『羽虫と猫』


 魔物退治に飛び回るファルスディーンと共に、フォルティア国内を転戦して、ナサリダと云う、古い都市に行った時だった。
「申し訳有りません、戦巫女様、ファルを探して来てくださいませんか。我々も手分けしているのですが、まだ見つからないのです」
 他の騎士達の居る手前、他人行儀な口調になるスティーヴに頼まれて、未来は、騎士団の駐屯場所になっている古城の廊下を、一人歩いていた。
 フォルティアにとって尊い戦巫女に、供の一人もつけないのは、不用心極まり無いのかも知れないが、未来も以前のように、何の力も無い、名ばかりの戦巫女ではない。己の身は己で守れる。その気になれば、この城全体を、銀の光で覆って、外敵から守る事も可能だろう。言葉さえ奪われなければ、実質、最強だ。それに、魔物の出没する郊外ならともかく、都市中心部のこの城内ならば、そうそう危険もあるまい。
 しばらく廊下を進んで、中庭にさしかかった時、未来は、どこからか聞こえて来る笑い声に、歩を止めた。
「お前、どこから来た? 野良にしては立派な毛並だな。いい食べ物を、分けてもらっているのか」
 随分と親しげに話しかける声色が、普段のそっけない態度からは想像もつかないが、それは間違い無く、ファルスディーンのものだ。未来は中庭に出て、きょろきょろと辺りを見渡し、そして、まさに今自分が歩いて来た廊下の屋根の上に、探している当の本人が居るのを見つけた。
「どうだ、一緒にフェーブルに来るか? もっといい物を、食べ放題だぞ」
 ファルスディーンは、屋根にごろりと寝転がり、その腹の上に、猫―あの模様はキジトラとでも言っただろうか―を乗せていた。彼か彼女か、とにかく猫に向けられる紫の瞳は、未来には見せた事も無いくらい優しくて、両手で抱き上げ顔に近づけて、「にゃーん」などとまで言っているではないか。
 猫が、好きなのか?
 心底から驚愕した後に、笑いがこみあげて来て、未来が変な表情のまま固まってしまうと、さすがに視線に気づいたらしい。ファルスディーンははっとこちらを向き、たちまち、緩んでいた表情を、むっつりとしたものにすり替えて、身を起こした。
「何だ」
「……猫、好きなの?」
「別に」
 何とか言葉を探した未来の問いに、顔を逸らし、今更ながら、興味など有りませんとばかりに、猫を脇にどかす。急につれない扱いを受けた猫は、不満そうに、みゃあみゃあ鳴いたが、やがてファルスディーンへの興味を失い、ついと顔をそむけて、立ち去った。その後姿を見送るファルスディーンの瞳に、密かに、残念そうな色が宿っていた事は、言うまでも無い。
 しかしファルスディーンも、猫を目で追う事を諦め、立ち上がると、まるで自身が猫のように身軽に、ひらりと屋根から未来の前へ、飛び降りて来た。
「それで。何の用だ」
 折角の楽しみを中断させられた不機嫌を隠しもせずに、紫の瞳が見すえて来る。
「スティーヴ達が探してたの。貴方に話があるみたいだった」
「何だ、そんな事か。お前が呼びに来るなんて、魔物が出たりでもしたのかと思ったぞ」
 ふうと息をつきながら、その燃えるような赤毛の頭をかき、それから、ファルスディーンは、未来を真正面から見たところで、あ、と小さく声をあげた。
「な、何?」
 突然、一体何なのか。妙にどぎまぎして、視線を逸らしながら未来が問うと、ファルスディーンは、未来の頭を指差しながら、一言。
「虫」
「え?」
「羽虫が髪についている」
 途端、未来はさーっと自分の顔から血の気が引くのを感じた。
「嫌ーッ!!」
 理性と云うものをすっ飛ばして、最早本能で、口からかん高い叫びがほとばしる。
「取って! 取って取って取ってー!!」
 ファルスディーンが吃驚して、しばし立ち尽くした後、戸惑いながらも手を伸ばした。親指の先程の大きさも無い、透明な羽を持つ小さな虫が、彼の指につままれて、じたばたと、細い足をばたつかせる。
「やって! どこか、見えない所に!」
 それを絶対に見ないように顔を背けたまま未来が怒鳴ると、ファルスディーンは、後方へ振り返って、羽虫をつかむ指を離す。解放された虫は、透明な羽を羽ばたかせ、あっという間に、秋の空へと飛び去った。
「一体何だ。そんな、小さな虫ごときで」
 ファルスディーンが、少し呆れた様子で向き直る。
「大体、お前は戦巫女なのだから、力を使って払うなり、燃やすなりしてしまえば、済む事だろうが」
 しかし、未来はまだばくばく言っている心臓の音を抑えながら、涙目で、切れ切れに返す事しか出来なかった。
「虫は、虫は……駄目なの。小さい、頃から」
 未来にとって、虫は、過去の嫌な思い出に直結する。金色の瞳を理由に、子供特有の無邪気な残酷さでさんざんからかわれ、悪意をぶつけられた時、元々、未来が虫を苦手にしている事を知った彼らは、毛虫だの、団子虫だの、みみずだのを棒切れの先にひっつけて、未来を追い回した。未来が足をもつれさせて転び、膝を盛大にすりむくと、より一層、愉快だとばかりに笑い声をあげて、虫を鼻先に突きつけた。
 そんな記憶を刻まれて、虫を大嫌いにならない方が、不思議である。
 未来のそんな告白を、ファルスディーンは、腕を組み、表情を動かさずに聞いていた。が、やがて、ぼそりと洩らす。
「大人気無い」
 未来は一瞬、自分の事を言われたのかと、どきりとした。しかし、ファルスディーンが続けた言葉は、予想の反対側を行く。
「そのように、他人の弱点を笑い物にする連中は、大人気が無さすぎる」
 彼がそんな意見を述べるのが意外で、未来は思わず、金の瞳をみはってしまう。すると、強気な紫色が、見返して来た。
「お前もお前だ。そんな低俗な奴等に、やられっぱなしで泣き寝入りするな。しゃんとしていろ」
 まあ、彼なら厳しい言葉を放つだろう。はなから、親切な台詞など期待してはいなかった。未来が溜息をつき、うつむくと。
「だが」
 ファルスディーンが付け足した。
「この世界に居る内は、虫がついたら俺に言え。取るくらいは、してやる」
 未来がきょとんとしている間に、王太子は、さっさと踵を返し、立ち去った。残された未来は、しばし、彼が放った言葉の意味を探して瞬巡し、やがて思い至る。
 いつもの、どうにもわかりづらい、彼なりの気の遣い方だったのだろうか、と。
 触れられた髪に、そっと手をやると、今更ながら、気恥ずかしさが、こみ上げる。
 まるで、気まぐれな猫のように、真意をつかみづらい彼。
 しかし、彼に対する苦手意識は、当初の頃より大分薄れたような気が、未来にはするのであった。

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