番外編6『闇の誘い』
あんなに大切にしていたのに、全てを壊すのはとても簡単だった。
暗い暗い森の中を、駆ける、駆ける。
つかまったら終わりだ。己の死、だけではない。世界の死が訪れる。両肩にのしかかった責任が、逆に足をもつれさせる。
木のうろに飛び込み、がくがく震える身を縮こめて息を殺す。気づくな、通り過ぎてくれ、と願いながら。
ひた、ひたと。恐怖を伴う足音が近づいて来る。心臓がばくばくと音量を上げる。この音が相手に聞こえているのではないだろうかと、不安がこみ上げてくる。
ひた、ひた。
足音が、至近距離で止まった。恐慌が悲鳴の形を取って、喉元までせり上がる。
最も近しく感じて、安らぎを与えていてくれた闇が、今は敵だ。奴らの姿を隠し、果てしない恐ろしさをもたらして、自分を無へ誘おうと、優しさの仮面をつけて覆いかぶさってくる。
奴らが自分を探している。目も鼻も、口も無いのっぺりとした顔がうろうろと辺りを見渡している姿は、想像に難くない。心臓が、この胸を突き破って飛び出しそうなほどにめちゃくちゃな鼓動を打っている。
ひた、ひた。
足音が再び聞こえ、遠ざかってゆく。ほっと息をついた、その直後。
ばさりと、葉をかき分ける音を立てて、顔の無い真っ黒な人影がさかしまに彼の眼前へ姿を現した。
喉も嗄れよとばかりに、言葉にならない叫びをほとばしらせる。無我夢中で手を突き出し、消えろと願う。
その手から闇の風が吹き荒れて、黒に溶けるように人影は――
影は消えた。
だが、それで安心は出来なかった。彼はうろを飛び出し、再度走り出す。
今の悲鳴と仲間を消し飛ばした魔力を頼りに、奴らはまた追って来る。
逃げなくては。その考えと同時に、どうして自分だけがこんな目に遭わなくてはならないのかという不条理感に、歯ぎしりする。
世界の摂理を知る一族とはいえ、まだ十八歳の少年に、その役目はあまりにも重すぎた。
手の中に握り締めた、『
二面性を持つ石』を、破壊の化身とその眷属から守る、という役目は。
「……て。ねえ、起きてよ」
木漏れ日の中呼びかける耳当たりの良い声に、彼は目を開いた。闇のアストラルの住むアス・アイトといえど、彼らが生きる為には、闇だけでなく光も必要だ。きつすぎない太陽光に目を細めると、柔らかい笑顔が視界に入りこんで来る。
「おはよう、おねぼうさん」
瞳が親しさを込めて細められ、艶のある黒髪が爽やかな風に揺れる。
目の前で微笑む少女、幼なじみのシュリエ。風のアストラルの血も引く彼女は、森と同じ緑色の瞳をしている。
彼は少女のその色が好きだった。いや、色だけではない。
女性らしくほっそりとした手、風と語り合い歌を奏でる声、その声を紡ぎ出す血色の良い唇、月なき夜に彼女がもたらしてくれる安息の闇。全てが好きで、愛おしくて、そばにいたいと、ずっと守りたいと思っていた。
少女がにっこりと笑みを深くし、瞳を閉じて顔を近づけ、囁く。
「大好きよ。私の大切な」
名前を呼ばれる寸前、はっと現実へ覚醒する。
暖かい光も、甘い香りも、きらきらした緑も、そこには無くて。あるのは一面の暗闇と、潜んでいる洞穴の土臭さと、果てしない孤独感。
ずっとずっと一緒にいられるものと信じていた。幼い頃から大切に育てた思いを抱いて、ふたりで生きてゆけるのだと。
何故、こんな事になったのか。彼は回想する。
ほんの偶然、運命のいたずらだったのだ。
子供の出来心で、アス・アイトの暗い森の奥へふたりで分け行った時、奥深くにあった祭壇。そこに封じられていた声に、彼は応えてしまった。
『アストラルとしての更なる力を望むか』
呼びかけた声に、若い彼はうなずき、手を伸ばしてしまった。
そうして彼の中に、最強の闇の精霊『
死神』が降臨した。
彼が闇の精霊を呼び起こしたと知るやいなや、大人たちは顔面蒼白になって右往左往した。
『死神』の眠りを覚ます者がいた時、それは、破壊者『アポカリプス』が世界の破滅を求めて再び動き出す時、との口伝が、千年前から残されていたからである。
大人たちは彼に、『死神』と共に封じられていた闇のデュアルストーンを手渡し、これを持ってアポカリプスの手の者、影から逃げろ、決して奴らに渡すな、と言い含めて、彼をアス・アイトから逃がした。
……いや、逃がしたのではない。自分たちに災厄の火の粉が降りかかる事を恐れて、彼を厄介払いしたのだ。『死神』に憑かれたお前が悪いのだ、自分たちには関係無い、とばかりに。父も母も、彼を引き留めようとはしなかった。
アイトを出てゆく時、彼はシュリエの姿を探した。
『ずっとあなたのそばにいたい』と甘く囁いていた少女はしかし、大人たちの向こうからこちらを見ているばかりで、彼の視線に気づくと、おびえた表情を見せて緑の瞳をそらしたのだった。
ああ、そうか。
暗闇の中、彼は納得する。
所詮誰も彼も、巻き添えを食いたくなかったのだ。責任をひっかぶるのが嫌だったのだ。
誰の心の中にも闇がある。安息と友愛を謳う闇のアストラルの本質は所詮、冷たい裏切りの権化なのだろう。
そう思うと、彼の心の中にしみ渡ってゆく漆黒がある。
家族や愛しい者さえ見捨てる世界。彼らを守る必要が、どこにある?
捨ててしまえ。
闇が差し招く。
薄っぺらい愛情などかなぐり捨てて、破壊者を呼び覚まして、世界を壊すのだ。
その後に創ればいい。誰も裏切らない、愛憎に悩まされる事の無い、完全なる世界を。
それは闇の誘いだったのか。彼に宿る『死神』の、あるいは影の、もしかしたらアポカリプスの呼びかけだったのか。
だが、そんな事はどうでもいい、と彼は思った。
誰の呼びかけでも構わない。
自分は決意した。
いつの間にか彼の前に一体の影が立っていた。相変わらず何らの感情も読めないのっぺらぼうで、しかしさっきまでのように彼を追いつめる事無く、ぼんやりと彼を見下ろしている。
「アポカリプスを」
彼は影に言った。
「蘇らせると言ったら、君たちは僕に従うのか?」
その言葉を聞き届けたのだろうか。影はおもむろに膝を折り、頭を深々と下げる。そこかしこの闇から、新たに生まれいずるように次々と影が現れ、彼の前に膝を折る。
「我らが待ち望んだ者」
影が語った。どこに口があるのかなど考えない。直接、脳内に語りかけるような声だった。
「我らの主を解放する者」
「やがて我らの主となる者」
「我らは主に従う、よって」
「あなたに従う」
輪唱のごとく影たちは宣う。そのひとりが言った。
「新たな主の目覚めの印に」
続けられた言葉は、最前までの彼なら、そんな事をそそのかすなと罵倒する勢いで拒絶していただろう。だが今は、その誘いが甘美な響きをもって、胸の内に広がっていった。
アス・アイトは曇天の下にあった。
「お、お前……」
何ヶ月ぶりかに故郷に足を踏み入れた彼の姿を見て、集落の入口近くの畑を耕していた青年が、虚を突かれたように顔を上げ、収穫したばかりの西瓜を腕に抱えて、彼を見つめた。
「どうしたんだ、いきなり帰って来」
るなんて。青年はそれを言い切る事ができなかった。
ごとり、と音を立てて、青年の首が土の上に落ちる。一拍遅れて腕の中からこぼれ落ちた西瓜が、地面に当たって砕け、脳漿のように赤い中身をぶちまけた。
彼は剣を振り抜いた体勢のまま、地面に赤黒く広がる染みを見下ろしていたが、ふっと口の端に歪んだ笑みを浮かべると、里の中へと入っていった。
彼の過去を、全て消す為に。
彼は、アス・アイトのアストラルを次々と斬り捨てた。背中を向け逃げ出す者には、『死神』の闇の牙が襲いかかった。
かろうじて彼の目から逃れた者には、彼に従う影たちがひとり残らず死を与えた。
命乞いする両親を『死神』の闇の中へと吹き飛ばした時、その後ろに、がくがくと震える少女の姿が目に映った。
「どうして……」
驚愕と恐慌と怒りのこもった緑の瞳が、彼を見すえる。それまでの彼ならば、その瞳を見た途端、殺意など萎えて、謝りながら少女を抱きしめていただろう。
だが、彼はもう一線を超えた。そんな目をする少女が、無様で滑稽で腹立たしくてならない。
自分が故郷を出てゆく時、彼女は目をそらした。囁いた愛情など無かった事のように、自分には関係無いと引っ込んでいた。彼女にこんな目をする権利は無い。自分を責め立てる権利など、尚更だ。
「……シュリエ」
彼は呼んだ。かつて愛した少女の名を。果てしなく優しく。
緑の瞳が揺れた直後、かっと見開かれる。その胸を、鋭い刃が貫いていた。
「どうして……」
切な色を込めた声が、血と共に唇からこぼれ落ちる。震える指が、彼の頬をなぞる。
「フェル……」
彼女は、彼の名前を言い切る事はかなわなかった。ばっと刃を引き抜くと、こときれた少女は、既に現世を映していない緑の視線を虚空に泳がせたまま、ずるずると地に倒れ伏した。
神となる者に、過去など要らない。
故郷も、家族も、愛する者も、全て棄てる。
いや、先に彼らが自分を見捨てたのだ。同じ事を返して何が悪い。
激しい雨が降り始めた。
最早アス・アイトの民はことごとくが死に絶え、影がうろうろと生き残りを求めてさまよっている。だが、動いているアストラルは彼以外にはもういないだろう。
累々と横たわる死体の中で、血塗れの剣を手にしたまま彼は立ち尽くしていたが、やがて、ひきつれた笑いを口から洩らし、それは次第に哄笑に変わる。
彼は笑い続けた。雨か涙かもわからないものが頬を伝う中、笑って、笑って。
声が嗄れ、夜の闇が彼を包み込むまで、彼の笑いは響き続けた。