07:空を舞う


「アルブスの外を散歩してみるかい?」
 シンワにそう言われたのは、屋敷で働き始めて更に数日が経ったある日の、昼食の席だった。

 砂希さかなをぶつかり合わせた件を、サトムは細々とした声で、しかし深々と頭を下げて謝罪し、その事件を経て、イルギッドへの苦手意識も少しだけ克服する事ができた。
 この屋敷に住む人々は、最初にシンワが言った通り、悪人ではないのだ。彼らを理解する為に、皆で話す時間が欲しい。そう言い出したユヅカの願いを受け、「いいね、悪くない」と口元を持ち上げたシンワの鶴の一声で、今後の食事は全員でとる事になった。
 レナは「私は皆様のお世話をする為にいるので」、マレーは「給仕する人いなくなっちゃうじゃない」などと言って辞退しかけたが、
「これは僕の願いでもあるんだけどな?」
 シンワが穏やかに、しかし有無を言わせない笑みを見せると、大人しく従った。
 長年使われる事の無かった食堂を皆で掃き清め、テーブルを拭く。黄ばんだテーブルクロスの代わりに新しい一枚をばさりと広げた後、真ん中に硝子の花瓶を置いて、庭に咲いていたガーベラを活ける。いつも必要な物をもらいに行っても、鷲鼻をぴくりと動かすだけで一切口を開かない庭師のスペンサーは、やはり黙々とながらも椅子を一つ一つ調べて、がたついている場合は工具を持ち出して釘を打ち直した。
 灰色で埃がへばりつき、室内の雰囲気を暗くしていたカーテンを全て取り払い、白いレースの物に取り替える。
 天井からぶら下がる燭台の蝋燭は、背の高いイルギッドが台に乗り手を伸ばし、古い物を取り払う。
「くれ」
 燭台に視線を向けたまま古い蝋燭を差し出し、ユヅカが受け取って、彼の掌に新しい一本を乗せる。彼は黙々とそれを燭台に差し、全部を差し終わると、火を点ける。柔らかい赤が彼の横顔を淡く照らし出し、「ああ、明るいな」と、どこか満足げに微笑む様は、いつもの意地悪い笑顔とは大分違って目に映る。ユヅカの心臓がひとつ、とくんと高鳴った。
「あら」「あらあら」
 その様子を眺めていたエリメラとマレーが、にやにや顔を見合わせていたのは、何故なのかわからなかったが。
 燭台の灯りと、外から差し込む白い陽光で、食堂内は見違えるような明るさで満たされた。
 久方ぶりの客を迎えて、心無しか喜んでいるかのごとく見える食卓に、屋敷内の全員が着く。エリメラはうきうきしつつ、レナは戸惑い気味に、セエタ女史はつんとすまし顔、スペンサーは相変わらずの無表情。引きこもりのサトムでさえ、謎の水棲生物――メンダコというらしい――のぬいぐるみを深々と頭にかぶりつつ椅子に座った。
 マレーが腕をふるった昼食は、生から良く煮込んだトマトクリームに数種類の茸を混ぜ込んだソースを、ペンネに遠慮無く盛り付けたメインと、バジルの香りも入り交じったガーリックトースト。庭で採れる葉野菜に、玉葱をじっくり炒めてオリーブオイルと絡めた手作りドレッシングをかけたサラダ。飲み物は、ルビー色をしたグレープフルーツと葡萄を搾った果汁を、エルダーフラワーの茶で割った、マレー命名『マレースペシャル』。
 どれもこれもが、素朴な味わいを旨としたシェルテの草原ではお目にかかれない料理ばかりだ。
「どう? アタシの自信作、美味しくないなんて言わせないんだから」
 ユヅカが思わず目を見開くと、、マレーが得意気に顎を上げて鼻の穴を広げた。
 全員が両手を合わせて「いただきます」を言い、ナイフとフォークを手に取る。
 パスタと茸を舌に乗せると、トマトのほどよい酸味が口いっぱいに広がって、後からわずかにやってくる甘味が心地良い。サラダは玉葱の香ばしさが葉野菜特有の苦みを完全に打ち消し、『マレースペシャル』を含めば、果物とハーブの得も言われぬ協奏曲が、口内をすすいでくれた。
 そうして料理をすっかり堪能し、デザートに、表面の粗目ざらめをこんがり焼いたクレームブリュレをつついていると、主人の席に着いているシンワが、冒頭の台詞を言い出したのである。
「感心いたしませんわね」
 ゆるりとした笑みを見せるシンワに対し、セエタ女史がナプキンで口を拭って、丸眼鏡の奥の瞳をぎらりと光らせた。
「ユヅカさんは狙われる身。ふらふらと外へ出るなど、危険極まり無いです」
「勿論、ユヅカだけで行かせる気など無いよ」
 女史の眼力もものともせず、シンワはあくまで笑顔を絶やさずに話を続ける。
「イルギッドが連れていくといい。ユヅカ一人ではフテラに乗れないし」
 瞬間、初めて会った時の、フテラの背に乱暴に乗せられた思い出が蘇り、ユヅカは『マレースペシャル』が入ったカップを持つ手を中途に止めて、斜向かいに座る青年をじっと見つめてしまった。彼がやや不思議顔でこちらを向いたので、慌てて目を逸らす。
 だが、とも思い直す。
『見直した』と言われた。多少は認めてもらったと考えて良いだろう。それに、普段の彼は、それなりにこちらを気遣ってくれている事も今ならよくわかる。いつまでも怖じ気づいて身を引いていれば、心の距離も縮められないままだ。
「頼めるね、イルギッド?」
「最初からそのつもりだったんだろ」
 少年の問いかけという形の確認に、青年が小さく嘆息する。ユヅカが思考している間に、男達の短い会話で話は決まってしまったようだ。
「そんなに長時間遊ぶ事はお奨めしないけれど、気分転換に、楽しんでおいで」
 シンワがユヅカの方を向き、ゆるやかに微笑んだ。

 食事が終わって腹休めをした後、白い屋敷の前に出ると、茶色いフテラが待機していた。イルギッドの翼だ。その背中には、今日は二人乗り用の鞍が取り付けられている。
 イルギッドは軽やかに己のフテラに乗ると、ユヅカに向けて手を差し伸べた。ユヅカは思わずその手に見入ってしまう。長身に沿った大きな手だとは思っていたが、兄のヒューゴよりも大きいだろう。短剣を腰に帯びている事から予測はしていたが、指は太くごつごつしていて、掌の皮は厚そうだ。
「やっぱり、俺と乗るのは嫌なんだろ」
 あまりにもぼうっとして、怖じ気づいているように見えたらしい。イルギッドが、少しだけ諦観を混ぜ込んだ声で問うてくるので、ユヅカははっと我に返った。
「ち、違う! そうじゃない!」
 耳まで赤くなりながら勢いよく首を横に振って、自分を待っている手に、己の手を重ねる。途端、ひんやりとした感覚と共にぎゅっと握り返され、強い力でフテラの背に引き上げられて、青年の前の鞍に収まる形になった。
「行くぞ」
 一声と同時、フテラは大きく羽ばたいて、アルブスの白い空に舞い上がる。セエタ女史曰く、翔竜のドームは、地上、つまり背中に近いほど固く、上に行くほど、かつて失われた『海』のような水に性質が近い、柔らかな膜になっているという。その為、他の竜へ行くには、フテラを使って上空を突き抜けるのが普通で、ウィリディスに侵入してきたルベルの連中のように、『果て』を壊すなどという暴挙は、愚行極まりないのだ。もっとも、『果て』には自己修復作用があって、ウィリディスの壊された『果て』は今頃、破壊の形跡も無く再生しているだろうとの事である。
 ユヅカが草原から行方をくらませて十数日。きっと兄はひどく心配しているだろう。何とか、無事だという連絡を送る方法だけでもあれば良いのだが。
 考えを巡らせている間に、フテラが白い空へと突っ込む。相変わらずの息苦しさと耳の閉塞感は慣れず、目をつむって手で口を覆ってしまう。すると。
「息を止めるな。深呼吸しろ」
 耳に滑り込む声に、はっと目を開き、肩越しに振り返ると、青の瞳がじっとこちらを見つめていた。
「『果て』は、友には友に、敵には敵になる。恐れればそれだけ恐怖が増す。母親の腕の中だとでも思ってれば、怖くねえだろ」
 そう言って薄く笑む表情が、『果て』の中にきらきら舞っている白い粒子に照らされ、輝くように見えて、ユヅカは再び頬を熱くする。ぎくしゃく頷きながら前を向けば、背中に触れているイルギッドの胸の鼓動が伝わってきて、こちらの心拍数が上がってゆく。何故こんなにも動揺するのか。困惑を誤魔化す為に、すーはーと殊更大きく深呼吸を繰り返した。
 やがて『果て』は終わり、銀色の空が広がる。見上げる太陽も、見下ろす雲も、遙かなる銀。先日目にし、更にシンワがジオラマで語ってくれた通りの世界が、そこにあった。

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