プロローグ


 何が起きているのかわからなかった。
 ただひたすらに、熱なのか痛みなのかわからない苦痛に全身を支配され、酷い耳鳴りの向こうで、誰かが走り回り、叫んでいるのが聞こえる。
「氷! 氷を持ってきて!」
「包帯がありません!」
「手が足りなさすぎる、全員は救えない……」
「そっちはもう駄目だ、息のある者だけを診ろ!」
 苛立ち。悲嘆。絶望。澱んだ空気が漂い、それが死神の腕(かいな)となって、一人、また一人と、魂を抱き締めてさらってゆくのが、暗転しかける視界に映るかのようだ。
 黒装束をまとった骸骨の顔が、ゆっくりとこちらを振り向く。眼球の無い虚ろがいよいよ自分の前に立って見下ろしてきた時。
「この子はまだ間に合う」
 死神を押し退けるかのように、青銀の輝きが闇の中で煌めき、「先生……」「先生!」と、周りの者達が動揺をはらみつつも期待を寄せる声をあげた。
 火照りきった頬にひんやりとした手が触れた。それはとても心地良く、遠ざかりかけた世界をこちら側へと引き戻してくれる。ほうとひとつ息をつくと、とろりとした液体が口に注ぎ込まれた。
 途端、調理していない野草のような生臭いにおいが鼻を突き、舌に触れる苦味が強くて、反射的に吐き出そうとしたが。
「心配要らない。飲み込んで」
 低く穏やかな声が、耳鳴りを追いやるほどはっきりと聞こえたので、言われた通りに嚥下する。
 そこからどれくらいの時間が経っただろうか。十数秒か、数分か。ふうっと身体が浮き上がるような感覚がして、それから、深い場所へと沈み込んでゆく。
「これでもう大丈夫だ」
 頬を撫でてくれる手の主に、「先生!」「さすがは先生!」と周囲が賞賛を送っているのが聞こえる。
 ああ、神様だ。
 にこりと微笑んだつもりだが、本当に唇が三日月をかたどっていたかはわからないまま、穏やかな眠りへと誘われていった。