05:翔竜世界の成り立ち


 白い光が窓から差し込んでくる。いつもは緑色に包まれているのに。
 不思議に思いながらゆるゆると目を開き、ユヅカはある瞬間にはっと現実に立ち返った。
 毛布をはねのけて寝台の上に身を起こす。そうだ、ここはアルブス。白い竜の背中。故郷の空の下ではない。
 のろのろと寝台から降り、寝間着から生成りのワンピースに着替え、髪を整える。そっと扉を開けて廊下に顔を出し、きょろきょろと見渡しても、誰かがやってくる気配は無い。
 まだ皆、寝ているのだろうか。この屋敷にどれだけの人が住んでいるのかはわからないが、流石にシンワとレナとイルギッドの三人だけ、という事は無いだろう。
 歩き回るのは良くないかもしれない。この建物の中も安全である保証はどこにも無い。それに、万一イルギッドに出くわしてしまったら、という恐怖感がある。また彼が意地悪をしてくるかもしれない。
 脅威に萎縮する気持ちと、この屋敷の中を知りたいという誘惑が、ユヅカの心の中で戦う。結果、勝利を収めたのは、後者であった。
(少しなら、怒られないよね)
 そう自分に言い訳をして、廊下へ踏み出す。窓から朝の光が入り込んで、アイボリーの絨毯を照らし出し、小鳥が新しい一日を告げる声が遠くに聞こえる。そんな安穏とした屋敷内を、ユヅカは時折辺りを見回しながら歩いていたが、草原と異なる初めての場所はやはり甘くはなかった。ものの数分で、元いた部屋さえ見失う迷子になっていたのである。
 こうなると、誰にも出会えない事が寂しくて仕方が無い。途方に暮れてうつむき嘆息し、ふっと顔を上げた時、視界に入ってきた扉に、ユヅカは興味を惹かれた。
『書庫』
 扉に貼られた、少し黄ばんだ札には、達筆でそう書かれている。
 シェルテ族の識字率はそう高くはない。商売をする者は商談で損を被る事の無いよう契約書を読む為に、読み書きと計算を習う。だが、集落から出ないで羊を追ったりはたを織ったりする仕事を主にする者は、敢えて学ばない場合も多い。しかし、ユヅカは幼い頃から読書に興味を示し、兄ヒューゴに文字を教えてもらって、昔から伝わるおとぎ話を読んだり、一族の人々の名前をすらすらと書く事はできた。
 ここにはどんな本があるのだろう。期待に高鳴る心臓に、おさまれ、と命じながら、扉を開く。途端、仕舞われ続けた紙のにおいが、ふうっと鼻腔に滑り込んできた。
 書庫と銘打っているものの、中はがらんどう気味であった。両壁に背の高い本棚が置かれているが、蔵書は多くはなく、空いている箇所もある。そういえば、シンワの部屋に本棚があった。ほとんどの本はあちらに持ち込まれているのかもしれない。あまり人も踏み入らないのか、窓から差し込む陽光の中で、埃がちらちら舞っているのが見える。
 ざっと見渡し、ユヅカは奥にある不思議な物に目を吸い寄せられた。縦横共に大人二人分腕を広げたくらいの台の上に、起伏のある地面や、川の流れ、群生する森、実際には見た事の無い『海』と呼ばれる場所と思しき水たまり、そういった自然の光景が、何を使っているのかわからない素材で配置されている。
「それはジオラマ。翔竜世界に生き残った人間が、地上の楽土を想って作った、『つくりものの世界』だよ」
 じっと見入っていたところへ、突然背後から声がかけられたので、ユヅカは思わず目に見えてびくうっと身をすくませてしまった。恐る恐る振り返れば、シンワが紫の瞳を細めて、どことなくおかしそうに微笑んでいる。吃驚びっくりしたところは、ばっちり見られていたに違い無い。
「おはよう」
 彼が軽く右手を挙げた。「おはようございます」と、やや緊張気味に頭を下げる。
「昨夜はよく眠れた……はずはないよね。知らない場所での夜は心細かっただろう」
 その声、労るような表情からは、真にこちらの事を案じていてくれる事が伝わる。演技とは思えない。それでも、シェルテの民に頼まれてユヅカを連れ出した、という彼の言葉を信じ切ったわけではない。反射的に身を固くしてしまう。
「まあ、警戒されても仕方が無いか。君にとって、僕らは誘拐犯にしか思えないだろうし」
 シンワはそう言って肩をすくめながらも、ゆったりとこちらに向けて歩いてくる。緊張で背中に汗が伝うのを感じるユヅカを後目しりめに、彼は脇を通り抜けて、ジオラマに手をかざした。
「これはかつての地上の姿」
 途端、どういう原理なのか、つくりものだった世界が、呼吸の仕方を思い出した生き物のように動き始めた。川は流れ、木々が風に吹かれて揺らぎ、鹿が跳ね狼が駆け、鳥が空を飛ぶ。
「かつて、この世界には広大な大地があった。幾つもの大陸と、多くの国が存在し、人々は栄華を極めていた」
 まるでジオラマに併せた物語を紡ぐかのように、シンワは語る。実際、彼の語り口に乗せて、森は歌い、川は海に注ぎ込み、石の城塞に旗が翻って、過去の繁栄を謳歌していた。
「だけど、それはかりそめの平穏だったんだ」
 シンワの手が平原をなぞると、鎧兜に身を包み、馬に騎乗した多くの人間達がずらりと並んで向かい合う。
「地上にあった国々は、兵力を持って他国と争い、奪い、侵略を繰り返した」
 一糸乱れぬ統率を保つ兵隊達の上でシンワが指を弾けば、軍隊は雄叫びを上げて敵と衝突した。剣戟があまりにも現実的な音となってユヅカの耳に届く。
「そんな他国の侵略に愛する者を奪われて、怒り狂った一柱の神がいた」
 ふっと。窓からの光を遮る暗闇が訪れた事に、ユヅカは不思議に思って天井を見上げ、そして、息を呑んだ。
 竜がいた。ユヅカの呼び出した『タツノオトシゴ』のように、可愛げのあるものではない。書庫全体を包み込んで尚物足りないとばかりに六対の翼を広げる、巨大な黒い怪物であった。
 翠の眼球が地上を見下ろし、耳をつんざくような咆哮を放った途端、無数の火球が降り注ぐ。思わず直撃を恐れて身を縮こませてしまうが、火球はユヅカのすぐ脇を通り過ぎても熱を感じない。しかしジオラマに落ちたそれは、激しく地上を燃え上がらせた。軍隊が炎に包まれて壊滅し、森の木々は黒炭に変わり、水は干上がる。
「狂った竜の神は地上を焼き尽くそうとした。だけど、それに対抗する神がいた。それが、彼の対である、姉神だった」
 今度はまばゆいばかりの光が視界を覆う。暗闇から突然光の下に導かれて、ユヅカは思わず目をつむってしまう。だが、ゆるゆると目を開くと、黒の竜神に立ち向かう、ほぼ同じ姿と赤い目を持った銀の竜神が視界に飛び込んできた。
「姉弟神の戦いは、七日七晩続いた」
 燃える地上を眼下に、銀の竜神と黒の竜神は激しくぶつかり合う。やがて、銀の竜神が黒の竜神の喉笛を噛み裂き、黒の竜神は断末魔の雄叫びをあげて、崩れ去っていった。
「銀の竜神の勝利により脅威は去った。だけど、世界は焼き尽くされ、生命の息づかない死地へと変わり果ててしまっていたんだ」
 その光景を、名状しがたい表情で見つめながら、シンワは語り続ける。
「そこで銀の竜神は、荒れ果てた世界を再生させるまでの間、生き残った生命を、空に逃がす事を決めた」
 銀の竜神の姿も、霧のように四散する。すると、荒れ果てた地上が銀色の雲で覆われ、上空も、照りつける太陽も銀色に変わった。
 そしてそこに、赤、黄、緑、紫、白、黒の、同じ色のドームを背負う竜達が悠然と舞い始める。思わず目をぱちくりさせて、眼前を横切る緑の竜に手を伸ばすが、ジオラマに投影されただけの竜は、実際に触れる事はかなわず、ユヅカの指をすり抜け、一声鳴いて羽ばたき続けた。
「これが、神の残した『翔竜』が舞う、『翔竜世界』。今、僕らがいる場所だよ」
 ユヅカは最早言葉を失うしか無かった。イルギッドに連れられて、生まれて初めて『果て』の外へ出て、目にした世界。そこが、一歩足を踏み出せば何も無い空中に存在しているなどとは、シェルテの人々は勿論、兄のヒューゴだって教えてくれなかった。それに、遙か昔にそんな争いがあった事も知らなかったのだ。
「竜神は、翔竜に生き残った生命を住まわせ、地上が再生する日まで空で暮らすように、それぞれの竜を治める長に言い含めた。同時に、一つの預言を残したんだ」
『世界が再生し楽土となった時、私はあなた方のもとに、それを知らせる「タツノオトシゴ」を持つ「竜使」を遣わしましょう』
 と。
「その後、翔竜世界には、失われた『海』に棲んでいた『魚』の姿を持った精霊を使役する人間が現れた。砂の身体を持つそれを、元の生物と音を同じくして『砂希さかな』、操る人間を、魚を獲る職種から音を同じくして『竜使りょうし』と呼ぶようになった」
 シンワがゆったり手を振ると、銀色の空を、悠然と翔竜が飛ぶ。いつの間にか、ひとつ、ふたつ、と、翔竜より小さな灰色の竜が増えてゆく。
ルベルフラーヴァウィリディスプルプレアアルブスニゲル。神が創った六体の翔竜では足りず、人々は人工の翔竜を造るようになった。それでも、限られた空で暮らすには人の数は増えすぎてしまって、やがて、それぞれの領土を広げる為に、他の翔竜を攻める部族まで出てきた」
 その言葉に応えるように、翔竜が他の翔竜とぶつかり合い、一声吼えて炎を吐き、背中のドームに守られる生活場所が揺らぐ。
「翔竜世界の成り立ちを知る人々は、一刻も早い『タツノオトシゴ』の竜使の出現を待っていた。そして、誰よりも早く、彼ないし彼女を手に入れて、楽土として再生した世界の支配者になる事を目論んでいるんだ」
 シンワは、これで話は終わり、とばかりに掲げていた手を下ろす。すると、銀色の世界も翔竜も、夢幻であったかのごとく消え失せ、ジオラマも元通り、過去の地上の姿を取り戻していた。
 だが、ユヅカの心臓はばくばく叫んで落ち着かなかった。暑くもないのに、こめかみを汗が伝っている。
 翔竜世界の存在は、実際フテラの背から目の当たりにしたのだから、信じるしか無い。故郷に『果て』が存在したのも、竜の背のドームの中で暮らしていたからだと考えれば、納得がゆく。
 だが、『タツノオトシゴ』を持つ竜使とは、本当に自分なのか。たしかに、危機に際して銀色の生物の姿を見、声を聞きはしたが、あれが本当にそうなのか。
 そして、そんな自分を手に入れれば、世界も手に入るなどと信じた人間が、これからも次々と自分を狙ってくるのだろうか。
 平穏な暮らしから、いきなり世界の存亡をかけた危険極まりない状況へ、一人放り出されてしまった。それを改めてまざまざと感じて、両腕で身を抱きぶるりと震える。心には疑心暗鬼が棲み着いて、「何か訊きたい事はある?」と問いかけるシンワに、警戒の質問を発する事を促した。
「あなたも、私が『タツノオトシゴ』の竜使だから、傍に置いて世界を手に入れたいの?」
 すると彼は、きょとんと目をみはり、顎に手をやって、
「……ああ、そう思われても仕方無いね」
 とうそぶいた。思わずユヅカが身を固くすると、少年は「そう構えないでくれたまえ」と相好を崩す。
「かつてあった世界に興味が無い、と言ったら嘘になるよ。だが、君の意志を無視して、心身を踏みにじってまで、この翔竜世界の外を見たいとは思わない」
 ユヅカがぱちくりと目を瞬かせると、シンワはここではないどこか遠くを見るような表情をして、天井を仰いだ。
「相手の意志を全く尊重しなかった故に、とてつもない悲劇を起こした馬鹿を、僕は知っている。二の舞を踏みたくはないんだ」
 その横顔は、ユヅカと同い年くらいとはとても思えないくらいに大人びて見えて、一体この人の過去には何があったのだろう、と好奇心にも似た興味が湧く。だがそれは、「それでも」と彼が言を継ぐ事で中断された。
「この世界には、僕みたいな考えの人間はむしろ少ないだろう。『タツノオトシゴ』を持つ竜使が、どういう人間であるかも、何を思うかも考慮せず、無理矢理ものにしようという輩は、君をさらおうとしたルベルの人間だけではない」
 ぞわり、と総毛立つ思いに、ユヅカはまたも震えた。ルベルのあの髭面の男の、下卑た表情を思い出してしまって、吐き気すらこみ上げる。そんなこちらの様子を、シンワは瞳を細めて見守り、再び口を開いた。
「だから、せめて僕らに君を守らせてくれ。僕は竜使としてはてんで弱いし、イルギッドはイルギッドでああだから、信用を置けないのはわかる。だが、この屋敷にいる他の人間は悪人ではないし、万一そんな奴が紛れ込んでいたら」
 そこで一旦言葉を切り、紫水晶の瞳がぎらりと光る。
「君に害が及ぶ前に、僕が必ず断罪する」
 ユヅカは思わず驚きに目を見開いた。一見温和に見えるこの少年は、心の奥底に、冷たく鋭い刃を秘めている。決して表向きの性格だけでは彼を評価しきれない事と、だからこそ、彼がアルブスの長として立っているのだという事を、この言葉だけで思い知った。
 だが、一瞬後には、シンワの瞳から剣呑さは過ぎ去り、元の穏やかな表情を取り戻す。
「さあ、この話はもう終わりにして、ここを出よう。朝ご飯の時間だよ。もし君さえ良ければ一緒に食べたいな」
 口元を持ち上げて目を細めるその笑顔はやけに大人びている。しかし、言う事は無邪気な少年そのものだ。見た目と言動の年齢がそぐわない事に、ユヅカは戸惑いを覚える。だが、彼の言葉の数々は嘘とは思えない。
 ただの誘拐犯ではないと信じてみても、良いのだろうか。
 そう思い至って、おずおず首を縦に振ると、
「良かった。すぐレナに用意させるよ」
 と、少年は殊更嬉しそうに顔を輝かせた。

Page Top