02:故郷を離れ


 この場に充満する血のにおいも気にならないのか、平然と立っているのは、ユヅカより五、六歳は年上だろう青年だった。自分で鋏を入れたのではないかというほどに長さがばらばらの髪を適当に流し、長い一房は耳の横で結って、つりがちな目を鬱陶しげに細めている。身長は兄のヒューゴより少し高いかもしれない。無駄な肉のついていない、細いががっしりとした身体つきをしていた。
 心拍数が更に跳ね上がる。だがそれは、先程までの、何をされるかわからない恐怖や、未知の相手に対する恐れではない。
 知っている、と思ったのだ。
 自分はこの青年を知っている。この顔を知っている。だが、いつどこで出会ったのか、全く思い当たらない。シェルテでの暮らしの中で、彼と対面した記憶は一切無いのだ。
 ユヅカの戸惑いをよそに、青年はずかずかと歩み寄ってくると、半身を失った男の死体を邪魔くさそうに横へ押しやる。そして身を屈めて、軽々とユヅカを肩に担ぎ立ち上がった。
 ユヅカはまたも吃驚して目を見開く。この青年も自分に害をなそうとする輩なのか。むーむーと言葉にならない唸り声をあげ、膝を青年の肩に叩き込むが、相手には大した衝撃にもならなかったらしい。
「お前」
 青の瞳が、ぎろりと見すえてくる。
「助けてやるんだから大人しくしてろ。でないと、その生意気な足削ぎ落とすぞ」
 ぎょっとして身体が硬直してしまう。助けにきてくれたなら、この縄を解いてくれても良いのに、まるで荷物のように扱う上に、物騒な事を平気で口にする。一体全体、誰が味方で誰を信じれば良いのかわからなくなって、ユヅカの目の端に涙が浮かんだ。
「泣けば解決すると思ってるんじゃねえよ、ガキが」
 もう一度鋭い一瞥をくれて、青年は、空に向けて指笛を吹いた。すると、羽ばたきの音と共に、人二人をゆうに乗せられる大きさを持つ、茶色の巨鳥フテラが舞い降りてきた。この草原では、兄ヒューゴやその直属部下達が空を飛んでいるのを遠目に見ていただけの存在だ。その背中に用意された鞍へ青年はまたがり、ユヅカを鞍の前に引っ掛けるように転がす。
「暴れるなよ」空になった両手で手綱を持ちながら、青年が見下ろしてきて釘を刺す。「落ちても俺は責任取らねえからな」
 そう言って彼が手綱を引くと、フテラは一気に空へと舞い上がった。
 緑の空の下、フテラはどんどん高度を上げてゆく。そんなに高くまで上ったら、空の『果て』にぶつかってしまう。『上にも「果て」はあるのですよ』と、世話役のアリィは教えてくれたではないか。
 だが、青年もフテラも躊躇わなかった。一気に『果て』へと突っ込む。途端、水の中に潜ったような息苦しさと耳の閉塞感に襲われ、くらりと目眩がして、目をつむってしまう。しかしそれも、十を数えるまでも無い間の感覚で、ある瞬間に、ぷつりと途切れるかのように解放された。
 閉じていた目を開く。そして、そこに広がった光景に、ユヅカはその目を限界まで見開いた。
 一面の銀色だった。空も、雲も、輝く太陽も、上下左右全てが銀色に輝いている。そして地面が無い。ここから落ちたら、永遠の銀色を落ち続けるのではないかという恐怖に襲われるほどに。
 唖然としていると、突然、腹の底に響く唸り声が聞こえて、ユヅカは身をすくませ、それから、のろのろと声の方へと視線をやる。
 それは巨大な竜だった。集落の十や二十は包み込める大きさを持った緑の竜が、一対の翼をはためかせて、銀色の空を優雅に舞っている。その背中は、緑のドームで覆われ、半透明のそれ越しに、人の住む場所が広がっている。それが、たった今置いてきた故郷なのだと悟った瞬間、ユヅカはもう人生でこれ以上は無いのではないかとばかりの驚きに襲われた。
 だが、心臓に悪い思いはそれだけでは終わらなかった。青年が半眼になり、「来やがったか」と呟く。何とか顔を傾けて彼の視線を追えば、フテラを駆る男達が数騎、三日月刀シャムシールを手にこちらを追って飛んでくる。服装から、先程シェルテの『果て』を壊して侵入してきた連中の仲間だろうと判断がつく。
 襲われかけた恐怖を思い出して、ユヅカの顔から血の気が引く。しかし、青年は全く動揺を見せなかった。
「――来い」
 笑みのごとく唇を歪めて、低い声で囁く。周囲の空気がざわめき、冷たい空気がユヅカの頬を撫でたかと思うと、青年のざんばら髪をかき上げ、そして、空中で一つの形を成した。
 流線型の体躯を持つ、白と黒だけで構成された生物が、ゆらりと現れる。
「『シャチ』なんて、お前らは見た事が無いだろ」
 既に勝ちを確信した様子で青年は喉を鳴らし、『シャチ』の名を戴いた生物に「行け」と短く命じる。
 それは、瞬く間の出来事だった。
『シャチ』がくわっと口を開いて、相手に飛びかかる。次の瞬間には、男達は首から肩までをごっそりと食いちぎられたり、フテラの翼をもがれたりして、血を噴き出しながら剣を取り落とし、銀色の雲の中へと落下して見えなくなった。
 瞬く間の殺戮に、ユヅカは驚きで目を見開いたが、青年は、生命の火が消えた事を意に介する様子も無い。冷めた瞳で男達の消えた方向を一瞥すると、もうそれには興味を失ったかのように視線を上げ、「もういい」と『シャチ』に命じる。『シャチ』はその言葉を受けて、さらさらと白と黒の砂になって、あっという間に形を失いその場から消えた。
「……シンワ」
 青年が鬱陶しげに人の名前を呼ぶ。すると。
『ああ、イルギッド。無事に果たしてくれたようだね』
 彼の腰帯にぶら下がる白い石から、邪気の無い少年の声が聞こえた。
「面倒事ばっかり押しつけやがって」
『まあまあ、君には感謝しているんだから、勘弁してくれたまえ』
 苦虫を噛み潰したような表情をする青年とは対照的に、返る声はあくまで飄々として、相手の苛立ちをやんわりと受け流す。
『すぐに迎えにいくよ』
 直後、びょうと強い風が吹いた。青年が舌打ちしてぐしゃぐしゃになった髪を手櫛で梳き、ユヅカは振り落とされないように、ぴったりとフテラの背中にひっつく。
 すると、緑の竜よりふたまわりほど小さい、白い竜が、いつの間にか右前方に現れた。その背にはやはり、建物の垣間見えるドームを載せている。
 青年が手綱を引くと、フテラは白竜目指して力強く羽ばたく。
 離れてゆく。故郷が。シェルテの草原が。
 連れ去られる、という恐怖に、ユヅカの目がじんわりと水分を帯びる。しかし、涙は吹く風にすぐに乾いて、流れる事も許されなかった。

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