04:牙をむく


 浸かる湯は適度に温かい。
 ユヅカは今、血に染まっていた服を脱ぎ捨て、シンワの屋敷内にある風呂に入っていた。
 少年は一人の小柄な女性を呼び出し、ユヅカの世話役としてつけた。レナと名乗った、肩までの赤銀髪とつぶらな翠の瞳を持つ彼女は、
「よろしくお願いいたします、ユヅカ様」
 とにっこり笑って深々と頭を下げ、ユヅカを風呂に案内してくれた。
 そして彼女は、「お背中をお流ししましょうか?」と申し出てくれたのだが、そこまで世話になる訳にはいかないという申し訳無さと、十八という歳の割に胸もくびれも乏しい自分の体型を見られる恥ずかしさで、
「い、いいです! 自分で出来ますから!」
 と、両手をぶんぶん振って辞退したのである。
 埃まみれの髪を洗い、身に染みついた血を落として、湯気を立てる湯船に身を沈めれば、これまでの事が夢幻だったのではないかという思いにとらわれる。
 だが、石鹸で洗い落としてもまだ鼻の奥に漂う血のにおいは鮮烈で、手首足首に刻まれた縄の痕はひりひりと痛む。全てが現実で、シェルテの草原から遠くへ来てしまった事を、ユヅカにまざまざと自覚させる。
『私が帰ってくる時には、ユヅカは十八歳だね』
 用事で旅立つ際の兄ヒューゴの声が、脳裏に鮮やかに蘇る。
『お前が十八になったら、とても特別なお祝いをしよう』
 恋しさにまたじんわりと涙がにじんできたのを誤魔化す為、両手で湯をすくって、ばしゃばしゃと顔を濡らしていると。
「ユヅカ様、大丈夫ですか? のぼせておられませんか?」
 入浴時間が長いのを心配したのだろう、レナの透明な声が呼びかける。
「だ、大丈夫です! もう出ます!」
 慌てて返し、もう一度顔に湯を浴びせかけると、ユヅカは湯船からあがった。
 その後は、使い物にならなくなった今までの服の代わりに用意されていた生成りのワンピースに身を包み、ストールを巻いて、白いサンダルを履く。まだ乾いていない髪をまとめて頭の上でねじり、タオルを巻いて固定する。そしてレナに案内されるまま屋敷の中を歩き、一つの部屋に案内された。
 シンワの部屋ほど広さも豪華さも無いが、明らかに質の良い木材を使ったとわかるテーブルと椅子、そして鏡台と寝台の用意された、小綺麗な部屋だった。
「すぐにお食事をお持ちしますね」
 レナが丁寧にお辞儀をして、部屋を出てゆく。ぼうっと突っ立っているのも手持ち無沙汰なので、ユヅカは寝台の縁に腰を下ろし、窓から見える外の光景に目をやった。
『白の竜』と言われるだけあって、空は果てしなく白い。まるで常に霧の中にいるかのようだ。『緑の竜』と呼ばれた故郷の色との違いは、胸をざわつかせ、落ち着かない。
 レナはまだ戻ってこない。独りぼっちの寂しさという蛇が心に滑り込んできた頃、部屋の扉をノックする音があって、ユヅカは「はい」と返事をする。そして、扉が開いて入ってきた人物の姿を見て、即座に硬直する羽目になった。
 黒髪に紺色の衣の青年。イルギッドだ。さんざん受けた手荒な扱いと、容赦無い言葉の攻撃を思い出して身を引く。しかし、彼はユヅカのそんな反応も意に介さないとばかりに歩み寄ってくると、膝をついて、ユヅカと目線の高さを合わせた。
「落ち着いたか」
 棘のある声色ではない、ユヅカを気遣う態で、彼は問うてくる。ユヅカが呆気に取られて目を白黒させると、イルギッドは一瞬躊躇いがちに視線を外し、再び向き直った。
「悪かったな。俺は加減が利かないんだよ。そう『仕込まれた』せいで」
 言っている意味の全てはわからないが、あの凶暴な態度は、彼の本意ではないという事か。そう思うと、少しだけ彼への警戒心が薄れた。
「私こそ、ごめんなさい」
 うっすら微笑んで、ふるふると首を横に振る。
「あなたは私を助けにきてくれたのに、蹴りを入れたりして」
 すると、イルギッドが軽く目をみはった後、ぷっと吹き出した。
「たしかに、あの膝は少し痛かったな」
 子供のように相好を崩した彼は、嫌味など微塵も無い好青年に見える。この人は本当は大丈夫なのではないか、という安心感が芽生えてきた。青年がそっとこちらの頬に手を伸ばし、触れる。すると、不意に兄の温かい手を思い出し、言葉と涙は無意識に零れた。
「ヒューゴ兄様……」
 その途端。
 イルギッドの口元が、不愉快そうに歪んだ。頬に触れていた手が肩に落ちてぐいと押しつけられたかと思うと、寝台に押し倒される形になった。頭に巻いたタオルが解けて、生乾きの髪がシーツに広がる。
 抗う余裕は無かった。青年の顔が近づき、ユヅカの柔らかい唇を湿った舌が押し開いて、口内に入り込んでくる。
「ん……っ、んう!」
 初めての口づけを突然奪われた少女の混乱など余所に、イルギッドの舌はユヅカの上顎を舐め回し、舌に絡みつき、歯の裏をなぞる。
「――やっ!」
 ようやく思考を取り戻したユヅカが、全力を込めて青年を突き飛ばすと、相手はよろめく事も無く一歩引いて、銀糸を引く唇を指で拭った。
「ったく。危機感が無さすぎるんだよ、お前は。簡単に相手を信用しやがって。つくづく、ぬるい環境で育ったお姫様だな」
 毒づく声、こちらを見下す表情は、明からに先程までのイルギッドとは違う。また、彼の凶暴な部分が目を覚ましたのだと察するのに、時間は必要無かった。
「狙われてるってわかってるんだから、もう少し警戒しろ、ガキが」
 吐き捨てるように、馬鹿にしたように言い置いて、青年は部屋を出てゆく。入れ違いで食事の盆を持って入ってきたレナが、驚いた様子で慌てて盆をテーブルの上に置き、ユヅカのもとへ駆け寄ってきた。
「ユヅカ様、大丈夫ですか。イルギッドに何をされましたか?」
「な、何でもない……大丈夫、です」
 そうは言ったものの、恋というものを知った時から夢に描いていた、初めての口づけ。それを、出会ったばかりの、好きでも何でもない、凶悪な男に奪われた事が、悲しくて、悔しくて、涙がぽろぽろ零れ落ちる。
 一体、自分が何をしたというのだろう。ただ草原で穏やかに暮らしていたかっただけなのに、たった一日でそんなささやかな願いすら踏みにじられるなんて。嫌いだ。大嫌いだ、あんな男は。
 次から次へと頬を伝うものを拭いもせずにしゃくりあげるユヅカを前に、レナはおろおろしていたが、やがて、やっと気づいたとばかりに手布を取り出すと、ユヅカの顔を優しく拭いて、小柄な身体にできる精一杯の抱擁でこちらを包み込み、ぽんぽんと背中を軽く叩いてくれた。
「さあさあ、ご飯を食べましょう。お腹がいっぱいになれば、気持ちも落ち着くはずですから」
 彼女に促されるまま立ち上がり、椅子にすとんと収まるように座り込む。目の前のテーブルに置かれた盆には、黒パンに野菜と肉を挟み込んだホットサンドと、湯気を立てるお茶、そして食べやすい大きさに切り分けた柑橘類が載っていて、食欲をそそる。
「いただきます」
 頭を下げて黒パンのサンドを手に取り、かぶりつく。肉は鶏だろうか、口の中でほどけるように食べやすい。一緒に挟まれていたチーズの酸味と、野菜にかけられたソースの甘味が混じり合って、大鍋で家族分を一気に作るシェルテの料理とは違う細やかな美味しさがある。お茶は清涼な香りが鼻を、舌触りが喉を通り過ぎて、色んな事がありすぎて昂っていた気持ちを落ち着けてくれる。柑橘類にかぶりつけば、甘酸っぱい果汁が口内に満ちた。
「……美味しい」
 思わず本音が零れ落ちると、向かいに立ってこちらの様子を見守っていたレナが、「良かった」と表情をほころばせた。
「ウィリディスとは大分食事情も異なるでしょうから、ユヅカ様のお口に合うか、心配だったんです」
 その言葉に、ユヅカはある確率に思い至る。
「この食事は、レナさんが作ってくれたんですか」
「はい」
 質問に、レナが翠の瞳を細めてはにかむ。いきなり現れた小娘一人の為に、彼女が気を払って食事を作ってくれた事に、感謝の念が湧き上がって、ユヅカは深々と頭を下げた。
「あの、本当に美味しかったです。ありがとうございます、レナさん」
 すると、相手はきょとんと目をみはった後に、照れくさそうに眉尻を垂れた。
「『さん』は要りませんよ。ユヅカ様はシンワ様にとってもアルブスにとっても大切なお方です。どうぞレナ、と気軽に呼んでください」
「でも」
 目の前の彼女は、身長の小ささを差っ引いても、ユヅカより年下には見えない。そんな相手に『様』づけで呼ばれて敬語を使われるのは、年上に敬意を払うとはいえ皆が対等に接していたシェルテの暮らしとは違いすぎて、戸惑いを覚える。
 しばし顎に手をやって黙考し、ユヅカは名案とばかりに顔を上げた。
「じゃあ、私はレナさんを『レナ』と呼ぶから、レナさんも私を『ユヅカ』って呼んでください」
 シェルテの集落には、ユヅカと歳の近い少女はいなかった。ほとんどが二十代以上から五十六十の大人、後はよちよち歩きの幼子達だ。同年代の同性とどう付き合えば良いかはよくわからない。だが、まずは他人行儀を取り払うのが、距離を縮める第一歩だと思ったのだ。
 提案を受けたレナは、やはり先程と同じく意外そうに目を丸くした。しかし、すぐに柔らかい笑みを浮かべる。
「かしこまりました、では、ユヅカ様、いえ、ユヅカが過ごしやすいように、私も努力しますね」
 レナの笑顔はこちらに安堵感を与えてくれる。イルギッドはとても意地悪だが、レナのような優しい人間が傍にいてくれるなら、ここでの滞在も恐ろしいものではなくなるだろう。
「ありがとう、レナ」
 彼女に微笑み返しながら、しかし一瞬後には、今、手の届かない場所へと想いを馳せる。
(ヒューゴ兄様、皆)
 集落の皆は無事でいるだろうか。ユヅカの誘拐など、彼らが望むはずが無い。兄はどうしているだろうか。今頃は草原に帰ってきて、ユヅカの身を案じ、探してくれているだろうか。
 会いたい、という想いはユヅカの胸中で渦を巻き、黒い重石となって胃腑に落ち込んだようであった。

 背にした扉越しに、彼女の明るい声が聞こえてくる。レナは上手く彼女をなだめたようだ。
「ああー、畜生……」
 イルギッドはざんばら髪をぐしゃぐしゃと両手でかき回し、へなへなとその場にへたり込んだ。先程ユヅカに見せた底意地の悪い表情はどこへやら、完全に自己嫌悪に陥り落ち込みきって、歯噛みすらする。
 これだ。いつもこうだ。自制が利かなくなれば、凶暴な自分が目を覚ます。かつていた場所で身に叩き込まれた反応は、確実に彼女を傷つけ、怯えさせただろう。
「やらかしたかい?」
 どこか楽しげな、揶揄するような声に、伏せていた顔を上げれば、紫水晶の瞳が細められ、自分を見下ろしていた。
「大方、彼女がヒューゴの名を呼んだ事に腹を立てた、という具合だろう」
 図星だ。この少年は、自分より遙かに年下の外見をしているくせに、その中身は、世間の酸いも甘いも知り尽くした老獪な男のように、とても勘が鋭い。イルギッドがじろりと睨み上げると、少年は肩をすくめて苦笑し、しかしすぐにその表情を引き締めた。
「彼女にヒューゴの事を話しても、今すぐには信じてもらえないだろう」
 だから、と彼は語を継ぐ。
「向こうに対する不信を積み上げるより、こちらに対する信用を得た方が早い。あまり乱暴な真似には出ないでくれよ」
「俺のせいじゃねえよ」
 青年は毒づき、唇を噛み締める。自分がこういう言動を取るように「仕込んだ」相手の顔を思い出せば、苛立ちが募る。それでも。
「あいつを傷つけたくない。そう思ってるのに、ままならねえ自分が、腹立たしい」
 苦い物を呑み込んだような表情で本音を吐露すれば、シンワは白い髪を揺らして、うっすらと微笑んだ。
「なら、頑張ってくれよ。君には期待しているんだからね、イルギッド」
「簡単に言ってくれるもんだな」
 どうすれば、彼女との距離を縮められるだろうか。そして、まだ言えないあらゆる事を、伝えられるだろうか。
 青年の心もまた、混迷の霧の中を彷徨っていた。

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