18:真の再会


 何日が過ぎたか、判然としなかった。窓の外は常に暗く、空の色による時間の経過をはかり知る事がかなわないからだ。ただ、黒服の娘が食事を運んでくる回数から、五回は太陽と月が巡ったのではないかと思われる。
 食事の時にも枷を外される事は無く、せめてもの反抗に、スープを差し出されても口にしないでそっぽを向きもした。しかし、それを二、三回繰り返したところで、聞き及んだのだろうヒューゴがやってきて、
「あまり手をわずらわせないでおくれ」
 と口移しで無理矢理食事を流し込まれ、吐きそうな思いをした。それゆえ、以後は嫌々そうな態度を見せながら、差し出された物を素直に口に含むしか無かった。
 毎日、ドレスのように豪奢な服を着せられては、ヒューゴの腕に囲われる。もう、一生このままの生活なのだろうかという諦めの闇さえ浮かんでくる。だが、身体だけでなく心が屈する事、それこそがヒューゴが望んでいる反応なのだと気づくと、決して思い通りにはならない、という決意の火種が灯った。誰かが助けにきてくれる事を願って泣いて過ごすなど、したくはない。
 誰もいない時間を見計らって、必死に両腕をよじる。固いままと思われた枷と鎖は毎晩軋んで、少しだけ緩む様子を見せたのだ。ユヅカが非力であると、ヒューゴは油断しきったのだろう。ある瞬間に、左の枷の留め具が外れて、左手が自由になった。
 希望が見えた。長時間の拘束で紫色に鬱血した手首を極力気にしないようにして、右側の枷を外しに取りかかる。まだ固い留め具は、爪を立ててもかちかちと音を立てるばかりで、芳しい反応を返してはくれない。焦りで汗をかいた指は滑り、爪がひっかかって割れ、血がにじんだが、断念する事無く懸命にひっかく。
 果たして、竜神の守りはユヅカに幸運をもたらした。かちり、と音がして、右の枷も外れたのである。
 思わず大きな安堵の息をついて脱力し、布団に深々と身を沈めてしまう。だが、これで安心している場合ではない。誰かが来る前に、この部屋から脱出しなくてはならない。それには、このびらびらの服と、首にはめられている封印具の存在が邪魔だ。ユヅカは身を起こして、首輪に両手をかけ、力を込める。純金製の首輪は、ユヅカの握力でも、ぽきりと真ん中から折れた。
 素足なのは致し方無い。首輪の破片を投げ捨てて、窓際に駆け寄る。窓は内開きで、開け放つと、常夜の冷たい空気が頬を撫でた。はめられている格子を、試しに握り締めて揺すったが、頑丈に出来ているらしく、びくともしない。
 草原の夜空より遙かに黒い空を見上げて、唇を噛む。とにかく、この部屋から脱出しない事には、何の事態の打開にもならない。方策を求めて逡巡した時、誰かが部屋に近づいてくる気配を、ユヅカは感じ取った。
 大急ぎで取って返し、扉脇の壁に背を預けて息を殺す。ヒューゴだったら腕力差でかなうべくも無いが、時間感覚的に、恐らく彼ではないと信じて、訪問者を待ち受ける。
 天はまたもユヅカに味方した。入ってきたのは、食事を持ってくる娘だった。咄嗟に手を伸ばし、口を塞いで室内に引き込むと、扉を閉める。盆がひっくり返る音は、絨毯に受け止められて消えた。
『素手で相手を気絶させるには、ここだ。まあ、俺がいる限り、お前が使う機会は無いと思うがな』
 いつか草原でイルギッドが教えてくれた護身術を頭に浮かべ、むーむー唸りながらこちらの手に爪を食い込ませて抵抗する相手の急所に、肘を叩き込む。こふ、と小さく息を吐いて娘は白目をむき、くたりと脱力した。
 心の中で謝りながら娘を床に横たえ、その姿をまじまじと見つめる。このまま部屋を出ては、すぐそこに見張りがいて、あっけなく捕まる可能性もなきにしもあらずだ。ユヅカは両手を合わせてもう一度声に出さずに詫びると、自分のドレスを脱ぎ捨て、娘の黒服をひっぺがし、手早く身にまとった。頭巾で髪も隠し、何があるかわからないので、腰帯にたばさんであった護身用の短剣も拝借する。そしてひっくり返った食器の中身を、さも食後のごとく見せかける為に、床に捨てる。
『食べ物は竜神様からのお恵み物、粗末に扱ってはいけません!』
 子供の頃は食が細くて、いつも世話係のアリィに怒られていた。彼女がこの行為を見たら失神するだろうな、と思いつつ、空になった食器を盆の上に戻す。そして、ゆっくりと扉を開けて、何食わぬ顔で――しかし内心は緊張のあまりに心臓をばくばく言わせながら――廊下へと出た。
「おう、ご苦労さん」
 案の定、長剣を帯びた見張りの黒服男が二人、葉巻をふかしていて、出てきたユヅカに片方が気安く声をかける。小さく会釈して、脇を通り過ぎようとした時。
「待てよ」
 もう片方の男が、低い声でユヅカを呼び止めた。ばれたか。心臓が殊更大きく脈打つ。しかし。
「お前さんも大変だな。毎日毎日、ヒューゴ様のお気に入りの世話なんてよ」
 男はそう笑って、葉巻の煙をぷかあと吐いてみせる。ユヅカだと見抜かれた訳ではなさそうだ。相手に気づかれない程度に、ほっと息をつく。
「いくら『タツノオトシゴ』の竜使りょうしでも、ヒューゴ様も執着しすぎだろうが」
「あんな小娘のどこがいいんだかなあ。お前さんの方が、よっぽどい女だろ」
 どこか呂律の回っていない口調に、頭巾の下から横目で見やる。男達は赤ら顔で、鼻を利かせれば、酒精の香りが漂ってくる。食事運びの娘とユヅカの区別などついていないのか。とにかく、ここで立ち止まっている訳にはいかない。再び二人に軽く頭を下げて、その場を立ち去ろうとしたが、「まあ、そんなにつれなくするなよ」と、前後を塞がれ、腕を掴まれた。盆を取り落として食器が散らばる。
「丁度二対二だ。部屋の中で仲良くしようじゃねえか?」
 男が臭い息を吐きながら顔を近づけてくる。何故、草原の外には、こんな下卑た心を持った輩ばかりいるのか。こみ上げる苛立ちを制する事が出来ず、銀の『タツノオトシゴ』が姿を現して、男に噛みついていた。
「ぎゃああああ!!」
 ユヅカの腕を掴んでいた手を噛み千切られた男が、悲鳴をあげながらよろめく。
「こ、こいつ……!」
 見破られた。これ以上ここに留まっている訳にはいかない。ユヅカを捕らえようとする後ろの男の手をかいくぐり、痛みにのたうち回る前の男を突き飛ばして、廊下を駆け出した。
「逃げた! 逃げたぞ! 竜使の小娘が!」
 建物中に響き渡るのではないかという大声で見張りが叫ぶ。人が集まってくるのは時間の問題だろう。それまでに、ここを脱出しなくてはならない。
 だが、見知らぬ土地の、見知らぬ場所の只中で、味方は一人としていない。幾つもの角を曲がり、階段を駆け下りたが、出口らしき扉は一向に見えてこない。それどころか、自分が今どこにいるのか、どこから来たのかさえ、完全に見失ってしまった。
「こっちだ! 探せ!」
 複数人の足音と声が近づいてくる。ユヅカは周囲を見回し、眼前にあった扉を開くと、中に飛び込んで、即座に閉めた。
 部屋の中に明かりは無い。闇の中、息を殺して部屋の前を敵が通り過ぎてゆくのを待つ。人の気配が遠ざかったのを感じ取って、ほうと息をついた瞬間。
 暗がりから伸びてきた腕に抱え込まれて、ユヅカは小さな悲鳴をあげようとし、それより早く大きな手で口を塞がれた。伏兵がいたのか。頭から血の気が引いて、混乱に陥りかけつつも腕を振りほどこうとしたが、触れる手の温度と大きさに覚えがあって、はっと動きを止めた。
「ユヅカ?」
 耳元で、困惑気味に囁く声がする。今、一番聞きたかった声だ。
 手が離れて、腕もほどかれる。正面から向き合い、窓から差し込む月明かりを頼りに相手の顔を見た途端、緊張が一気に解けて涙が溢れ出した。
 見間違えるはずが無い。ざんばら髪に淡い青の瞳。紺色の衣。
 イルギッドだった。
「そんな格好してたらわからな……」
 彼の言葉は、ユヅカがその胸に飛び込んでゆく事で、中途に打ち切られた。身体は温かい。ちゃんと血が通っている。心臓の音が耳に届く。彼がたしかに生きている証だ。
「ごめん、なさい」
 滂沱のあまりにしゃくりあげながら、彼の胸に顔をうずめる。
「今度こそ、あなたを、死なせてしまったかと、思った」
「大丈夫だ」
 力強い腕が背中に回され、優しく包み込んでくれる。
「俺はここにいる。もう、いなくならない。今度こそ、お前を守る」
 そうだ。愛したのは、ヒューゴではない。この人だ。この不器用な優しさに惹かれたのだ。どんな目に遭っても、他の誰に身を奪われても、もう、心が彼を求める事をやめはしない。
 涙に濡れた顔を上げれば、彼が薄く微笑んで、そっと頬を手で拭ってくれる。そして、無言で二人の顔の距離が近づき、口づけを交わした。初めて彼に唇を奪われた時は、嫌だと思ってしまったが、今の口づけは、まるで前世から定められていた恋人同士のようにごく自然で、幸福感に満ちたものであった。
「とにかく、ここを出るぞ」
 言葉無き時間の後に唇が離れると、イルギッドが真剣な表情で告げる。
「俺がお前を助け出した後に、シンワがニゲルを攻める。ウィリディスやフラーヴァも援護してくれる手筈になってる」
 彼がついていてくれるなら、もう何も怖いものは無い。ユヅカが笑顔でうなずき返した時。
「ほう、そういうお膳立てになっているのか」
 部屋の扉が無造作に開き、廊下の明かりを背負ったヒューゴが、十数人の部下を連れて入ってきた。彼らが構える剣先は、違える事無くユヅカ達二人に向いている。
カニス。お前はどこまでも邪魔な駄犬だな」
 彼がどういう表情をしているのかは、逆光でわからない。だがきっと、こちらを見下しきった、邪神のような笑みを浮かべているだろう。
「だが、馬鹿犬にも使い道はある」
 ヒューゴがぱちんと指を鳴らすと、部下達がユヅカとイルギッドを引き離し、それぞれを抑え込む。
「ユヅカ」
 ねばついた声でユヅカの名を呼ぶヒューゴが、ゆったりとした足取りで近づいてきて、ぐいと顎を持ち上げる。
「お前が私の言う事を聞いてくれる限り、この男の命は保証しよう。だから」
 やたら嬉しそうに肩を揺らして、彼は宣誓した。
「お前の『タツノオトシゴ』の出番だよ。金の竜アウルムへ導いておくれ、私の愛しいユヅカ」

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