17:反撃の時


カニス
 自分をそう呼ぶ声と共に、身体に鋭い痛みが走る。ぎんと睨み返して吼えようとすれば、更なる苦痛が訪れた。
『生意気な家畜は調教せねばな。その牙は、敵にだけ向けて、主人を咬む事が無いように』
 何度も、何度も、悪意は身に降り注ぎ、反抗も、思考する力をも奪ってゆく。
 冷たい床にくたりと横たわり、もう、このまま死んでも良いかと思った時。
 闇の中で、あのが泣いている声がした。
 早く駆けつけて、この両腕で包み込んで、涙を拭ってやらなければ。心はそう思うのに、身体は重く、這いずる事さえかなわない。
『狗風情が、夢を見る資格など無い』
 嘲りが聞こえる。赤毛の男が、あからさまにこちらを見下した表情で一瞥し、あの娘を抱き上げ、遠ざかってゆく。
 待て、と叫ぼうとしても、あの娘の名を呼ぼうとしても、鉛の塊が喉の奥でつかえたかのように、何も出てはこない。腕を伸ばし、水中でもがくように空気をかいて――

 ――は! と。
 息を吐き出しながら、イルギッドは覚醒した。夢の中で伸ばした腕は、現実でもくうに向けて突き出されている。
 夢だったのか。そう思いながら腕を下ろし、しかし脇腹に走った鋭い痛みに、全てが夢でなかった事を悟る。
 自分は守り切れなかった。ユヅカを。『狗』としてヒューゴに『調教』されていた自分に、それ以外の名と存在意義を与えてくれた、大切な少女を。こんな事ならば、彼女が過去の記憶や自分の存在を忘れている事に後込みしないで、全てを語っていれば良かった。
 ずっとお前に会いたかったと、伝えれば良かった。
 左手で両目を覆って歯噛みし、それから、懐かしい草のにおいにようやっと気づいて、手を取り払い、周囲を見回す。
 丈夫な草で組まれた小屋の中だった。綺麗な柄に編まれた布が絨毯代わりに敷かれ、その上に寝かされて、掛け布が覆い被さっている。脇腹の傷はしっかりと手当が施され、塗り込まれた薬草の香りが今更鼻腔に滑り込んできた。
 まだじくじくと痛む傷をかばいながら上半身を起こす。すると、イルギッドの覚醒を待っていたかのように、小屋の入口の布が持ち上げられ、ふくよかな体躯をした中年女性が顔を見せた。
「やっとお目覚めかい」
 その顔には見覚えがある。ユヅカの世話係としてそばづいていた。たしか、名前は。
「アリィ」
「おやおや、覚えていてもらったとは、光栄だね」
 アリィは小さな瞳を真ん丸くして苦笑した後、イルギッドの傍までやってくると、手にしていた盆を彼の脇に置いた。
「あんたがいつ起きるかわからずに作ったから冷めてしまっているけれどね、胃が受けつけるなら、口にした方がいいよ」
 そう、彼女はヒューゴの狗だった自分に対しても、臆する事無く接してくれていた。盆を膝に載せ、麦粥を口にすれば、遠い昔、ユヅカと共にこれを味わった思い出が蘇り、目の奥が熱くなった。
 それを瞬きで誤魔化し、アリィの方を向く。懐かしい場所。懐かしい人。懐かしい味。それが導き出す答えは。
「ここは、シェルテか」
 問いかけに、目の前の女性は深くうなずいた。
「あんたのフテラが、血まみれのあんたを背に乗せてやってきたんだよ。ウィリディスの事を覚えていたんだねえ」
 頭の良い子だ、とアリィはしみじみ洩らす。自分の相棒の機転に、イルギッドは感謝した。
 だが、シェルテ族は、ヒューゴに侵略された後、民に混じった彼の部下に常に監視されていたはずだ。だからこれまで、シンワも迂闊にユヅカに接触をはかる事がかなわなかったし、ニゲル最強のヒューゴを恐れて、他の翔竜の者達も、ウィリディスに攻めてこられなかったのだ。
「ヒューゴと連中はもうシェルテを去ったよ」
 イルギッドの心中を見通したかのように、アリィが言い、歯噛みする。
「姫様が、アルブスにいるという手紙をヒューゴに届けちまったから、もうシェルテに用は無くなったんだろうね。全員いなくなった。置き土産に火を放たれたけど、何とか消したよ」
 ユヅカは元はニゲルの一部族の長の娘だったと聞いている。だから、そこに仕えていた一族の民は、今も彼女を『姫様』と呼び慕うのだ。
 そして思い出す。街竜でプルプレアにさらわれかけた彼女を助けた場所を。郵便屋の前だった。きっとそれを見つけた彼女は、何の疑いも無く、『兄』ヒューゴのもとへ連絡を取ってしまったのだろう。再び彼女を手中に収めれば、シェルテの民はもう用無しだ。全滅させられなかったのは不幸中の幸いだが、ヒューゴの事だ、もしユヅカが反抗したら、今度こそ草原を完全に焼き払うと、脅しをかける為の人質として使うだろう。
 ユヅカは恐らくニゲルにいる。あの常夜の空の下に囚われているだろう。今までヒューゴが手を出さなかったのは、ユヅカが十八歳になるまで竜使りょうしの力を正しく使えなかったからだ。だが、『タツノオトシゴ』の竜使の存在が明るみに出た今、彼はどんな手を使ってでも、誰よりも先に、ユヅカを文字通り「ものにする」に違い無い。彼女の意志など、完全に無視して。奴はそういう男だ。
 空になった皿を盆に戻し、膝の上でぎゅっと両手を握り締める。
 助けにゆかねば。その想いがイルギッドの心を支配していた。シンワの屋敷でヒューゴに追いついた自分を見た時、彼女は少しだけ安堵に口元を緩めてくれた。それだけの信用を置いてもらっていると、信じて良いだろうか。寂しい思いをしているだろう。助けにいったら、笑顔を見せてこの手を取ってくれるだろうか。抱き締めて、涙を拭ってやって良いだろうか。
 自分はまだ、彼女に救われた恩を何も返していない。『カニス』ではなく、『イルギッド』としての生を与えてくれた彼女は、自分にとって何物にも代えがたい光だ。その光を取り戻す為ならば、この身が滅びようとも構わない。それだけの価値を、彼女に見出している。
「やる気は満々のようだね」
 イルギッドの青い瞳に宿った決意を、アリィは見抜いたのだろう。くすくす笑って、綺麗に洗濯され、『バレルアイ』の攻撃で穴が空いた部分も繕われた、イルギッドの服と装備品一式を持ってくる。
「あたし達も、ヒューゴには長年辛酸をなめさせられた。もしアルブスがニゲルと戦うなら、その時は、ウィリディスも便乗して殴り込みをかけるよ」
 思わず、ぽかんと口を開けてしまう。シェルテの民は、遊牧民に見せかけて、その実とても訓練された戦闘民族だ。それは、少年時代の自分が任務を果たせずにあっさり拘束された事実からわかっていたが、彼らのしたたかさは今も健在のようだ。
 だが、頼もしい援護を得られる事には変わりが無い。イルギッドは自分の荷物の中から、白い石を抱いた帯飾りを取り出し、相手に届く事を願って、呼びかける。
「シンワ」
 しばし沈黙が落ちる。この通信装置はシンワが作り出した物だが、通信者同士の距離があまりにも離れていると、効果を発し得ない。駄目だろうか、と不安がわき上がってきた頃。
『……ギッド、イルギッドかい』
 いつもの飄然とした少年の声が、石を通して聞こえてきた。
『待っていたよ。君がそう簡単に死ぬはずが無いと思っていた』
 アルブスの長が、通信の向こうで、愉快そうに唇の端を持ち上げている様子が、ありありと想像できる。
『さあ、悪い魔王をこてんぱんにのして、お姫様を救い出す時間さ』

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