03:『白の竜アルブス』のシンワ


 白い竜のドームへ突入する時も、息苦しさと耳の閉塞感はあった。だが、やはりそれは束の間の感覚で、違和感を抜けた先には、白い空の下、同じくらい白い壁をした建物がぽつぽつと建つ、碧い草原が広がっている。その建物の内の一つへ、イルギッドと呼ばれた青年は、迷う事無くフテラを向かわせる。巨鳥は数回羽ばたいて速度を落とし、やがて、建物の前へと静かに降り立った。
 青年は鳥の鞍から降りると、先程緑の竜の世界でそうしたように、荷物のごとくユヅカを担ぐ。そして、白い建物の中へと、迷う事無く歩を進めた。
 建物内は、無機質な白壁に反して、温かみのあるアイボリーの絨毯が敷かれ、木枠の窓に引かれたカーテンも同じ色。廊下には、世界を創りたもうたという女神の神話を抜粋した絵画が等間隔で飾られ、その合間には金色の一輪挿しが置かれて、青い薔薇が静かに存在感を主張している。
 イルギッドはそんな廊下をずかずかと進み、奥の部屋の扉にノックもしないまま手をかけると、乱暴な音を立てて開く。室内には、本が幾冊か積み重なった木造の執務机と椅子、背の低いテーブルと柔らかそうなソファ、そして壁一面を埋め尽くす本棚があった。
「おやおや、随分とご機嫌斜めの帰還だね」
 つい最近聞いた覚えのある声がしたので、ユヅカは視線を投げかける。白い陽光の差し込む窓際に立っていた人物が、からかい気味に笑いながら振り返った。年齢はユヅカと同じ十七、八といったところだろうか。身長はイルギッドよりやや低い。しかしその短い髪は老人のように真っ白で、瞳は紫水晶のごとき輝きを帯びていた。
 少年に見入っていると、イルギッドが不機嫌そうに舌打ちをして部屋に入り、大きな音と共に扉を閉める。そして、ユヅカを肩から降ろすと、ソファ目がけて放り出した。
 いくら柔らかい素材が受け止めてくれるとはいえ、限度がある。縛られていて受け身も取れないまま身体を打った衝撃に、ユヅカはくぐもったうめき声をあげた。
「女性にそんな扱い方をしてはいけないよ」
 少年が両肩をすくめ、窓際から離れる。
「大方、彼女を怖がらせたまま、連れてきたのだろう?」
 そうして彼は、ユヅカの元へ近づいてくると、身を屈め、腰に帯びた短剣を抜き放った。鈍い輝きにこちらがおののいたのを感じ取ったのだろう、「大丈夫」と、紫の瞳が優しげに細められる。
「縄を切るから、力を抜いて。動かないで」
 その声には、聞くだけで相手を安心させる色がこもっている。言われた通りにできる限り脱力すると、短剣が容易く縄を断ち切り、少年の手が猿轡も解いてくれた。
 ようやく自由になったが、長時間縛られていた手足は、自分のものではないかのように痺れている。深呼吸を繰り返していると、短剣を鞘に戻した少年の右人差し指が、ユヅカの首に触れた。
竜使りょうしの力を封じる拘束具だね。これも壊すから、じっとしていて」
 その途端、顎の下に微かな熱が生じ、ぱきん、と何かが砕けて、首の違和感が無くなった。少年が手にして掲げてみたそれは、どこの言葉かわからないおどろおどろしい文字を刻んだ、金の首輪であった。
 彼らは自分を助けてくれた。だが、それは「危機的状況から救ってくれた」だけで、敵か味方かの判断はまだつかない。それにここは、慣れたシェルテ族の草原ではない。どことも知れぬ土地、いや、竜の背中の上なのだから。
「あなた達、は?」
 ゆっくりとソファの上に身を起こし、縄の痕が赤くついてしまった手首をさすりながら、恐る恐る訊ねる。すると、目の前の少年は、こちらを安心させようとしているのか、柔らかい笑みを浮かべた。
「ああそうか、自己紹介がまだだったね」
 少年が己の胸に手を当て、名乗る。
「僕はシンワ。この『白の竜アルブス』を統べる長であり、君と同じ竜使だ」
 シェルテ族の長は、亡き父のあとを継いだ今年二十四の兄ヒューゴが務めていた。だが、ここではこんなに若い少年が長だというのか。ユヅカの疑念を置いて、シンワと名乗った彼は顔を上げ、腕組みをして壁に寄りかかり、我関せずといった態度を貫いていた青年を見やる。
「彼はイルギッド。まあ、態度はあんなだけど、アルブスにいる竜使の中では、間違い無く最強だよ。だから君の救出を彼に依頼した」
 最強なら、人間を荷物のように扱っても良いのか。呆気に取られてしまうユヅカだったが、シンワが先程から放っている単語に気を惹かれ、心臓は逸り、疑問は矢継ぎ早に口をついて出た。
「あの、竜使って何なんですか。私と同じって、どういう事ですか。それに、救出って」
 それを聞いたシンワが目をみはり、
「ああ、やはりヒューゴは君に隠していたね」
 と軽い溜息をついてから、語を継いだ。
「『竜使』とは、この世界から消えた、海に漂う魚の姿をした精霊『砂希さかな』を使役する能力者の事。そして君は、世界で唯一『タツノオトシゴ』を操れる存在だ」
『「タツノオトシゴ」の竜使を手に入れた者は、世界を手に入れる』
 ユヅカを捕らえた男が口にしていた台詞が蘇る。
「それだけ?」
 それだけの為に、ユヅカの世界の『果て』は壊され、血が流れたというのか。
「……帰りたい」
 願いは、震える唇から零れ落ちる。
「帰りたい。草原に帰して。皆の所へ帰してよ!」
 シンワが困ったように太い眉を八の字にする。だが、そんな顔をされてもユヅカの中の想いは変わらない。これは悪い夢だ。一刻も早く目が覚めて、愛しい兄の顔を見たい。そう思えば、目から溢れるものがある。ユヅカは両手で顔を覆い、うつむいて、子供みたいにしゃくりあげた。すると。
「泣けば全部元に戻ると思ってんのか。ほんとガキかお前は」
 イルギッドの呆れ声が耳に刺さって、ユヅカははっと顔を上げる。淡青の瞳が、明らかに見下した様子でこちらを見すえていた。
「自分から何もしようとしない奴がぴよぴよ喚いたって、状況は何も変わらねえんだよ。帰りたいなら、俺達に頼らねえで一人で『緑の竜ウィリディス』まで帰れ。それでお前を狙う奴らが諦めるならな」
 あんまりな言いように唖然として、涙は引っ込んでしまった。たしかに、我儘を発したのはユヅカだ。泣いても何ら状況を打開してくれない事も、頭では理解している。だが、心がそれを受け止めるまでの猶予すら与えてくれないのか、この青年は。
「イルギッド、流石に言いすぎだよ。君の言葉はあまりにも辛辣だ」
 シンワがやんわりと釘を刺すと、イルギッドは舌打ちして顔をそむける。少年はそれを苦笑で見届けて、ユヅカに向き直った。
「君をウィリディスから連れ出すように依頼してきたのは、他でもない、シェルテの民なんだ」
 頭を殴られたような衝撃だった。優しい兄ヒューゴや、いつも温かく見守ってくれる草原の人々が、こんな乱暴な青年を抱える勢力に、自分の誘拐を頼んだというのか。
「そんな」
 のろのろと、首を横に振る。
「兄様が、皆がそんな事を頼むはずが無い」
「信じられないのも無理は無いね」
 ユヅカの困惑も予測の範囲とばかりに、シンワは溜息をつき、「でも」と続ける。
「君を今ウィリディスへ帰してヒューゴの傍に置いておくのはとても危険なんだ。それに、君を狙っているのは、先程の『赤の竜ルベル』だけじゃあない。彼らから君を守る為にも、しばらくは僕らの元にいてはくれないか」
 彼らの言う事は信じられない。穏やかな顔をした相手が、最低の凶悪犯である可能性も大いにある。それでも、見知らぬ地に一人投げ出された今、ユヅカに出来るのは、冷静に状況を見極める事だけだ。
「……わかりました」
 力強くうなずきはしなかった。顔をうつむけて自分の膝を見つめ、絞り出すような細い声で返す。だが、シンワにはそれで充分だったようだ。「良かった」という声が鼓膜を叩いたので、視線を上げれば、少年はゆるい笑みを浮かべていた。
「じゃあまずは、身体を綺麗にして、着替えて。それから、食事を取って眠るといい。人間らしい活動をしなくては、気持ちも落ち着かないだろうからね」
 言われてようやく気がつく。服は血まみれ、髪も片方がほどけてぼさぼさになっている。腹はたった今空っぽである事を思い出したかのように、ぐうと鳴いた。聞こえたのだろう、シンワがくすくす笑う。
 この少年は悪い人ではない。それはもうユヅカにもわかっていたが、イルギッドの態度と、異郷で独りぼっちという状況は、少女を心底から安心させるには至らない材料であった。

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