『ちいさなしあわせつづくよに』


 フォルティアから、冬が去る。
 雪は解け、気候は次第に暖かくなり、フェーブル城でも、中庭の花たちが、次々とつぼみを膨らませ始める。
 春が、訪れる。
 ファルスディーンは、四季の中で、春が最も好きだ。理由のひとつは、冬を終えて、人々が活気づき始める。フォルティアの人々の、朗らかな姿を見る事が出来るから。
 ふたつめは、亡き母が最も愛した季節でもあるから。体調が良い日には、ファルスディーンを連れて中庭に出、ほころぶ花々を愛でて、笑顔を洩らした。そんな幼い幸せの記憶を、思い起こさせる。
 みっつめは、やはり春を愛する、大切な人が、居るから。
「ファル」
 その、大事な一人が自分を呼ぶ声がして、ファルスディーンは振り返った。軽やかな足取りでこちらにやって来る彼女の姿は、かつて母がそうして、笑みながら息子のもとへ歩み寄ってきた、その光景と重なって、既視感と、うずくような甘い懐かしさを覚えさせる。
未来みく
 名前を呼び返すと、焦茶に近い黒の瞳が、親しみをもって細められた。
 長い年月を経て再会した時、未来は迷わず、自分の手を取ってくれた。自分と共に生きる事を、真の望みとして、女神アリスタリアに願ってくれた。
 愛娘を異世界へ永遠に連れて行かれるのだから、彼女の父親には、一発以上殴られる覚悟もしていたのだが、しかし実際は、とても丁寧に頭を下げられ、母親には、
「まあ、この子は、色々と迷惑かけるだろうけど、よろしくね」
 とあっけらかんと送り出された。寛大な人達だと、そして、そんな両親に愛情を注がれて育ったゆえの、未来の優しさなのだと、ファルスディーンは思う。
 未来がフォルティアの名を持つ人間になった日、純白の花嫁衣裳をまとった彼女が、フォルティアの人々に歓喜をもって迎えられた理由は、彼女がかつて、この世界を救った英雄、戦巫女であるからという事実が一番だが、もうひとつ有る。王座を継いだファルスディーン自身が、フォルティアの象徴とも言える瞳と髪の色を持たない、異端児と呼ばれながらも、その短所に負けぬだけの王としての貫禄を身につけ、誰にも見くびられぬだけの施政を行い、家臣や臣民達の信頼を得てきた十数年の積み重ねが、根底に有ったからだ。
 それから2年が過ぎた。その2年の間に、未来が、彼女の世界からこちらに持ち込んだ文化で、世間に浸透したものがある。
『バレンタイン』
 異性に愛情を伝える為に、チョコレートを贈る習慣。ファルスディーン自身も昔、彼女からもらった事が有る。あの頃はまだ、義理と本命の狭間だったが。
 バレンタインというイベントは、あっという間にフェーブル城内から城下街に浸透し、フォルティア全土を越え、ネーデブルグやステアにも広まった。伝えるものは慕情に限らず、贈るものもチョコレートに限らず、誰もが気軽に親しい人への感謝の念を示す行事として、定着した。
 そのお返しもある、と未来が言い出したのは、去年だった。
『ホワイトデー』
 3倍返し、などとも言われるらしいが、とにかく、バレンタインに贈り物をしてくれた人へ、感謝の気持ちを返す日だ。
 恩を受けたならば、同じだけ、もしくはそれ以上のものを贈り返すのは、自然な流れだろう。これも抵抗無く、人々に受け入れられた。
 そうして、ファルスディーンも、未来に、今年のバレンタインのお返しをする事を決めていた。その為に、彼女をこの中庭へ呼び出したのだ。
「なに、見せたいものって?」
 不思議そうに小首を傾げる未来に、ファルスディーンは手招きして傍へ呼び寄せ、薔薇の花壇を指し示す。
 まだ多くの花がつぼみの中、華麗な花弁をほころばせる、彼女の好きなオレンジ色をした、薔薇があった。決して大輪ではなく、特有の派手さは無いが、その繊細さがかえって、愛らしい印象を与える。
「庭師が初めて、この色を咲かせる事に成功したんだ」
 黒の瞳を見つめ返して、ファルスディーンは、紫の瞳を、優しげに細める。
「この新種に、お前の名前をつけたい」
 たちまち未来の表情が、驚きへと変わった。我ながら、気障で恥ずかしい事をしていると思う。これが10年前だったら、絶対にしないような真似だ。もしかしたら彼女も、気取りすぎだと吹き出すのではないかと、少々不安に思っている。
 だが未来は、笑い飛ばしたりしなかった。嬉しそうに破顔したかと思うと、伸ばした腕をこちらの肩に回して。
「ありがとう、ファル。嬉しい!」
 心底からの喜びを、伝えてくれる。
 ほっとして、それから、こちらからも腕を伸ばし、抱き締める。すると、未来は腕の中で身じろぎして、顔を上げた。
「嬉しいついでに、もっと嬉しくなる事、私からも伝えていい?」
「何だ」
 一体何だろうか。想像がつかずにファルスディーンがきょとんとすると、未来はくすりと笑みを洩らし、かかとを上げて、こちらの耳元で、こそりと囁いた。
「……本当か」
 しばしの間があった後、ファルスディーンが呆然と呟くと、
「うん」
 未来は最高の笑みを返してくれる。
 実感がやって来るのに時間がかかり、それからようやく、喜びが溢れてきた。
「とりあえず……」
 彼女が、楽しそうに告げる。
「Fで始まる名前を考えるところから、始めよう」
「そこからか?」
「そこからだよ」
 2人はくすりと笑みを交わし、そうして、絆を確かめるように、再度抱擁を交わす。
 この笑顔が。小さな幸せが。大きな喜びが。穏やかなこの世界が。
 いつまでも続くようにと、願いながら。

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