桃花の月 七日
王宮医師になりたくてスーリヤ村を出て数日。ようやっとアタラクシア王都メルンに辿り着きました。そこまでの道程は、色々目新しくて楽しい経験だったのですが、今日はそれをここに書いている場合ではありません。
最初は王宮前でそっけなく追い返されました。本当にあの衛兵さんはひどいです。意地悪です。村一番の頑固者であるゲンツキ爺さんより偏屈です!
王宮医師になりたいなんて夢のまた夢かとしょんぼりしていたところに、ええと、これ、お名前書いていいんでしょうか。いくらわたしだけが読み返すからって。誰かに覗き見されたらまずいですよね。とにかくある人の陰謀、もとい取り計らいで、王宮医師様の弟子として入り込む事ができました。
勿論、ずるっこなのはわかっています。もしばれたら、いくらあの人の言い出した案だとしても、いいえ、あの人だからこそ、あの人だけは責任を逃れるでしょう。そしてわたしが罰を受けるだけではなくて、故郷の皆にも累が及ぶかもしれません。
それでも、わたしはこの役目をやり遂げたいです。目の前で追い詰められている人がいたら、手を差し伸べずにはいられません。それに、わたしの能力は『エイル』という要素によるものだとわかりました。この力が役に立つなら、鬼でも蛇でも何でも来い、です!
明日からは医師見習いとしての日々が始まります。いきなり失敗しないように気をつけたいけれど、わたしはよく「ノーラはおっちょこちょいだね」って笑われるので、大丈夫でしょうか。皆さんに迷惑をかけないようにだけはしたいです。
そこまで書いたところで、筆先を紙から離し、万年筆に蓋をする。
幼い頃の記憶が無いノーラに、『また忘れても思い出せるように』との亡き祖母の奨めでつけ始めた日記。どんな些細な事でも、どんなに短い文章でも、その日あった事、思った事を書き留めるようにした。それも年に一冊ずつ溜めてゆき、十冊目になっている。だが今日は、遭遇した出来事があまりにも大きすぎて、逆に書ける事が少なくなってしまった。
一ページに刻まれた出来事のインクが乾くのを待ってから、そっと日記を閉じる。それを万年筆と一緒に荷物袋の中に再び仕舞い込んで、明かりを消し、中途半端に開いたカーテンの隙間から差し込む月明かりを頼りに、割り当てられた寝台に潜り込み、毛布を肩まで引き上げる。
本当に色々ありすぎて、知らず知らずの内に疲れがたまっていたのだろう。眠りの腕(かいな)はノーラをそっと抱き締めて、あっという間に夢の世界へと誘うのであった。
『誰か! 誰か来てくれ!!』
普段閑静な村の中に、悲鳴じみた少年の声が響き渡る。
『父ちゃんが屋根から落ちた!』
切羽詰まった様子に応えるように、あちこちの家から村人が飛び出し、声の出所の家に駆けてゆく。
『屋根に昇って藁を葺き替えてたら、足を滑らせて……』
自分の友人でもある少年が、今にも泣き出しそうな涙声で訴えかける。その足元には、頭から血を流して白目をむいている中年の男性。少年の父だ。
『ああー、こりゃあ、やばいよ』誰かが呑気に言う。
『頭が割れてる。助からない』また誰かが非情な言葉を放つ。
『今から医者を呼びにいっても、常駐しているのは山向こうだろ? 間に合わない』
大人達は口々に諦めの囁き合いを交わし、それが耳に届いただろう少年は、絶望的な表情を顔に満たす。それを目にした途端、己の中で何かが耳打ちした。
まだ、間に合う。と。
何故、それを信じたのかはわからない。どうして方法を知っていたのかも考えつかない。だが、野次馬をかき分け友人の父親のもとへ進み出ると、反射的に近くに落ちていた、藁の束を切り揃える小刀を手にして、左腕に滑らせた。熱と共に、赤い液体が溢れ出す。不思議と痛みは感じなかった。恭しく戴くように己の血を舐め取り、男性に左手をかざす。途端、手の甲に翼持つ獣の紋様が浮かび上がり、青白い光が放たれたかと思うと、男性に吸い込まれる。
すると、誰も予想だにしていなかった事態が起きた。男性の白目がぱっと黒目を取り戻し、『あれ、俺は屋根から落ちたのに……』と不思議そうに首を振りながら上半身を起こしたのである。
『と、父ちゃん!』少年がすっかり涙の引っ込んでしまった驚き顔で父に取りすがる。『何ともないのかよ!?』
『何とも何も』父親も戸惑いを隠せない様子で首を横に傾ける。『一面の花畑に亡くなった爺さんがいたんだが、「神様の遣いがお前を救ったから、向こうに戻れ」って追い返されたんだよ』
その場にいる全員の視線が自分に集まる。
『神様の遣い』誰かが洩らす。
『こいつが?』誰かが笑いを放つ。だがそれは、こちらを馬鹿にしたふうではなく、今眼前で起きた超常現象を信じられなさすぎて、といった様子だ。
『神様の遣いだよ!』
友人がきらきらと輝く面持ちで両腕を広げる。
『この村にはもう医者なんて要らないんだ! 神様の遣いがいるんだから!』
その宣誓に、ざわめきはさざ波のように人々の間に広まってゆく。しかし、当の本人は。
『……おなかすいた』
ぎゅるるるるう……と盛大な腹の虫を鳴かせて、縮こまるのであった。
その後、母がお釜一杯炊いてくれたごはん、焼き上げた肉料理も魚料理も平らげ、友人が礼に持ってきてくれた、朝採れたての西瓜を半分に割ったものをしゃぶり尽くすと、ようやっと人心地を得た。
ちら、と小刀を走らせた左腕を見やる。たしかにそんなに深くは切りつけなかったが、傷口は既に塞がって流血も止まり、薄い痕だけになっていた。
次の日以降、『神様の遣い』の噂は村中に広まり、力を頼って訪れる者は次々と現れた。元来お人好しな性分だから、自分の身体を傷つけてもすぐに治るとわかったのもあって、己の血を口に含み、『神様の遣い』の力が発動するのを願った。
その中でわかったのは、『神様の遣い』の力は、本当に生命の危機にある者に対してのみ発動するのであって、軽症の病人や怪我人には作用しないという事。
『ちぇっ、このけちんぼが!』
唾を吐き、あからさまな悪態をついて去っていった男は、大酒飲みで、自分でうっかり割った瓶で手を切っただけだったので、誰にも同情されなかった。むしろこちらが『あんなろくでなしの言う事なんか気にしなくて良いんだよ』と親切に声をかけられまくった。
青白い光を放って力を使うと、反動か物凄くおなかが減る。その度に母はご飯をたくさん炊き、おかずを目一杯作って、
『お前が神様の贈り物を使って頑張っているから、たくさん食べて褒めてもらって良いっていう証拠だよ』
と労ってくれた。
だが、人間というものは簡単に掌を裏返す。
『来てくれ!』
最初に屋根から落ちた父親を助けた少年が、息せき切って乗り込んできて、庭で洗濯物を干していたこちらの手をつかんで有無を言わさず走り出した。
『母ちゃんが! 母ちゃんが死んじまう!』
少年の駆ける速さについていけなくて足をもつれさせながら、そういえば少年の母親は身体が弱く、特にこのところ病で伏せがちだったのだと思い出す。少年がこれだけ焦るのだから、危篤状態に陥ったに違いない。
救える命は救いたい。少年の家へ駆け込み、奥の部屋へ行けば、彼の父と妹が涙でぐしゃぐしゃの顔をこちらに向ける。少年に手を引かれるまま寝台に近づけば、その上で、やつれきって薬のにおいを漂わせる女性が、かっと目を見開き、口は中途半端に開いて吐瀉物を垂れ流した状態で、硬直していた。少年の母親だ。元気な時は美味しいベリーのマフィンを焼いてくれた穏やかな面影は、今やどこにも無い。
大丈夫、まだ間に合う。
そう自分に言い聞かせて、腰の小刀を抜いて腕に走らせる。何故かいつもは感じない痛みを覚え、心臓は緊張にばくばくと高鳴っている。
血を唇に含んで、左手を女性の上にかざす。だが、五秒、十秒、三十秒待っても、手の甲に翼持つ獣の紋様は浮かばない。青白い光は放たれない。
『何でだよ!?』
頭からざっと血の気が引いたところに、少年につかみかかられ、体勢を保つ事ができずによろめいて、床に尻餅をついてしまう。傍にあった椅子に背中をぶつけたが、続いて襲ってきた平手打ちに、身体の痛みを超えて心の衝撃が走った。
『あれだけ期待させといて、肝心な時に役立たずか!』
かつて命を救った父親が、悪鬼のごとき形相で殴打の雨を降らせる。このままでは殺されかねない。自分にできる精一杯の身のこなしで次の拳をかわし、まろび出るように家から逃げ出す。
『人殺し!』『何が「神様の遣い」だ、大嘘つきめ!』
心底からの恨みのこもった言葉が、体罰よりも深く胸に突き刺さる。駆け足はやがてのろのろとした歩みに変わり、ぽたり、ぽたりと地面を小さな範囲で濡らしながら家路を辿る。
『どうし……』
たの。母の言葉が途切れる。洗濯物干しをすっぽかして帰ってきた娘の、あんまりな姿を見て、全てを察してくれただのだろう。母は無言でこちらをぎゅうっと抱き締め、『悪くない。お前は悪くない』と、祈りのように繰り返す。その言葉が心に沁みて、目の奥が熱くなり、怒濤のように涙が溢れ出したが、声にして放つ事はできず、ただ歯を食いしばって、呻くような音を洩らすばかりだった。
『あの一家は追放する。やりすぎたんだよ』
夜が更けて遅い時間になり、こちらが寝ているものと思ったのだろう。昼間の動揺から眠れずに何度目かわからぬ寝返りを打った時、食堂の方から、両親と村長が話しているのが聞こえてきた。
『やはり……の子を引き取ったのは……だったのかもしれぬ』
『村長さんまでそんな事を!』
『落ち着け。……が起きる』
『だって、だって……』
扉越しの会話は途切れ途切れで、時折大事な言葉を拾い損ねる。だが、自分の事に言及しているのはたしかだ。
『……出てゆくよう促すか、もしくは釣り合う……に……て「神様の遣い」を……だな』
全ては聞こえなかった。だが、自分がこの村にずっといては、皆に不幸をもたらす存在にしかなり得ないのだと思い知った。頼りにされるからと、自惚れすぎていたのだ。
じんわりと枕が濡れる。
声を殺して涙を流しながらも、この時既に、心は定まっていた。