死神少女ブラッディ・マリーは嗤う


「死神少女にならない?」

 古い廃ビルの屋上、錆びたフェンスを越えて、今まさに死神の御許へ飛び立つか否かの葛藤。そんなあたしに声をかけたのは、小さな真っ黒いコウモリだった。

「死神少女に興味ない?」
 唖然として立ち尽くしてしまうあたしの周りをぱたぱた飛び回りながら、コウモリは再度言う。
「はあー、なんであたし?」
 思わず状況も忘れて、間抜けな疑問声が漏れる。死神少女なんて、不吉な事この上ない響きだ。魔法少女じゃないのか。
 それにあたしはもう少女じゃない。立派なアラフォー目前のおばさ……もとい女性である。

 そう、あたしはもうそんな歳だ。
 それで焦って、しくじった。
 職場の上司との不倫関係に。

『必ず妻と離婚して、君を幸せにするから』

 そんな甘い囁きを信じて、『今月はお小遣いがもらえなくて』と言う彼の言葉を信じて、デート代も食事代もホテル代も、全部あたしが出した、一年間。

『それであいつはさ、何でもホイホイ俺の言う事を聞いて、貢いでくれるわけ』
 給湯室で洗い物をしている時に、隣の男子トイレから、彼が同僚に語る、悦に入ったような放言が聞こえてきた。

『離婚する気なんてさらさら無いよ。折角安定した暮らしをしてるのに、手離す馬鹿がどこにいるかってんだ』
『そんなこともわからないから、こっちの思い通りになる。ほんとあいつを狙って良かったぜ!』

 それが、彼があたしを選んだ理由。
 知ってしまったあたしは、マグカップを洗う手が震えるのを、抑えることができなかった。

 あたしは本当に馬鹿でした。
 めちゃくちゃに泣きながら夜の街を歩いて、廃ビルの屋上にのぼったのが、五分前。
 両親には迷惑をかけるけど、不倫なんかしてたあげくに騙された、そんな事が知れる方が恥だから、遺書は残さない。
 さようなら、この腐れた世界。靴を脱いで揃えて、さあいよいよこの世に別れを告げましょう。

 そんな時、件のコウモリが、あたしの目の前に現れた訳だ。

「キミみたいな女性が、死神少女に向いてるんだよねえ」
 コウモリは、ぱたぱた、ぱたぱた、あたしの周りで羽ばたきながら、にい、と牙を見せて笑ってみせた。
 ように見えた。
「復讐したい相手がいる。この世に未練を残しているのに、命が要らないように振る舞う。そんな怒りと矛盾を抱えた女性こそが、死神少女に相応しいんだ」
「復讐なんて……」
 考えてない。そう言おうとして、『本当に?』と嗤いかける、もう一人のあたしがいた。
 死んでやる事で、彼の心に一生残る爪痕をつけてやろうと思った。でも、実際ビルのフェンスを越えたら、はるか地上が遠くて、恐怖に身がすくんでしまっている。
 このコウモリも、死にたいけど死にたくないあたしが見ている、幻覚なんじゃないか。そうとすら思った時、コウモリはすいっとあたしの肩に留まって、彼の囁きより甘い声で耳打ちしてきた。

「死神少女になれば、キミみたいに、純真な女の子をぼろぼろにした、身勝手な男達を成敗し放題。人の世の法で裁けない連中の命を、死神様に代わって刈り取る事もできる。正義の代行者だよ」

 そんな都合のいい話があるか。あたしは唇をへの字に歪めた。
 知っているんだ。マスコットと契約した魔法少女が、実はそのマスコットに利用される存在だった物語。当時ものすごい話題になったから、あたしもかじった。
 きっと死神少女もそんなもんだろう。正義の名のもとに命を刈る。その先に幸せな人生が待っているはずなんて、きっと、無い。

 それでも。

「……いいよ」

 あたしは、唇の形を、歪みから笑みに変えて、コウモリに返していた。
「こんな世界に押し潰されるだけなら、どうせだから、あたしと同じ思いをする子が少しでも減る手伝いをしたい。好きに使ってやってよ」
「決まりだね!」
 コウモリが嬉しそうに飛び上がり、くるくる、くるくる、あたしの周囲を飛び回る。
「ボクの名前はノワール! これからキミと一心同体だよ、よろしく!」
 その言葉と同時に、コウモリが、どっ、とあたしの顔面にぶつかってくる。衝撃にぐらりと身体がよろめいて……。

 あたしは、屋上から真っ逆さまに落ちた。

『……て。起きてよ、ねえ!』
 うーん、うるさい。日曜日は九時まで起こさないでよっていつも言ってるでしょ、お母さん。
『ボクはお母さんじゃないよ! ノワール! キミの相棒だよ!』
 頭の中に直接響くような声に、あたしはがばりと起き上がった。
 ぺたぺたと、顔を触ってみる。頭はスイカ割りのスイカのように無惨になってはいない。それどころか、どこも怪我をしていないようだ。ビルの屋上から落ちたと思ったんだけど。
『キミはボクと同化して、死神少女になったんだ。これくらいで死なない死なない!』
 暗い路地裏には場違いなくらいに明るい、ノワールの声に嘆息し、ふっと、傍らの割れかけたガラス窓を見やる。そしてあたしは仰天した。
 老いに焦って化粧で誤魔化していたアラフォー女は、そこにいなかった。窓に映るのは、血のように赤いふわふわの髪をして、赤く光る瞳を持つ、黒ローブに身を包んだ、十五、六歳と見える少女。
『これが、死神少女のキミの姿だよ』
 可愛いでしょ? と、ノワールがふんすふんす得意気に鼻を鳴らすのが伝わる。たしかに、これなら誰もあたしと気づくまい。
『さあ、死神少女最初の仕事だよ。キミをもてあそんだ男に、鉄槌を下しにいくんだ』
 ノワールがそう言うと同時、右手が熱を帯びた。かと思うと、今のあたしの小柄な背丈を悠々と超える大鎌が現れる。
『死神少女、いや』
 ノワールが、にやり、と笑う気配がする。

『コードネーム、「ブラッディ・マリー」。可哀想なキミを選んで良かったと思う働きを、是非見せておくれよ!』

 その言葉に応えるように、あたしも笑みを浮かべる。
 ノワールがあたしを選んだ理由なんてどうでもいい。本当に可哀想だと同情してくれたのでも。たまたま死にたがりの女を見つけて、使える、と思っただけでも。
 彼に、いや、あの野郎に、堂々と復讐する機会をくれただけで、充分だ。
 たん、と。黒いロングブーツで地を蹴れば、身体は人の限界を超えて、嘘のように高く跳ね上がる。

 あたしは人間をやめた。
 これからは死神少女ブラッディ・マリーとして闇を駆ける。
 その期待が、あまりにも快く胸を満たす。それは、今までの人生で味わったことの無い、至高の幸福感を伴っていた。