と相手はふくよかな顔をほころばせ、スープ皿にコンソメスープをたっぷりよそい、部屋に入る前に香ったにおいの素である、美味しそうなロールパンをふたつ、盆に載せて寄越してくれた。
「そんな細っこい腕して。おまけしておいてやるから、育ち盛りはよく食べて、よく寝て、ぐんぐん大きくなりなさいよ」
「ありがとうございます」
深々と礼をすれば、料理人は満足そうに微笑んで、次のミラルカの分の食事を用意する。彼女とノーラが並んでいる事で、関係性を悟ったらしい料理人は、
「あら、先生の新しい弟子だったの」
と更に相好を崩した。
「縁があってね。よろしく頼むわ」
「先生の頼みなら、こっちもますます気合いを入れて飯を作らないといけないわね」
どうやらミラルカは、この料理人とは良好な関係を築いているらしい。落ち目にあっても流石医師、相手を安心させる言葉を交わす事には慣れているようだ。そう判断したノーラは、彼女が盆を受け取るのを見届けると、座る場所を求めてぐるりとこうべを巡らせた。
朝食時のためか、席が空いていない訳ではないのだが、グループを組むだけでなく、時間が合わないのか好んでなのか、一人で食事を摂る者も多く、中途半端な空き方しかしていない。しばらく見回したところで、食堂の隅に、空席のテーブルを見つけ出し、そちらへ向かってとことこと歩いていった。
「おい、ミラルカだぜ」
「『死の魔女』が来たら、飯がまずくなる」
「しかもあんなチビを連れて」
「煮込んで喰う気か? ヒャッハ!」
「『奇跡の御手』もいよいよ色狂いかよ」
テーブルの間を通ってゆくうちに、こちらを見ている兵士や騎士達が聞こえよがしに囁き交わすのが耳に滑り込んでくる。台詞の全てを理解できた訳ではないが、どれもこれもミラルカを軽んじて、嘲っている事だけははっきりとわかる。頭に血が上って、何と言ったら良いかわからないがとにかく何か言い返してやろうと、足を止めようとすると。
「立ち止まらないで。関わってはだめ」
ミラルカの諦観を含んだ声が、耳元で囁かれた。
「相手にしなければいいの。私は慣れてるから」
それを聞いて、ノーラの胸がきゅっと締めつけられる。慣れている。それはこの半年間、彼女は独りでこの讒謗(ざんぼう)を浴び続けて、それでも反論せずにいたという事か。昼は医師として凜と立ち、夜には人知れず酒をあおり、心にわだかまる鬱憤の行き場を無くして、自分を追い詰め続けていたのだ。
本心を隠して振る舞う。なんて強い女性だろう。ノーラの脳内で彼女に対する評価は更に上がる。それは彼女を助けたいという思いをより一層深める。その為には、今ここで騒ぎを起こすべきではないと確信し、ノーラは何という事は無い体を装って、空いている席につき、その隣にミラルカが静かに着席した。
ロールパンは冷めてもまだ小麦粉の香りを程良くまとわせ、コンソメスープは飴色に煮込まれた玉葱のみじん切りが漂って、きっと口内に出汁の旨味が広がるだろう事を想像させてくれる。ほくほく顔で両手を合わせ、「いただきます」を言おうとした時。
「おはようございます、ミラルカ。同席させてもらいますよ」
ふっと向かいから声をかけられ、ノーラは顔をあげ、驚きにとらわれて目をみはり、ミラルカが隣で辟易したような表情をするのを、空気で感じ取った。
ミラルカの向かいにやってきたのは、青みがかった短い銀髪を持つ、二十代半ばと見える男性。つるの細い眼鏡の奥の瞳は、本でしか見た事の無い蒼海。にこにこと笑みを浮かべる優男風の印象は、一見相手を安心させる穏やかさを帯びている。
だが、ノーラの脳裏に一つの可能性をよぎらせたのは、その銀髪だった。
『青みがかった銀色の髪をした、笑顔の素敵なお医者様だったよ』
ミラルカに親しげに声をかけてくるという事は、彼も王宮医師なのだろうか。銀色の髪を持っている人間はそういないだろう。幼いノーラに『エイル』を投与したという医師の縁者なのではないだろうか。突然訪れた予感に、鼻の中から食事の美味しいにおいは吹き飛んで、全身が汗をかいている事がわかる。
の、だが。
「今日も愁いに満ちた顔をしていますね。『奇跡の御手』にそのような沈んだ表情は似合わない」
食事の盆をテーブルの上に置いて自由になった両手を広げ、彼がその唇から紡ぎ出した言葉に、ノーラは先程とは別の衝撃で瞠目してしまった。
「ああ、後ほどお部屋に薔薇の花束をお届けしましょうか。そうだ、白薔薇が良いですね。花言葉は『深い尊敬』。私からあなたへの敬意を表すのにぴったりではありませんか」
「私の部屋の状態を知ってて言ってるなら、最高の侮辱よね」
まるで口説くかのように口上を並べ立てる青年への、ミラルカの反応は実に淡白だ。淡々とロールパンをちぎっては口に運び、咀嚼の合間に反撃に出る。
「大体尊敬なんかしていないくせに。あなたの言葉はメレンゲより軽いわ」
「ああ、これは失敬」しかし、ミラルカの攻撃も青年にはこたえた様子がなく、まるで貴族のように優美に胸に手を当てて頭を下げる。
「お部屋のお掃除もままならないほど多忙を極めておられたのを忘れていました。では、私がお掃除を手伝いに参りましょう。元気が出る恋歌を口ずさみながら掃き清めて、テーブルの上に花を飾ります」
「恋歌なんてうんざりだわ。薔薇と一緒にあなたを窓から投げ捨ててあげる」
「これは手厳しい。『奇跡の御手』は難攻不落の砦ですね」
ノーラは思わず、場に巻き込まれないように平静を保って口に含んでいた水を噴き出しそうになってしまった。詩人のような美辞麗句を並び立てる青年と、明らかに彼を邪険に扱うミラルカの温度差はすさまじい。一体これは何なのだろうか。気持ちを落ち着けて口の中の水を静かに飲み込むと。
「ああ、君がレオンが言っていた、純粋な『エイルの使徒』ですか」
眼鏡の奥の蒼が、不意にこちらを向いた。青年は身を乗り出し、ノーラの耳朶を舐めんばかりの距離で、内緒話のように囁きかける。
「君については、マリアンヌ様との違いも含めて、今度じっくり診せていただきたいものです。甘い言葉でも交わしながら、ね」
ぞっと、怖気が背筋を這い上がってくる。口説かれた事に対しても、女だと割れているらしい事に対しても、彼には不信感しか覚えられない。『マリアンヌ様』というのが誰かも皆目わからず、ただただうすら怖さに駆られ、早くこの場を離れようと、青年を無視して食事に手をつけた時。
「おいおい、サイラス坊ちゃんとミラルカがつるんでるぜ」
明らかに人を見下す嘲りの声が降ってきたので、ノーラははっとしてそちらを向いた。