08:守りたいと望み


 びょうびょうと。風が鳴いて身に触れる。しかしそれは、フテラの背からユヅカを叩き落とそうという激しいものではなく、むしろ寄り添うように優しく身を撫でて流れてゆく。
『ユヅカは本当に無邪気だね。でも、そんな所が大好きだよ』
 そう微笑わらって頬を撫ぜてくれた兄の声が脳裏で蘇り、きゅっと心臓が締めつけられるような思いがして、ユヅカはそっと胸に手を当てた。
「苦しいか?」
 不安げに問いかける声に、ユヅカの意識は思い出から現実に戻ってくる。
「だ、大丈夫! ほら!」
 またイルギッドに心配をかけてしまった。罪悪感を払拭しようと、彼の方を振り返り、ぶんぶんと腕を振り回す。すると青の瞳がぎょっと見開かれ、「危ないだろ」とその腕をつかまれ、引き下ろされた。
「フテラの背で暴れるな。翔竜の上ならともかく、外に出ちまえば、足下は何も無い。流石にここから落ちたら、お前を助けられねえ」
 神妙な顔でたしなめられては、ユヅカはぐうの音も出ない。たしかに、こんな場所で暴れるのは、自殺行為に等しかった。
「ごめんなさい……」
 羞恥で火照った顔を誤魔化す為に前に向き直り、しおれた小声で詫びると、大きな手が頭に乗せられ、くしゃりと髪を撫で、くすりと笑う声が聞こえた。
「まあ、お前のそういう無邪気な所は、嫌いじゃあないぜ」
 とくん、と心臓がまたひとつ、脈打つ。
「嫌いじゃあない」という事は「好き」なのだろうか。最悪の出会い方をしたのに、この人は、自分に好意を寄せてくれているのだろうか。
 そう考えて、何故そんな事を気にするのだろうと、疑問符が浮かぶ。別にイルギッドが自分を好きでも嫌いでも構わないではないか。自分は彼の事を何とも思っていないのだから。むしろ出会いは最悪で、大嫌いだとまで思っていたのだから。
 その思考が浮かんだ所で、
(……本当に?)
 また新たな疑問が心に渦を巻いた。
 彼に話しかけられると、心臓がどきどき言う。その淡青の瞳をこちらに向けてくれれば、心がうきうきするし、見つめていても振り向いてくれないと、しょんぼりした気持ちに沈んでしまう。そのひんやりした手が触れた場所は逆に温かくなるし、今、彼の胸に背中を預けて、彼の心拍を身体で感じる事が、ひどく心地良い。
「何だ、癪に障ったか」
「違うの! あなたのせいじゃないの! 気にしないで!」
 黙り込んでしまった事が、彼の心配を余計に煽ってしまったのだろう。いじけ気味の声が耳朶を打ったので、ユヅカは今度はまっすぐ前を向いたまま、ぶんぶんと首を横に振った。
「ならいいが」
 イルギッドはそう呟くと、風の方角を読んで手綱を操り、空気の流れに上手くフテラを乗せる。しばらく風の音とフテラの羽ばたき以外、無言の時間が過ぎる。
 こんな風に、空を舞う日が来るとは思わなかった。シェルテの草原にいた頃、兄ヒューゴのフテラに乗せて欲しいと何度か駄々をこねた事があったが、兄は困ったように肩をすくめて、
『いいかいユヅカ、空は危険でいっぱいだ。私は大事なお前を進んで危険な目には遭わせたくないよ』
 とやんわり諭してきた。なので、これはねだってはいけない事なのだと、いつしかユヅカも口にしなくなっていた。
 だが、今味わう空中散歩は、いかに快適な事か。乗り手さえしっかりフテラを御していれば、危険な事などほとんど無い。兄はこの感覚を独り占めしていたのか。ずるい、と思うと同時に、それでも兄は万一の確率を考えて、自分を守っていてくれたのだろう、という考えも浮かぶ。
 アルブスの居心地は悪くない。むしろ快いくらいだ。だが、心はやはり早く草原に帰りたいと本音を呟く。そして、迷惑はかけないからと言い添えて、兄のフテラに乗って、二人でウィリディスの空を舞いたいと願う。
 兄に連絡を取る手段は、相変わらずわからない。ふっと顔を伏せて、溜息ひとつをついた時。
「いよう、イルギッドじゃねえか!」
 自分達以外のフテラの羽ばたき音が複数聞こえて、ユヅカの思考は空に散った。イルギッドが不快そうに舌打ちする。
 いつの間にか、十羽ほどのフテラが、こちらを取り囲むように飛んでいた。その背に乗る男達は、いずれも剣や弓を帯びており、へらへらと嘲るような笑いを浮かべている。どう好意的に見積もっても、イルギッドの友人とは思いがたい。
「コルゴン」
 イルギッドが心底面倒くさそうに、先頭を飛ぶ男の名を呼ぶ。
「てめえも毎度毎度懲りねえな」
「っせえ! 毎度毎度お前にボコボコにされてりゃ、コルゴン一味の名がすたるってもんなんだよ!」
 ごつそうな名前の割には、鼠のように貧相な顔をした男が、唾を飛ばして我鳴る。
「しかも今日は楽しそうに女連れかよ! 今日こそお前を打ち落として、その女はもらっていくからな!」
 またユヅカを狙う連中が現れた。緊張に身が固くなり、心臓が一瞬痛みを覚えるが、「心配すんな」と耳元でイルギッドが囁いた。
「連中はただのごろつきだ。お前が竜使りょうしだって事には気づいてない。ちょいと荒っぽい飛び方をするが、さっさと片付けるから、お前は振り落とされねえようにつかまってろ」
 言われて、身を伏せるようにフテラの首にしがみつく。途端、フテラが力強く羽ばたいて、急上昇を始めた。
 たちまち、コルゴン一味が、慌てて武器を手に後を追ってくる。その先陣が迫った瞬間、イルギッドは腰の短剣を抜き放って、フテラの背の男に容赦無く斬りかかった。「ぎゃあっ」と悲鳴をあげて男がのけぞる。
「野郎!」
 後続が剣を振りかぶる。イルギッドが足で合図を送ると、ユヅカ達が乗るフテラは一瞬翼を畳んだ。落下する事で刃は空を切り、身に訪れた浮遊感に、ユヅカは小さな悲鳴をあげる。
「――来い」
 低い声でイルギッドが宣誓する。彼の砂希さかな『シャチ』を呼んだのだ、と気づいた時には、白と黒の流線形を持つ砂希がコルゴン一味に襲いかかっていた。剣を持つ腕を喰われたり、フテラの翼をもがれたりした者が、次々と銀色の雲の下へと落ちてゆく。
「こいつ、いつもいつもいい気になりやがって!」
 コルゴンが鬼のごとき形相をして、短弓を構えた。放たれた矢は風を切り、ユヅカ目がけて迫ってくる。ざっと頭から血の気が引いたが、矢が当たる直前、紺色の衣をまとった腕が、ユヅカの眼前を覆った。
 耳に届く呻き声は、イルギッドのものだ。伸ばされた右腕に、コルゴンの放った矢が深々と突き刺さっている。痛みで力が入らないのか、握っていた短剣が手から零れ落ちて、たちまち見えなくなった。
「馬鹿が、呑気に女といちゃいちゃしてるからだ!」
 コルゴンが勝ち誇ったように大声で嗤う。
「やっちまえ!」
 主の命令のもと、手下達のフテラが一斉に向かってくる。
(どうしよう)
 ユヅカの頭の中で、その考えがぐるぐる巡った。イルギッドは自分をかばったせいで傷を負った。自分を連れていなければ、彼と『シャチ』の実力ならば、こんな連中はまばたきひとつの間に撃退できただろうに。
 彼の為にどうすればいいか。それを思考した時、ユヅカが至った答えはひとつだった。
(今度こそ、私が、彼を守らないと)
 そう決意した瞬間、ユヅカの中の砂希は、明確に願いに応えてくれた。

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