16:奪われたもの


 光が目に刺さる。腕が痛い。首に違和感を覚える。不快な感覚に包まれたまま、ユヅカの意識は現実に戻ってきた。
 見知らぬ場所だった。シェルテの草の屋根でも、シンワの屋敷の白い天井でもない。金銀を、悪趣味と言えるほどに使って、壁も天井も塗り尽くした部屋の中。豪華なシャンデリアがぎらぎら光を放って、床には黒くて毛足の長い絨毯が敷かれている。
 身を起こそうとしたが、両腕を引っ張られ、身が沈みそうなほどふかふかの布団が敷かれた寝台の上に引き戻される。視線を上げれば、両手首にはめられた鉄の枷から鎖が伸びて、壁に繋がれていた。腕が痛かったのはこのせいか。
『タツノオトシゴ』を使って枷を外せないか試そうとし、全く反応が無い事で、首の違和感の正体に気づく。ルベルにさらわれかけた時と同じ、竜使の力を封じる金の首輪をはめられているのだろう。
 それから、己が身を見下ろす。街竜で買ってもらったお気に入りの服ではなく、びらびらとした裾の長い白いドレスを着せられている。青い石のペンダントも無い。いつの間に着替えさせられたのか。いや、それよりも、エリメラが選んでくれた服も、イルギッドが買ってくれた思い出も奪われた。その喪失感が胸を痛めた。
 一体ここはどこなのか。思索しようとした時、金色の扉が開いて、部屋に入ってくる者がいた。
 女だった。腕と腹と脚を大胆に露出した、艶のある黒い軽装に身を包み、やはり黒色をしたブーツを履いている。波打つ黒髪を背中に流し、濃紺の瞳をユヅカに向けたかと思うと、「おーやおや」と意地悪げにその目を細め、たっぷりの紅を塗った唇をにやっと持ち上げて歯を見せた。 「やっとお目覚めかい? 『タツノオトシゴ』のお姫様」
 親愛の情など微塵もこもっていない声色に、彼女は敵だ、と直感する。身体が自由にならずとも、気圧されまい、と目力を込めて見返すと、たちまち、その顔が憎々しげに歪んだ。
「気に入らないね。もっときゃんきゃん泣き喚くかと思ったのに」
 彼女はつかつかと近づいてきたかと思うと、寝台に腰掛け、ユヅカの顎をつかんで、ぐいと自分の方へ向かせる。
「何でお前みたいな小娘が、あの方のお気に入りなんだか」
 ぱん、と。
 きつい平手がユヅカの頬を打った。
「『タツノオトシゴ』の竜使りょうしってだけで、ちやほやされて、いい気になっているんじゃあないよ」
 二発、三発と。往復で平手打ちを食らう。何故初対面の女に、いきなりこんな風に打たれなくてはならないのか。睨み返すと、更なる平手が叩き込まれた。
「生意気だねえ、その目」
 女が歯噛みし、暴力の雨を降らせていた手を宙にかざす。そこに現れた物に、ユヅカははっと目をみはった。
 拳大の赤い果実のような物体。エリメラの命を奪った爆発物だ。そして気づく。これも砂希さかなで、彼女も竜使なのだと。それがユヅカの眼前に押し当てられる。
「その目を潰せば、アタイのこの胸のもやもやも、少しはすっきりするかねえ?」
 女がさも楽しそうな声をあげる。だが、赤い果実がユヅカに害をもたらす事は無かった。細い黄緑の光線が、過たずそれを打ち抜き、一瞬にして砂に返したのである。
「イザベル。何をしている」
 絶対零度の冷たさを帯びた呼びかけに、イザベルと呼ばれた女がさっと顔色を変えて、声の方向を振り返る。そこには、かつて古い本で見た『軍隊』の人間のような黒い正装に身を包み、見開いた灰色の瞳に怒りをたたえたヒューゴが、砂希――『バレルアイ』といったか――を従えて立っていた。
「ヒュ、ヒューゴ様、これは」
「誰が私のユヅカに危害を加えて良いと許した?」
「そ、それは」
 イザベルの弁明は間に合わなかった。瞬時に伸びてきたヒューゴの手が彼女の髪を無造作につかみ、乱暴に床に引き倒したかと思うと、ごつ、と固い長靴の先を、その顔に叩き込んだのである。
「いつからお前は、私の物に好き勝手に手を出せる身分になった? 拾われた駄犬の分際で」
 靴は容赦無く、イザベルの顔に、胸に、腹に、足に叩き込まれ、痣を刻んでゆく。
「あっ、ああ……。お許しください、ヒューゴ様、ヒューゴ様……!」
 鼻から垂れた血で紅が流れて、口周りを赤く染めながら、イザベルが懇願しても、ヒューゴの執拗な攻撃は止む様子を見せない。
「やめて!」
 反射的に、ユヅカは叫んでいた。途端、ぴたり、とヒューゴの動きが止まり、ゆるゆると彼がこちらを振り返る。その顔には、訳がわからない、といった色が浮かんでいた。
「どうしてだい、ユヅカ? 私の大事な大事なお前に手を挙げた者は、罰を受けて然るべきだし、その結果死んだとしても、当然だろう?」
 ぞっと、怖気が背筋を這い上がる。この人は何を言っているのだろう。この人は、本当に自分の知っている兄なのだろうか。
 そう考えたところで、違う、という思いが浮かんでくる。ユヅカの記憶は改竄されていたのだ。他でもない、この男によって。幼い頃の記憶の中、本当に隣にいたのは、この男ではない。
(イルギッド)
 彼だったのだ。だが、彼はもういない。この男に殺されたのだ、今度こそ。
 目を潤ませるユヅカを見て、ヒューゴはふと溜息をつき、「ああ、泣かないでおくれ、私のユヅカ」と両腕を広げてみせた。
「怖かったんだね、もう大丈夫だよ。私が傍についている。二度と離さない」
 違うそうではない、という言葉は、喉につかえて出てこなかった。お前のせいだ、という罵倒も音にならない。唇を震わせるユヅカに、ヒューゴは猛獣に食われる小動物を見るような哀れみの目を向けて、床でむせ込んでいるイザベルを一瞥し、「行け」と冷たく言い放った。
「二度とユヅカに近づくな。次は首を落とす」
 イザベルがひゅっと息を呑み、這々の体で部屋をまろび出てゆく。扉が閉められ、室内にはユヅカとヒューゴの二人が残された。
 ヒューゴは、いつも草原で見せていた優しげな笑みを浮かべながら近づいてくる。だが、その目は笑っていない。灰色の瞳は濁って、とても『ユヅカの兄』を演じていた頃と同一人物とは思えない。そんな彼が、ユヅカに覆い被さるように寝台に上がってきた。二人分の体重を受けて、ぎし、と寝台が鳴く。嫌な予感を覚えて身をよじったが、枷が手首に食い込むばかりで、逃れる事はかなわない。
「何をそんなに怖がるんだい?」
 やたら温かい手が頬に触れ、愛おしむようになぞる。そんな行為さえ、おぞましい、と感じる。
「ようやっと、お前を本当に私のものに出来るというのに」
 これから何が行われるか。ユヅカとて無知ではない。だがそれは、愛を誓った男女が、次代へ命を繋ぐ為に行うものだ。きょうだいがして良いものではない。ましてや、愛の無い二人の間でなど。
「嫌……」
 ぎちぎちと、鎖のきしむ音を立てながら、ユヅカは涙声をあげる。
「嫌、助けて、イルギッド! イルギッド!」
「困った子だな」
 ヒューゴが、手を焼く子供を見るような表情を浮かべたかと思うと、顔を近づけ、ユヅカの唇を塞いだ。歯列を割って舌が入り込んできて、口内を蹂躙する感触が、ひどく気持ち悪い。イルギッドに唇を奪われた時は、ただただ吃驚してしまった。だが今はひたすらに、ヒューゴに触れられて口づけを降らされる事が、とてつもなく気色悪い。
「そういえば、お前は幼い頃から、私を困らせてくれる子だったね」
 銀糸を引きながら唇を離し、ヒューゴがにやりと笑う。
「ここニゲルの部族集会で、お前と出会った時、私は運命だと感じたんだよ。『タツノオトシゴ』を持つお前は、私に新たな世界を与える為に生まれてきたのだと」
 言われて、頭の奥がずきりと痛む。操作されていた記憶が蘇る。どこかの宴の広間で、顔も覚えていない両親と手を繋いでいる、物心ついたばかりの自分。それを、物欲しそうに見下ろしていた、赤毛の少年。彼は、両親に何事かを言った。その途端、両親は自分を抱えて、広間を逃げるように去った。
「私はお前の両親に言っただけだよ。『この子を私にください。十八歳まで立派に育て上げてみせます』と。それなのに、彼らはいきり立って、お前を連れ去った。だから」
 至近距離で、男が悪鬼のごとくにたりと唇をめくり上げる。
「殺した」
 ユヅカが息を呑み目を見開くのを面白がるように、ヒューゴは口上を続ける。
「手足を壁に打ち付けて。少しずつ指を削いで、皮をはいで、腱を切って、内臓に一本一本短剣を刺して。お前の居場所を聞き出そうとしたのに、二人ともあっという間に壊れてしまった。その間に、他の連中がお前を連れ去ってしまったし。本当に困りものだったよ」
 今なら思い出せる。炎と煙の中を、大人達に手を引かれて、まろびそうになりながら逃げた事。『おとうさんとおかあさんは!?』とアリィに訊ねても、『今はご自分が生き延びる事をお考えください!』と叱咤された事。
 あれは、ヒューゴの仕業だったのか。
「一族揃ってニゲルを逃げ出して、ウィリディスに身を隠していたものだから、探し出すのに時間がかかってしまったよ」
 そうだ。そこから先は、思い出した記憶の通りだ。
 シェルテ族としてウィリディスで暮らしていたユヅカと一族の人間達を見出したヒューゴは、『カニス』と呼ばれていたイルギッドを、ユヅカをさらう手先として送り込んできた。それが失敗すると、自らの一族の人間を連れて攻め込んできたのだ。黒服達を指揮して草原を焼き、ユヅカを人質に大人達の反抗を封じて、イルギッドを叩きのめし、ウィリディスの外へ捨てた。それから、ユヅカの記憶を操作して、さも自分がユヅカの愛しい兄であるかのように振る舞っていたのである。
 狂気だ。ユヅカは身を震わせた。ヒューゴは決して、兄が妹を慈しむ感情を持っていたのではない。かつて神が再生を誓った楽土を手に入れる為の道具としてしか見ていなかったのだ。
「時間はかかってしまったが、やっとこの時が来た」
 ヒューゴが服を脱ぎ捨てる。それなりに鍛えられた身体が露わになるが、異性の半裸を見て、羞恥よりも恐怖が先立つ。
「イルギッド……!」
「狗の名前を呼ぶのはもうよすんだね」
 再び唇を塞がれる。彼の名を声に出す事も封じられて、とうとう涙腺は崩壊する。
(イルギッド、イルギッド)
 大切な人の名を心の中で繰り返しながら、ユヅカは喪失の悲しみの海へと沈んでいった。

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