エピローグ:翔竜は楽土の夢を見た


 銀色の竜は、開けた草原を選んで、静かに降り立った。そして、ユヅカ達二人が楽土最初の男女として地上に足をつくと、それを待っていたかのように一声いなないて、しゅるしゅると姿を変貌させてゆく。大きさは縮み、翼は畳まれて、一人の小柄な少女の姿を取る。その髪は銀色、つりがちな瞳は赤。神話に語られる、竜神が人の形を取った女神と同じ姿であった。
「……ありがとう」
 女神はユヅカ達の前までやってくると、赤い瞳を細めて深々と頭を下げる。
「あなた達のおかげで、翔竜世界は解放されました」
 彼女は顔を上げ、たおやかに微笑んだ。
「あんたが、竜神か?」
 イルギッドの問いかけに、「そんな大層なものではないかもしれないけれど」と女神は微苦笑を見せる。
「私は千年前に生きた者。一人の女性に執着したばかりに世界を焦土に変えた弟を斃し、せめてもの贖罪に世界の再生を誓って、翔竜世界に生き残った人々を逃がし、大地を蘇らせようとしただけの存在」
 それを神と呼ぶのではないだろうか。ユヅカもイルギッドも、ぱちくりと目をまたたいてしまう。
「翔竜世界では、範囲が狭すぎて、いつかは数を増やした人間達が相争うのが目に見えていた。だから、世界が再生した時、私の化身である『タツノオトシゴ』を持つ竜使りょうしを遣わせて、楽土が開けた事を、人々に知らせる必要があった」
「それが、私だったんですね」
 ユヅカの言葉に、女神は神妙にうなずいて、
「でも、大変な思いをさせてしまいましたね。本当にごめんなさい」
 と、再びこうべを垂れた。
「まあ、あなたを助ける為に、正気に返った弟が、ずっと翔竜世界を見守っていてくれたようだけど」
 彼女がくすりと笑って、二人の後方へ視線を馳せたので、ユヅカ達も振り返る。そして驚きに目をみはった。
 シンワだ。顔立ちと、さっき邂逅した時の服装から、間違い無い。だが、その髪は黒、瞳の色は翠と、かつて世界を焦土に変えた竜神の色に変わっていたのである。女神の話と照らし合わせれば、彼が女神の弟で、この色が本来の彼の色であるという事か。
 シンワは神妙な表情でユヅカの前にやってくると、ちゃらり、とチェインの音を立てて、青い石のついたペンダントを差し出した。
「『ユヅカに、お別れの挨拶をできなかった事を、謝っておいてください』って言われたよ」
 その言葉に、ユヅカは手を、唇を震わせ、ペンダントを受け取る。では、レナは。
「大丈夫」
 だが、涙目になるユヅカに、シンワはいつもの穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「彼女は僕の砂希(さかな)だった。世界が再生した今、砂希は消え、竜使もいなくなる。だけど、砂希の意識はこの世界に偏在して、君達を見守り続ける」
 そういう事だったのか。ユヅカの中でやっと得心がいった。シンワの傍を離れられなかったのは、彼の砂希だったから。胸を貫かれても次に会った時には平然としていたのは、砂希の再生能力があったからだ。もうあの優しい笑顔を見る事はかなわないが、この大気中に彼女が融けて存在していると考えれば、寂しさも少しは紛れる気がした。
「私達は、もう行きます」女神が厳かに告げる。「竜の存在が、二度とこの世界を脅かす事の無いように。翔竜も、地上に降りればやがて大地の一部となって、世界に同化してゆくでしょう」
「また千年経てば、人間は翔竜の事も忘れて、次の文明を築くだろう。それが世界の理さ」
 太陽の光に照らされたシンワの髪は、蒼くすら輝いて見える。翠の瞳を細めて、彼は先程の女神以上に深く頭を下げた。
「僕の勝手に君達を巻き込んで、本当に済まなかった」
「そんな」
 イルギッドが何かを言いたげに口を開きかけたのを横目で見て、ユヅカは先制して両手を横に振る。
「シンワにはとてもお世話になったわ。私からお礼を言う事があっても、あなたに謝られる事なんて、何も無い」
 それを聞いたシンワは、鳩が豆鉄砲を食らったような表情をし、それから、ぷっと噴き出して口元を手でおさえた。
「君は本当にお人好しだね、ユヅカ」
 それはさっき、イルギッドにも言われた気がする。憮然とすると、シンワは更におかしそうにくすくす笑った。
「でも、君のそんなところが、僕は嫌いじゃあなかったよ」
 そうして彼はユヅカの右手を取り、物語の中で騎士が姫にそうするように、恭しく口づける。隣でイルギッドが明らかに機嫌が悪くなったが、飄々さが身上のシンワには、お構いなしのようだ。
「じゃあね、二人とも、元気で」
「あなた達の進む未来に、幸いを」
 姉弟神が手を振り、軽く地を蹴ると、瞬く間に竜の姿になって、空へと舞い上がる。銀と黒はぐんぐん高度を上げ、やがて彼方に消えて見えなくなった。
 神が去ったのを待っていたかのように、上空から翔竜達が高度を下げてくる。いずれ地上に降り立つだろう。
 それに先じて、数羽のフテラが舞い降りる。その背から降り、こちらに向かって歩いてくるのは、サトム、マレー、セエタ、スペンサー。誰も彼もがぼろぼろで、激戦を経た事がわかるが、全員が清々しい表情をして、あの引っ込み思案のサトムまでもが、マレーと肩を組んで陽気に手を振っている。ユヅカも思わず笑みを弾けさせ、大きく手を振り返した。
 神々が残した大地は果てなく広がっている。人々はそれぞれの求める地へ散り、地上の恩恵を受けながら生きてゆくだろう。翔竜同士で敵対した恨みはまだ残るかもしれない。それでも人はいつか、争いをやめ、剣を離した手を握り合うだろう。かつてユヅカがイルギッドに名を与え、共に生きる事を望んだ優しさは、決して潰える事が無いだろう。
 ユヅカは空を見上げ、それから、傍らの青年に視線を移す。
「何だ?」
 小首を傾げる彼の瞳をじっと見つめ、ユヅカは心からの笑顔を見せた。
「空が、あなたの瞳の色だわ」
 広がるは、彼の瞳と同じ青い空。
 この空の下、翔竜が夢見続けた楽土で、新しい世界は始まるのだ。
―完―

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