06:衝突と和解と


 アルブスでの数日間は、安穏と過ぎた。
 シンワの屋敷で暮らしているのは、八人。うち竜使りょうしはシンワ、イルギッドを含めて四人。他はレナのように、住んでいる者の身の回りの世話をしたり、あるいは料理を作ったり、庭を整えたり、渉外を務めたりと、砂希さかなで戦うわけではない者もいた。
 彼らは、常にどこかで誰かが、ユヅカが一人で屋敷を出ていかないように目を光らせてはいたが、屋敷内を歩き回る事については特段口出しをせず、書庫で蔵書を眺めたり、好きな時間に湯を浴びたりしても、咎めてくる事は無い。
 そして、誰かが傍についていれば、屋敷の庭先に出るのも許された。
「竜使はそう簡単に何人も見つかるものじゃあないのよ」
 エリメラという、ユヅカより五つ年上の二十三歳だという竜使の女性は、流動する体と長い足を持って空中をふよふよと漂う、己の砂希『クラゲ』を披露してくれた後に、高い位置で結った金髪を揺らしながら振り返り、両肩をすくめた。
「かつて地上世界にあった『海』に棲んでいた魚の種類は、書庫に仕舞われている図鑑にも収まりきらない数いる。だけど、『タツノオトシゴ』がキミの砂希として現れるまで存在しなかったように、いつの時代にも必ず砂希を操る竜使が複数人いるとは限らない」
 だから、ここは特別、とエリメラは黒い瞳を細めて、少し寂しげに微笑む。
「竜使の数は少ない。もしどこかで生まれた場合は、貴重な能力者として敬われるか、逆に異端として疎まれるか、よ。シンワは各地にいる後者を見出して、アルブスに匿ったの」
 話を聞いていて、エリメラも後者だったのだろう、とユヅカは気づいた。ふっと視線をやれば、女性の長い袖口から垣間見える腕や、ワイドパンツをはいた足には、古そうな傷痕が幾つも刻まれている。彼女がどんな人生を送っていたか、草原しか知らなかったユヅカでも想像がついた。
 竜使である事、人ならざる力を持つ事は、決して幸せな事ではないのだ。それでも彼らは、悲嘆するでも、恨み言を吐くでもなく、手にした力を無闇に振るいもせずに、身を寄せ支え合って生きている。それを知ると、ついこの前まで安全な場所でのうのうと暮らして、失った途端にめそめそ泣いていた自分が、急に恥ずかしくなった。
 唇を噛み、ぎゅっとスカートを握り締める。
「ん? どしたの、ユヅカちゃん?」
 急に神妙な顔になったので心配したのだろう。エリメラが不安げにこちらを覗き込んでくる。ユヅカはスカートから離した手でがっと相手の腕をつかみ、身を乗り出す勢いで、思いを口にする。
「エリメラさん、私も皆の役に立たせてください!」
 その気迫に、エリメラが目を白黒させたが、ユヅカの中の決意は変わらなかった。

 皆の役に立ちたい。
 その為にユヅカが選んだ行動は、屋敷の仕事の手伝いをする事であった。
 鍵のかかっていない部屋を回って寝台のシーツをかき集め、晴天の下、レナと一緒にがしがし洗って、洗濯竿にびしっと広げて干す。
 次は箒と雑巾を手に屋敷内の掃除。やっと覚えた三階建ての中の床を掃き、埃をかぶった置物を拭いて、庭師のスペンサーからもらってきた青薔薇を、一輪挿しの古い物と差し替える。
「年頃の女性が、はしたなくスカートをびらびらさせて走るものではありません!」
 コマネズミのように走り回っていると、シンワの秘書を務めているというセエタ女史が、眉をつり上げ丸眼鏡を指でくいと押し上げて、呆れきった様子でたしなめもした。
 昼が近づけば厨房に向かい、料理人のマレーに、手伝わせて欲しいと頭を下げる。
「アタシの聖域に踏み込むからには、レナくらいの事は出来る自信があるんでしょうね?」
 彼はどこからどう見ても背格好は男なのに、女物の調理服を着て、ぴんと小指を立てた手を青ひげの残る顎に当てて、ずいと顔を近づけてきた。だが、ここで引いたら馬鹿にされて終わる、と直感的に悟ったユヅカは、後ずさりも怯みもせず、マレーの茶色い瞳をじっと見返して、力強くうなずいた。途端、彼はにいっと唇の端を持ち上げると、早口にまくしたてる。
「今日のお昼は、アルブス特産ルネーヌ鶏と玉葱のスープ、コリアンダー増し増しよ。ハーブは長く浸けると味も見た目も悪くなるから、タイミングを間違えないで」
 指示に従い、スープの火加減を見る傍らで、『黄の竜フラーヴァ』特産のきんあめ林檎りんごの皮を包丁でむき、蜜たっぷりの実を八等分に切り分けて塩水に浸ける。
「ハイ食べ頃!」
 マレーが柑橘類の芳香漂う茶を注ぎながら声をあげたので、慌てて鍋の火を消し、スープをよそってコリアンダーを増し増しで盛りつける。
 屋敷の人数分の盆に、スープと、水からあげた林檎、そして茶のカップを置く。
「後は外のワゴンに置いておけば、皆勝手に取りにくるけど……」
 盆を運ぶユヅカの様子を見ながら、マレーがぽつりと呟く。
「一人だけ出不精がいるから、いつもはレナの役目なんだけど、今日はアナタが持っていってくれない?」
 屋内なのに出不精とはどういう事だろうか。ユヅカが目をしばたたかせると、料理人はにやっと笑って片目をつむってみせた。

『竜使同士、案外仲良く出来るんじゃないの?』
 そうマレーに背中を押されて、ユヅカは屋敷の二階、廊下に差し込む光量も少ない、奥の部屋の扉前に、食事の盆を持って立っていた。掃除をしている時には、使用されていないと思って無視してしまった部屋だ。まさか人がいたとは。
「サトムさん、お昼ご飯を持ってきました」
 声をかけて扉を叩く。応えは無い。
「サトムさん、入りますね」
 ドアノブに手をかける。鍵はかかっていない。扉を開いて、ユヅカは眉間に皺を寄せる羽目になった。
 昼間なのにカーテンを閉めて、わずかな光しか入ってこない室内でも見える、大量のぬいぐるみ。ユヅカの知っている羊や牛、猫や犬といった動物から、ウィリディスでは見た事も無い何かまで、大小問わず積み上がっている。日干ししていないのだろう、埃と、わずかなかび臭さが鼻を突く。入り口で呆然と立ち尽くすユヅカの視界の端で、ぬいぐるみの一部だと思っていた、焦げ茶色の巻き毛を持つ丸い影が、のそりと動いた。
 ぽっちゃりとした男性だ。やや小柄で、隣の大きな熊猫パンダのぬいぐるみと並ぶと、彼までぬいぐるみに見える。小さな瞳がこちらをとらえたかと思うと、明らかにおびえを宿してまん丸く見開かれた。
「誰」
「ユヅカです。先日からここでお世話になってます」
『アタシと同い年だから、ここにいる竜使の中では一番年上よ』
 マレーはそう言ったが、少年っぽい高い声からは実年齢が把握出来ないし、そもそもマレーの年齢もわからない。完全に警戒されている、と自覚しながら、ユヅカは精一杯の笑顔を見せた。しかし、サトムは相好を崩すどころかより表情を険しくして、傍にあった水棲生物らしきぬいぐるみを頭からかぶる。
「レナ以外は嫌だってマレーに言ってるはずだ。出てけ」
 とりつく島も無い態度だ。ここに来たばかりのユヅカだったら、申し訳無い気持ちで一杯になって、その場に盆を置いて立ち去っていただろう。だが今は、ここまで拒絶される事が、逆にユヅカの心に火を点ける。何が何でも、手渡しで食事を受け取ってもらおう、と。
「そのマレーさんに頼まれたんです。こんな所にこもってないで、お日様のあたる所でご飯を食べたらどうですか」
 ぬいぐるみで踏み場の少ない床に足をつき、近くの鹿のぬいぐるみを拾い上げる。
「ほら、ぬいぐるみだって、暗い所にいて、元気が無いですよ。外に干してあげたら」
「――触るな!!」
 途端、サトムが血相を変えて怒鳴った。直後、ごう、と部屋の中に突風が巻き起こり、サトムの傍らにやたら大きく平たい、主と同じような小さい瞳を持つ生き物が現れる。砂希だ、とユヅカが気づいた瞬間、それがこちら目がけて飛びかかってきた。
 ぶつかる、と思ったその時、ユヅカからも烈風が巻き起こった。シェルテの草原で現れた銀色の竜『タツノオトシゴ』が目の前に出現したが、相手の砂希は遠慮無く突っ込んできて、『タツノオトシゴ』ごとユヅカを突き飛ばした。
 盆が手を離れて、コリアンダーが宙を舞う。頭からかぶった茶が熱い。いやそれ以前に、すさまじい衝撃に脳が揺さぶられる。『タツノオトシゴ』が砂に還ってさらさらとその場に崩れ落ちてゆく。
「あっ……あああ……!」
 今更自分のした事に気づいたように、サトムがよろよろと立ち上がり、太い指の両手で頭を抱えた。
「誰か……誰か! 誰か来てくれえええ!」
 彼がこんな風に大声をあげる事は、常ならぬのだろう。すぐさま誰かが駆ける足音が近づいてくる。歪む視界の中で、自分を抱き起こしてくれたのは、紺色の衣の青年だった。
「サトム!」いつに無い剣幕で、青年――イルギッドが声を荒げる。「こいつに『マンボウ』をぶつけたな!?」
「だ、だって、だって……彼女が僕のぬいぐるみを」「言い訳は聞かねえぞ!」
 相手の弁を完全に封殺し、イルギッドがユヅカを横様に抱き上げる。また肩に担がれるかと思ったが、右腕は背中に、左腕は足に添えられて、手荒に扱われる様子は無い。
 こんな事もあるのか。それともこれは、ぼんやりした脳が見せる幻か。朦朧とした世界の中、そんな事を考えながら、ユヅカは闇へと沈んだ。

 さわさわとした風が吹き込んでくる。草が揺れてこすれ合う音は、シェルテの草原と同じだと思いながら、ユヅカの意識は現実に立ち返った。
 自室の寝台の上だった。窓の外の白い空は相変わらずで、ここが故郷ではない事を示している。だが、その感覚も既に慣れた。
「気がついたか」
 声が耳に滑り込んできたので、そちらへ視線を転じる。淡い青の瞳が、やけに気遣わしげにこちらを見下ろしている。イルギッドだ。
 初日の出来事以来、彼を避け続け、向こうもこちらに関わろうとしなかったので、まともに顔を合わせるのは久しぶりだ。何を話すべきか戸惑っていると。
「大丈夫か」
 彼が、心底案じるような表情で問いかけてきた。
「竜使は無敵じゃあない。砂希同士がぶつかれば、身体は何ともなくとも、精神が傷つく場合がある。記憶が欠落してたりしねえか」
 言われて思い返す。サトムを怒らせて、『マンボウ』とやらの突進を『タツノオトシゴ』で防いだが、質量差か、『タツノオトシゴ』が押し負けてしまった。きちんと覚えている。
「多分……大丈夫」
 のろのろと答えを返すと、それでもイルギッドを安心させるには充分だったようだ。「ならいい」と彼は顔を伏せ、深々と息を吐き出した。
「これ以上お前に何かあったら、俺は竜使でいる資格が無い」
 何かあったらも何も、初日にさんざん何かをしてきたのはそちらではないか。少しぷうっと頬を膨らませると、気づいたのだろう、青年はばつが悪そうに苦笑した。
「サトムには後でお前に謝るよう、よく言って聞かせた。あいつも竜使の能力を持っていた為に、故郷で孤立しててな。ここに来てからも、簡単には他人に心を許さねえんだ」
 言われて、エリメラが長袖と裾で傷痕を隠していた事を思い出す。彼女が身体に傷を負っていたように、サトムは心に大きな傷を刻まれたのだろう。それを初対面の人間に土足で踏み荒らされては、逆上するのも当たり前だ。
「サトムさんが謝る必要は無いわ。勝手に踏み込んだのは私だもの。むしろ私が謝らないと」
 そう言って首を横に振ると、イルギッドが驚いた様子で目をみはった。何か変な事を言っただろうか。きょとんとしながら上半身を起こそうとしたが。
「頭を打っただろ、まだ起きるな」
 肩に大きな手が添えられて、横たわる体勢に戻された。
 再び沈黙が落ちる。続ける言葉を探して、まだぼんやりする思考を彷徨さまよわせていると。
「しかし、あれだけの目に遭ったのに、お前、本当に学習しねえな」
 呆れたようなイルギッドの声が聞こえたので、視線を転じれば、彼は意地悪そうに唇を歪めていた。しかし、初日のように襲いかかってくる気配はしない。ユヅカがまっすぐに見つめ返すと、怯む事が無いと悟ったのか、「んだよ、調子狂うな」青年は子供のように唇を突き出して毒づいた。
「だが」
 長い指がユヅカの髪に触れて、信じられないくらい優しい手つきで梳いてくれる。
「お前がただぴいぴい喚くだけのひよっこじゃない事は、ちゃんとわかったよ。あの引きこもりのサトムにまでぶつかってくなんて、根性あるじゃねえか。見直した」
 ユヅカは驚きに目をみはってしまった。あれだけ自分を見下していたこの男が、認めてくれた。それに気づくと、頬が火照る。心拍数が上がる。恐怖の象徴だった鋭い目が、優しさすらたたえているように見えてしまう。
 この動揺は一体何なのか。戸惑っている内に、青年の手がくしゃりと頭を撫で、熱い頬にひんやりと触れる。
「とりあえず、今日は休め。砂希を使うと、多かれ少なかれ精神を消耗するんだよ。自覚無いままいきなりぶっ倒れられたら、迷惑だからな」
 迷惑、とは言ったが、最早嫌味は感じられない。それに、何だかひどい倦怠感を覚える。これが精神を消耗するという事か。言われた通り、目を閉じると、あっという間に眠気のびろうどがそっと覆いかぶさってきた。
 夢現の狭間で、声が聞こえる。
「今度は、失いたくないんだよ」
 それが本当にイルギッドの呟きか。判然としないまま、ユヅカは意識を夢の空へと遊ばせた。

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