『光の名前』


 あの日も今日のように、今にも雨が降りだしそうな曇天だった事を、ファルスディーンは、はっきりと覚えている。
 幼い自分は、城の中庭で、そんな空には目もくれず、下を向き、両目から溢れて地面にぽたぽた落ちるものを、必死に押し留めようとしていた。
 母の葬儀だった。
 一族の者は青い髪に金色の瞳を持つのが当然だった、フォルティア王家に嫁ぎながら、赤い髪に紫の瞳と云う子供を産んだ母は、父の愛を失い見放され、周囲からも影に日向に虐げられて、病床から離れられなくなり、遂に命の灯が尽きた。
 異端児として扱われ、心底から敬われる事の無かった王子の味方は、母だけだった。
『ファル、お父様や、皆を嫌っては駄目よ』
 ベッドの上から、白く細い腕を伸ばし、息子の頭を抱き寄せて、彼女は優しく告げたものだ。
『辛い思いをしたならば、その分だけ、他の人に優しくしてあげなさい。そうすればきっといつか、貴方の事を、大切にしてくれる人が、現れるから』
 その母が死んだ。ファルスディーンの世界から、光は消えたのだ。

 葬儀を抜け出しても、表立って咎める者は居なかった。どうせ父は意にも介さないだろうし、今頃家臣達は、「これだから異端の王子は」と、嫌味な笑みで囁き合っているに違い無い。
 余計に口惜しくて、こみ上げる感情のはけ口として、手近に咲いている花をぶちぶちと千切っていると。
「そのような事をされては、花が可哀想ですよ」
 背後から突然声をかけられ、ファルスディーンは、目に見えるほど、びっくうとすくみあがってしまった。
 のろのろ振り返ると、一人の騎士が、穏やかな笑みを浮かべながら、歩み寄って来るところだった。否、騎士と呼ぶには、まだ若すぎる少年だ。恐らく成長期の途上だろう、まだ子供の体格の面影を残す身体に、大人物の騎士服は大きすぎて、やや丈が余っている。
 しかし、その深緑の瞳には、大人びた知性の光がたたえられて、自分より遙か歳上なのではないかと云う印象を与えた。
「泣いていらしたのですか?」
「泣いてなんかいない、おれは王子だぞ!」
 その瞳に、全てを見透かされているような気がして、ファルスディーンはそっぽを向き、強気を装った声をあげて、ぐしぐしと涙を拭う。しかし。
「いいんですよ」
 少年から告げられた言葉は、自分の想像の範疇に無い、考えすらしないものであった。驚いて見返すと、少年は、優しく微笑む。
「今、僕の前では、王子でなくても。王子だからと、いついかなる時も感情を殺す必要は、ありません」
 常に人を疑って生きて来たファルスディーンの胸に、それは初めての、母以外の人間が放つ、他意の無い言葉として染み入った。目をみはって立ち尽くしてしまう王子に、少年は言葉を継ぐ。
「僕はその為に、貴方の騎士になるのですから」
 そうして、自分の前にひざまづく少年に、雲が晴れ始めた空から、光の筋が降り注ぐ。その光景は神々しくさえもあり、ファルスディーンの目から流れ落ちるものは、拳を握り締め、歯をくいしばっても、際限を無くした。

 それは生まれて初めての、自分に敬意を払ってくれる人物との、無二の友となる男との、出会いであった。
 その存在は自分にとってまさしく、雲間からさしこんだ、一条の光のようだったと、20年近く経った今も、ファルスディーンは、思う。
 彼が傍らで支えてくれたからこそ、自分は、王族としての矜持を失わず、自暴自棄になる事も無く、敵ばかりの城の中で、王太子として立ち続ける事が出来たのだ。
 そして、命を永らえる事も。
 彼の命と引き替えに、自分は今を、生きている。その命を無駄にはしないと、王になった時、彼の墓前で改めて誓ったのだ。

 そして、もう一人。ファルスディーンの人生に、光を与えてくれた人物が居る。
 12年と云う歳月が流れても、色鮮やかに覚えている、金の瞳。年齢より少し幼く見える、子供のように怒ったり、とめどなく泣いたり、可愛らしく笑ったりする顔。
 ファルスディーンに初めて、誰か個人を守りたいと、愛おしいと思う感情を与えてくれた少女は、しかし別れを告げて、去った。
『ファルが早く、私の事を忘れて、幸せになれますように』
 それが彼女の願いだった。
 だが。
 ファルスディーンは彼女の事を忘れなかった。むしろ、歳を重ねる毎に想いは募り、もう一度会いたい気持ちは膨らんでゆく。
 女々しく未練がましいのは、百も承知だ。周囲の者も、歳と現実を考えて、そろそろ后を娶れと背中を小突く。
 だが、執務の合間にこうして、彼女が消えた中庭に来ては、思い出の銀の鈴を鳴らして、知らぬ別世界に生きているだろう彼女に、想いを馳せるのを、やめる事は出来なかった。ここに来れば、いつか再び、フォルティアと向こう側が繋がり、彼女に会えるのではないかと、薄い望みにすがって。
「……未来みく
 行く末と云う意味を持つ光の名を呼び、鈴を鳴らす。
 応えは無い。あるはずも無い。それでも、呼びかけずにはいられない。
「未来」
 呟きは風に乗り、ファルスディーン以外の誰の耳に届く事も無く、空に吸い込まれる。
 その空を見上げ、ひとつ、深く息をついた後、いつものように、夢想に浸る時間に終わりを告げ、中庭を離れようとした、まさにその時だった。
『ファル』
 耳に届いた、懐かしい、懐かしすぎる声に、歩を止める。
 柄にも無く、頬が紅潮し、心臓が早鐘を打つ。
 そんな訳が無い。彼女がここに居るはずは無い。頭は冷静に考えながら、しかし心は奇跡を信じた。
 ゆるゆると、ぎこちなく、ファルスディーンは首を巡らせる。雲の間から、天使の梯子のような光がさし、中庭を照らす。
 それは、彼の心に再びともった、輝き。その光の名を、彼は大事に、大切に、音に乗せた。
 今度こそ、消えないように。この手の中から、こぼれ落ちて、失われないように、願いながら。

「……未来」

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