19:楽土を夢見る


「アウルムは、竜神が再生させた楽土へ、選ばれし者を導く為の翔竜だ」
 再び閉じ込められた一室で、きらきらしい白のドレスに着飾られるユヅカに、黒い正装に身を包んだヒューゴが陶酔しきった様子で告げる。
「この翔竜世界のどこかを飛んでいるのに、誰の目にも見出せない。十八の歳を迎えた『タツノオトシゴ』の竜使りょうしが、愛する相手の名と共に召喚しない限りは」
 おしろいをはたき、唇に紅を引いて、さながら花嫁のようになったユヅカに、ヒューゴは顔を寄せて、
「ああ、やっぱり美しいね、私のユヅカ」
 と、満足げに頬を撫でる。気持ち悪い。厭わしい。この男の全てが。この狂気に負けまいと眼力を込めて睨み返し、声をあげた。
「イルギッドをどうしたの」
 途端、灰色の瞳に、嫉妬の炎が宿る。
「あの狗の話はよすんだね」
「イルギッドに会わせて。でないと、ここから動かない」
 引き離されて、酷い目に遭わされていないだろうか。ヒューゴの事だから、また銀色の雲の下へ落としたかもしれない。彼の無事を確認するまでは、絶対に目の前の男の言う事を聞くまいと決意して、ぎんと相手を見すえる。
「あんなに可愛い妹だったのに。あの狗の存在が、お前を狂わせてしまったようだね」
 ヒューゴが憐憫を込めた視線を向けた後、己を抱き締めてゆるゆると首を振りながら溜息をつく。演者のようなその反応は滑稽で、更なる嫌悪を煽った。
「仕方無い。愛しいお前の願いだ、会わせてあげよう。だが」
 どこか焦点の合っていない目で、ずいと顔を近づけて、ヒューゴはくつくつと笑いを洩らす。
「その後は、私の言う事も聞いてもらうよ。アウルムをび、あの狗の目の前で、お前が私のものである事を奴に知らしめよう」

 支度が終わった後、ユヅカはヒューゴの部下である黒服に連れられて、一室へ案内された。
「イルギッド!」
 扉が開かれた途端、絨毯も敷かれていない冷たい木の床に横たわる彼を見つけて、ユヅカは悲鳴じみた声をあげて駆け寄る。イルギッドは両手首を縛められ、さんざん殴られたのだろう、顔を腫らして口の端に血の泡をにじませていた。服の下に隠れて見えないが、身体も蹴られて痣になっているかもしれない。
「ひどい……」
 涙目になりながら膝をつけば、青い瞳がのろのろとこちらに焦点を合わせ、「……ユヅカ?」と掠れた声を出した後に、彼は顔をしかめた。口の中を切っているのだろう。
「大丈夫だ。心配、要らねえ」
 痛みを堪えながら身を起こし、彼がユヅカと向き合う。
 いつもだ。いつも自分は彼を傷つけてばかりで、何の役にも立てていない。無力感にはらはらと涙が舞い降りて、頬を濡らすと、縛られた手が伸びてきて、そっと拭ってくれた。
「大丈夫だって言ってんだろ」彼が薄く笑みを見せる。「これ以上の怪我なんて、俺はさんざんしてきた。今更、お前が気に病む事じゃあ、ない」
 どうしてこの人は、辛い事を隠してそんな風に微笑えるのだろう。ユヅカの心に湧いて出た感情は、怒りにも近かった。
「――言って!」
 振り絞るように、言葉を紡ぎ出す。
「痛いなら痛いって、辛いなら辛いって、ちゃんと言って! お前のせいだって怒って! 大丈夫じゃないって泣いてよ!」
 化粧が落ちるのも構わずに、涙の粒を飛ばして叫べば、イルギッドは虚を衝かれたように目を丸くした。だが、驚きの感情はすぐに去り、代わりに、血濡れの唇の端を持ち上げる。
「相手がお前だから、大丈夫だって言ってんだ。本当に大丈夫じゃなかったら、ちゃんと言ってる」
 今度はユヅカがぽかんと口を開けてしまう番だった。少女の驚きには取り合わず、青年は続ける。
「お前が教えてくれた。喜びも、悲しみも、楽しい事も、辛い思いも、誰かを信じて、想う事も。空っぽの『カニス』だった俺に、お前が『イルギッド』としての生を与えてくれたんだ」
 青の瞳に真摯な光を宿して、イルギッドはまっすぐにユヅカを見つめる。
「俺はヒューゴに屈したりしない。最後まで諦めない。だから、お前も俺を信じてくれ。最後まで、諦めるな」
 再び目の奥が熱くなる。自分は彼に、ここまでの深い想いをもらっていたのか。ならば、それに応えなくてはならない。
「わかった」
 彼の腫れた両頬を痛めないように軽く包み込み、力強くうなずき。
「あなたを、信じる」
 そして顔を近づけ、一瞬、彼の唇の熱を感じ取った。
「……ったく」
 イルギッドが苦笑を見せ、ユヅカの唇を手で拭う。指に、紅ではない赤が移る。
「唇を切ってんのに、んな事するもんじゃあねえよ」
 その表情に、また泣きたくなったが、運命は二人の時間を待ってはくれなかった。
「ユヅカ、時間切れだよ。その狗から離れるんだね」
 ヒューゴが部屋の入口からねっとりとした口調で呼びかけ、黒服が二人を引き離す。ユヅカはヒューゴに手を引かれ、イルギッドは黒服に蹴られながら立たされて、小突かれてよろめきつつ歩き出す。相変わらず悪趣味な金銀の廊下を進み、一際大きな純金製の扉を開けると、黒い空が頭上に広がる屋根の無い礼拝堂に出た。
 人の姿を取った時は銀の髪を持つ小柄な少女であったという、竜神を象った像の前に、ユヅカはヒューゴに引きずられるように進み出て、彼と並んだ。
「さあ、ユヅカ」
 いつに無い満面の笑みで、ヒューゴが両腕を広げて、陶酔したように空を仰ぐ。
「『タツノオトシゴ』を呼び出してごらん。そうして宣誓するんだ、愛する者の名を。私の名を。その時こそ、アウルムは我々の前に姿を現すだろう」
 そっと背後に視線を滑らせる。黒服に抑え込まれたイルギッドが、唇を引き結んでこちらをじっと見つめている。
 彼は自分を信じてくれている。その信頼を裏切ってはいけない。ユヅカはすうっと肺にたっぷりの空気を取り込み、「私は」凜と張る声を響かせた。

「イルギッドと共に、楽土へ行きたい!」

 ヒューゴが愕然と目を見開く傍らで、『タツノオトシゴ』が現れる。
『あなたの想いを、聞き届けた』
 銀色に光る小さな竜が、ユヅカにしか聞こえない声で囁いたかと思うと、ニゲルの黒い空を貫く輝きを放って、勢い良く空へと舞い上がる。『タツノオトシゴ』が空の『果て』へと吸い込まれて数瞬の後、天空を揺るがす咆哮が響き渡り、黒を押しやるほどの金色の光が上空いっぱいに広がった。
 その光の中、優雅に翼を羽ばたかせる、翔竜より小さな竜の姿が見える。アウルムだ。『タツノオトシゴ』の竜使の直感で、ユヅカは気づいた。
 だが、その直後、どん、と強い力で突き飛ばされ、ユヅカはよろめき、ドレスの裾を踏んづけて、礼拝堂の床に倒れ込んだ。痛みに顔をしかめると、鼻先に剣呑な刃の切っ先が突きつけられる。
「ユヅカ!」
 ヒューゴだった。腰の剣を抜き、憤りに目を見開いて身を震わせている。
「何故だ!? 何故裏切る!? この私を!? 誰よりもお前を愛している、この私を!? 私のものである、お前が!?」
 怒りが度を過ぎて裏返った声を、唾と共に病的にまき散らしながら、ヒューゴは抜き身の剣を振り上げる。分別を失った今の彼なら、ユヅカの腕の一本や二本、いや、首さえ躊躇無く落としかねない。上半身を起こして後ずさろうとしたが、ドレスの裾を踏みつけられてつんのめり、床と口づけをする羽目になった。
「訂正しろ! 愛しているのは私だと! ずっとお前を愛し続けた私だけが、お前と共に楽土へ行く男だと!」
 憤怒のあまり笑顔にすらなりながら、ヒューゴが剣を振り下ろす。だが、凶刃がユヅカの身を斬り裂く事は無かった。「ふげえ」と妙な声だけが耳に届く。思わずつむってしまっていた目を開いて、ユヅカは吃驚きっきょうする羽目になった。
 イルギッドが、ヒューゴの腰に組みついている。彼がさっきまでいた場所には、解かれた縄と、気を失った黒服が横たわっていた。いつの間にか縄抜けをしていたようだ。『信じてくれ』という言葉に込められた意味はこれだったのかと、安堵の吐息が洩れる。
「この、狗が!」
 ヒューゴはイルギッドを振り払おうと無闇に剣を振り回すが、身のこなしはイルギッドの方が上手だった。刃をかいくぐり、一瞬身を離したかと思うと、長い足で剣を蹴り上げる。ヒューゴの手を離れた剣はくるくる宙を舞い、離れた場所に突き刺さった。
 唖然とするニゲルの長に、イルギッドは間髪入れずに拳を叩き込む。これまで積み上げた恨みもこもっているだろう重い一撃は、相手の顔の形を変えんばかりにめり込み、数歩の距離を吹き飛ばして、礼拝堂の長椅子に突っ込ませた。
「ヒューゴ様!」
 礼拝堂の外で待機していたのだろう、悲鳴じみた声が聞こえて、ばらばらと黒服達がなだれ込んでくる。先頭にいるのは、ニゲルに連れてこられた最初の日にユヅカを思い切り叩いた、イザベルとかいう女だ。彼女は頭から椅子に突っ込んで白目をむいているヒューゴの姿に気づくと、刺し殺しそうな威力を込めた視線を、ユヅカとイルギッドに向け、「よくもヒューゴ様を……!」と呪詛のように低い声を放った。
「殺っておしまい!」イザベルが我鳴る。「ヒューゴ様には、抵抗されて殺すしか無かったって言えばいいんだよ!」
 たちまち黒服達が剣を鞘から抜き放ち、じりじりと包囲網を狭めてくる。いくらイルギッドでも、動きづらい格好をしたユヅカを守りながら、徒手空拳でこれだけの数を相手にする事は難しいだろう。冷汗が背中を伝った時。
 とす、と。
 先頭の黒服の首に、上空から麻酔針が刺さり、男はへなへなとその場に崩れ落ちた。かと思えば、平たくて大きい砂希――『マンボウ』が物凄い勢いで舞い降りてきて、その巨体で次々と敵をなぎ倒してゆく。
 まさか、の思いがユヅカの脳内を巡り、イルギッドと共に空を見上げる。果たして、期待通りの光景がそこにあった。舞い降りてくる数羽のフテラ。その背に乗る者達の顔を見た途端、ユヅカは嬉しさと、数日離れていただけなのに懐かしさまで感じて、涙を溢れさせた。
 シンワ。
 レナ。
 サトム。
 セエタ女史。
 マレー。
 スペンサー。
 アルブスの仲間達は、フテラの背からひらりと飛び降りると――見た目から体重のありそうなサトムは、どすん、とかなり派手な着地音を立てたが――、ユヅカとイルギッドのもとへ駆け寄ってきた。
「遅くなってすまなかったね」
 相変わらずの飄然とした調子でシンワは柔らかく笑う。隣に立つレナは、ユヅカが最後に見た時、ヒューゴの『バレルアイ』の光線で胸を貫かれて倒れたはずだ。だが、彼女は傷痕が残った様子も見せず、
「ユヅカ、間に合って良かったです」
 と、ユヅカをぎゅっと抱き締めてくれた。
 その間にも、サトムは『マンボウ』を突撃させ、マレーはフライパンを手に、普段の調子からは想像もつかない野太い雄叫びをあげ、怯んだ敵へ殴りかかってゆく。非戦闘員だと思い込んでいたセエタ女史とスペンサーまで、女史は細身剣で型通りの立ち回りをし、その陰からスペンサーが麻酔針や毒針を撃つ。植物を知り尽くしているだけあって、毒にも精通しているというわけだ。
「エリメラさんは……」
 やはりこの場にいない一人の存在を思い出し、ユヅカが愁眉を曇らせると、シンワは痛ましげに唇を噛んだ。
「彼女の事は残念だった。だけど、今は君が謝る時間ではない」
 そうたしなめ、それから、イザベルの方を睨む。
「あの『ホヤ』の竜使は、僕が相手をする。彼女の仇は僕が討つ。だから」
 そしてアルブスの長は、金色に輝く空を高々と指差した。
「ユヅカ、君はイルギッドと共にアウルムへ行くんだ。この翔竜世界の争いを終わらせて、楽土を拓く為に」
 そうだ。『タツノオトシゴ』の竜使の使命は、竜神が再生した世界へ人々を招く事。それができるのは、ユヅカだけだ。そしてその道を共にできる、愛した相手は、イルギッドただ一人だ。
「行くぞ」青年がヒューゴの剣を右手に取り、左手をユヅカに向けて差し出す。「導いてくれ、ユヅカ」
 深くうなずき、青年の手を取ろうとして、気づく。この格好はあまりにも動きづらい事に。ユヅカはシンワの方を向き、彼が腰に短剣を帯びている事を確認する。「すいません、借ります」と断りを入れてから短剣を鞘から抜き放ち、躊躇い無く、ドレスのスカートを、脚が見える膝上でざくざくと切り取った。
 シンワもイルギッドもレナも、目を点にしている。しかし当のユヅカは平然としてシンワに短剣を返すと、「行きましょう」とイルギッドの顔を振り仰いだ。
「……あ、ああ」
 腫れている以上に心無しか頬を赤くしながら、イルギッドがもう一度手を差し伸べる。手を取れば、青年の茶色いフテラが上空から降りてくる。その背に二人で乗り込むと、フテラは力強く羽ばたいて、金色の光が一層強くなる空に舞い上がった。
 導きの金竜、アウルムへ向けて。

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