ニゲルが襲撃してきた。
エリメラが、レナが倒れた。
兄が
それらの点が、全く線で結びつかないのだ。
「会いたかったよ、ユヅカ。無事で良かった」
ヒューゴは両の
「どうして……」
「どうしてって、お前が連絡を寄越してくれたじゃあないか。アルブスのシンワの屋敷にいると。だから私が直々に迎えにきたんだよ」
そう。たしかに街竜でウィリディス宛てに手紙を出した。時間的にそれが兄の元へ届いてもおかしくない。だが、今問うているのはそんな事ではない。
「どうして、エリメラさんやレナを殺したの!?」
すると、ヒューゴは全く想定外の質問を受けた、とばかりにきょとんと目をみはり、それから、口元を歪めた。いつも柔らかい笑顔でユヅカの頭を撫でてくれたのが嘘のような、邪気に満ちた笑みだった。
「何を言うんだい、ユヅカ。シンワ達こそ、お前をさらって手元に置いた、悪しき一味じゃあないか。成敗されて当然だろう」
違う。ユヅカは心の中で即座に否定する。
この屋敷の人達は、ユヅカに優しかった。温かく接してくれた。衝突する事もあったが、理解しようと努力すれば、それだけの反応を返してくれる人達だった。決して、死んで当然などという者は、一人たりともいなかった。
それを、兄は否定するのか。彼の方こそ悪逆非道な輩に見えて、ユヅカは顔におびえを宿しながら更に一歩後ろへ下がる。が、踵が、続いて背中が壁に阻まれて、それ以上後退する事はかなわなかった。
「誘拐された者は、誘拐犯に親愛の情を抱く事で、身の安全をはかろうとする、というからね」
兄の手が伸ばされて、ユヅカの顎に触れる。温かい感触は、いつもなら心地良く思えたのに、今はただひたすらに、不気味としか感じない。
「お前は少し混乱しているだけなんだよ。さあ、一刻も早くこんな場所を去って、一緒に帰ろう」
返答は、ぱん、と音を立てて手をはねのける一発だった。ユヅカはぎんと瞳に力を込めてヒューゴを見すえる。兄の言葉が正しいと思えない。兄の言う事を聞く気になれない。
ヒューゴは妹に反発を受けたのがあまりにも意外だったのか、灰色の目を見開いて、唖然としていた。しかし、一瞬の後には、はたかれた手をさすりながら、歪んだ笑みを顔に張りつける。
「困った子だな。ここにいる内に、余計な感化をされたのか」
ぐい、と。頭を引き寄せられたかと思うと、唇が重なる感触がした。どんなに仲の良いきょうだいでも、いや、きょうだいだからこそ、してはいけない行為だというのは、ユヅカも重々知っている。驚きに頭が真っ白になったところへ、口内に液体が流し込まれるのを知覚する。舌に触れる苦みに吐き出したかったが、唇を塞がれてはそれもかなわず、飲み下す事を余儀無くされた。
「……やっ!」
両腕に精一杯の力を込めて、相手を突き飛ばしたが、兄は口の端から流れ落ちる液体を指で拭いながら、満足げに目を細める。それを睨みつけていたユヅカの視界が、ぐらり、と揺らいだ。
口の中の感覚が失くなる。手足が震えて、関節もがくがく笑い出す。立っている事がかなわなくなって床に膝と両手をついたが、自重を支える事すらできず、ユヅカは絨毯の上にくたりと倒れ込んだ。
「ニゲル特製の麻痺毒だ。大丈夫、即効性はあるが後遺症は無い」
ヒューゴが近づいてきて身を屈め、ユヅカの顔を覗き込んで、やたら嬉しそうに笑ってみせる。
「私の大事な大事なお前を、無闇に傷つけたくはないからね。しばらく大人しくしていておくれ」
そうして彼は、抵抗できないユヅカの身体を横様に抱え上げる。兄に抱っこをしてもらった記憶は、遠い日にある。だが、今彼の腕に抱かれるのは嫌悪感しか無い。何とか逃れられないかと身をよじろうとしたが、身体はぐったりと脱力して、全く言う事を聞かない。
連れ去られる。
帰る、ではなく、そう感じて、恐怖が胸を這い上がってくる。心が無意識に、ただ一人に助けを求めた時。
「――ユヅカ!」
この数週間で聞き慣れた声が廊下を駆け抜け、ヒューゴが舌打ちしながら振り返り、ユヅカは自由にならない唇を、少しだけ安堵にゆるめた。
月光に冴えるざんばらの黒髪。険を帯びた青の瞳。
「ヒューゴ! そいつを離せ!」
イルギッドは、腰に帯びていた短剣を鞘から解き放ち、油断無く構えて、こちらとの距離を測りながら激昂する。
だが、ヒューゴは警告を受けても、何ら動じる事は無かった。むしろ面白がるように肩を揺らし、
「そうか、そうか。お前がシンワの元にいたのか」
心底から嘲るような口調で、イルギッドを呼んだ。
「
と。
イルギッドの表情が、何かとてつもなく苦い物を口にしたかのように歪む。だが、彼はすぐに気を取り直すと、「その名は捨てたんだよ」とヒューゴを真正面から見すえた。
「ユヅカが俺に名前をくれた。今の俺はイルギッドだ。貴様の狗じゃねえ!」
それでもヒューゴがイルギッドを見下す態度は、消える様子が無かった。
「では、狗でも野良犬でもない事を証明してみせるんだな!」
哄笑しながら、ユヅカを抱いたまま、廊下の窓から外へと身を躍らせる。浮遊感の後に訪れる落下感に、ユヅカは血の気が引いたが、闇を裂いて現れた黒いフテラが、二人を受け止めた。兄のフテラだ。
ヒューゴはユヅカを腕の中に収めつつ、手綱を操る。途端にフテラが空の『果て』へ向かって上昇を始めた。草原にいた頃は、一緒に空を飛びたくて仕方無くて、乗せて欲しいと駄々をこねて兄を困らせた。だのに、その夢が叶った今になっては、ただただ恐怖しか浮かばない。
眼下では、シンワの屋敷がところどころ爆発を起こしている。エリメラの命を奪った爆発物だろう。自分が街竜で独断専行した事が、こんな悲劇をもたらすとは思っていなかった。後悔しても、もう誰にも謝る事が出来ない。
フテラが『果て』に突っ込み、耳の閉塞感と息苦しさが訪れる。このまま息が止まってしまうのではないかという恐れさえ浮かんできた頃、風を切り急接近してくるもうひとつの羽音が聴こえた。
茶色のフテラ。イルギッドだ。彼の砂希『シャチ』が傍づいている。
二羽のフテラが『果て』を抜け、銀色の半月が輝き、星がまたたく宵闇の空へと飛び出す。風がびゅうびゅうと吹き、髪を、衣の裾をかきあげても、イルギッドは怯む事無くフテラを突っ込ませてきた。
「野良犬じゃあねえんだよ!」
イルギッドが我鳴り、『シャチ』が突撃してくる。だが、対するヒューゴは、一分の動揺も見せなかった。手綱を絡みつかせたままの手を掲げて、
「『バレルアイ』」
静かに、名を呼ぶ。
その途端、呼応するように、先程の黄緑の眼球を持った砂希が空中に現れたかと思うと、その目から同じ色の光線を放った。光線は過たず『シャチ』の胸部分を貫き、イルギッドが苦悶の声をあげて、『シャチ』は砂と化してゆく。砂希に砂希の攻撃をぶつければ、精神が傷つく事があると、かつて彼が言った。目に見えない傷を負った可能性があるだろう。
だが、ヒューゴはそこで攻撃の手を緩めはしなかった。『バレルアイ』と呼ばれた砂希が更に光線を放ち、今度はイルギッドの脇腹を射抜く。
ぐらり、と。
彼の長身が揺らぎ、宙に血の花をまき散らしながら、フテラから投げ出される。何も無い空中を、彼の身体が落下して、銀色の雲の中へと消えてゆく。彼のフテラがまっすぐに追いかけたが、追いつく事がかなうだろうか。
彼を助けられなかった。何も出来なかった。
(私は、また何も出来なかった)
その思いが脳裏を巡った途端、鋭い頭痛がユヅカを襲った。知らないはずの光景が、泉が湧き出すように次々と浮かんでくる。
『イルギッド! イルギッド!!』
幼い自分が、彼の名を呼んで泣きじゃくっている。
『あいつはもういない。でも、悲しむ事は無い』
血に塗れた誰かが振り返る。邪神のごとき凶悪な笑みをたたえて。
『これからは、私がお前の「兄」となろう』
その顔が、今自分を抱いている男と重なった瞬間、身を引き裂くような更なる痛みに見舞われて、ユヅカは闇の底へと意識を手放した。