01:竜の落とし子


 一面の銀色が広がっている。
 天蓋の色も、やや強く光差す太陽も、下方に立ちこめる雲も。全てが銀の世界だった。
 その空の下、風を切りながら力強く翼をはためかせて飛ぶ、茶色い鷹のような巨鳥が一羽。遙か古代の言葉で文字通り『フテラ』という名を持つその鳥の背で、紺色の衣をまとった黒髪の青年が、右手は手綱を操りながら、左手は林檎を持ち、しゃくしゃくと軽い音を立てながらかじりついていた。
『イルギッド』
 風に流される事無く、青年の名を呼ぶ、張りを持った少年の声がする。だが、人の姿は青年以外に見当たらない。声は、青年の紅い腰帯にぶら下がる、拳大の白い石を抱いた帯飾りから発せられていた。
『全ては君に任せる。だが、やりすぎないようにね』
「……うるせえよ」
 青年が林檎をかじるのをやめ、淡い青の両眼を鬱陶しげに細める。
「頼まれたのも頼んできたのも、お前だろ。俺は俺の好きにやらせてもらう」
『はは、君ならそう返してくれると思ったよ』
「わかってるなら言うんじゃねえ」
 仲が良いのか悪いのかわからないやりとりを、姿の見えない相手と交わした後、青年はもう一度林檎をかじり、芯だけになったそれを空へ放る。
「ったく、この俺の手を煩わせるとは、相変わらずだよな」
 見事な放物線を描いて銀色の雲に呑み込まれたそれにはもう目もくれずに、青年は前を見すえて、口元を歪める。
 その視線の先にある存在は、銀色の世界の中、萌えるような緑色をして、悠然と空を泳いでいた。

 明るい緑色の空の下、草原に涼やかな風が渡った。
『ユヅカの髪は太陽に照らされると、金色に光って、綺麗だな』
 誰よりも大好きな兄にそう言われた髪を吹き上げられ、少女はごく小さな悲鳴をあげながら、頭をおさえる。肩のところでゆるくふたつに結わいた杏子色の髪は、しばらく風に遊ばれていたが、やがて落ち着きを取り戻した。
 無意識の内にきつくつむってしまっていた目を開く。一時の強風など知らぬとばかり、草原に散った羊たちは悠々と草を食み続ける。その身体はもこもこの毛に覆われて丸い塊のようになり、毛刈りの季節が近づいている事を如実に示していた。
 ユヅカが属するシェルテ族が養う羊は、良い草を食べて良質の毛を得られる。女衆がその毛を使って編み上げた織物を、男衆が他所へ持っていけば、次の一年をゆうに過ごせるだけの穀物や酒、保存食と引き換えにできるのだ。
 用事で他部族のもとへ行っている兄が帰ってきたら、周囲の家の男手も借りて、一斉に毛を刈ろう。そう考えて草原の羊たちを見やり、昨年末生まれた一番小さな仔羊の姿が見えない事に、ユヅカは気づいた。
 慌てて周囲に視線を巡らせる。小さなもこもこの塊が、ぴょんぴょん跳ねるように、群れからはぐれてゆく。
「ちび、ちびさん! そっちは駄目!」
 ユヅカは思わず大声をあげて駆け出していた。向こうは『果て』だ。空の緑と地面の緑が交わり、文字通りそこでぶつかる『果て』。その先には決して行けない。大人の羊たちはそれを察知しているのか、草原から離れる事は無いが、幼いものには危機感が無いようだ。
 膝丈スカートの裾が翻り、足にまつわりつくのが鬱陶しい。仔羊はユヅカの焦りなど知らぬとばかり、ぴょこぴょこ軽い足取りで『果て』へ向かってゆく。
 だが、追走劇もそこまでだった。『果て』に行く先を阻まれ、戸惑いながら足を止めた仔羊を、少女は抱きすくめるように両腕で包み込む。
「まったく、もう」
 ユヅカがほうと溜息をついても、仔羊はつぶらな瞳をこちらにまっすぐ向けるだけ。何がいけないのかわからない、といった態をしている。その無垢な顔がなんだかおかしくて、叱りつけようという意図はあっという間に宙に溶けて消えてしまった。
「こっちは無しよ。さあ、皆のところへ帰りましょう」
 腕をほどいて仔羊の頭を撫でた時、ぴしり、と草原には不似合いな軋んだ音が耳に届く。ユヅカは不審に思って振り返り、そして、目を見開き息を呑んだ。
『果て』の空の部分にひびが入っている。空が割れるなど信じられない。驚愕にとらわれる少女の眼前でひび割れはその大きさを増し、遂にめきりと音を立てて、空の一部に、人一人が通れるほどの穴が開いた。
 だが、ユヅカの驚きはそれだけでは終わらなかった。
 穴をくぐって人が入ってくる。それも一人だけではなく、後ろに続いて、全部で五人。その誰もが、鍛えられた身体つきをし、革製の鎧をまとって、抜き身の剣を手にしている。シェルテの男達が訓練で使う、刃を潰した模造刀ではない。ぎらりと剣呑な輝きを放つ、真剣だ。見ただけですくみあがってしまう。
「何だ、ガキか」
 男の一人が、ぎょろりとした目でユヅカを見下ろした。
「見られたからには、生かしておく訳にはいかねえな」
 何を言っているのかわからない。いや、脳が理解を拒否したのだ。突然『果て』が壊され、やってきた侵入者はユヅカを殺そうとしている。本能的な恐怖で身が震える。歯の根が合わなくてかちかちと言う。
 少女の恐れを感じ取ったのか、仔羊が小さく唸ったかと思うと、ユヅカを守るように男達の前に進み出た。めえ、めえと懸命に鳴き、未知の敵を威嚇しようとしている。
「何だ、この羊? 邪魔くせえな」
 先頭の男が胡乱げに目を細めて舌打ちすると、剣を振り下ろした。小さな悲鳴と、肉を断つ鈍い音。そして、鮮血の赤がユヅカの聴覚視覚に刻まれる。白いもこもこの毛が真っ赤に染まり、ただの肉塊と化した仔羊が、力を失って地面に倒れ込んだ。
 ああ、ああ、と。言葉にならない声が、自分の口から洩れているものだと気づくのには少しだけ時間が必要だった。膝をつき、つい最前まで生命が宿っていたはずのそれに手を伸ばせば、ぬるりとしたものが手にこびりつく。
「安心しろ」嘲けるような男の笑いが頭上から降ってくる。「すぐに後を追わせてやるからよ」
 刃が振りかぶられる気配がする。それが自分の身を引き裂いて、血を溢れさせるだろう事も想像できる。
 死ぬ。
 いきなり首筋に触れた死神の鎌の気配に、ユヅカの脳裏で混乱が渦巻く。
(嫌)
 命あるものの至極まっとうな祈りだろうか。それはユヅカの中で明確な言葉を成した。
(死にたくない)
 強く願った、その瞬間。
 ぶわり、と。少女を中心に烈風が巻き起こった。
「な、何だ!?」
 男達がたじろぐのが、紗を一枚挟んだどこか遠くの世界の事のように見える。代わりに、光り輝く銀色の球体がはっきりと眼前に浮かぶ。
 この状況を打開する為に触れるべきだ、と背中を押す意志と、全てを変えてしまうから触れてはいけない、と警告する意志が、ユヅカの中で戦い、勝利を得たのは前者であった。すがりつくように腕を伸ばし、光球を両手でしっかりと包み込む。
 りん、と鈴が鳴るような濁り無い音が響いた直後、光球があっという間に姿を変えた。爬虫類に似た顔を持ち、一対の翼を背に生やした、銀色の鱗と瞳を持つ獣。それは大人達が子供に語る御伽話の中で『竜』と呼ばれている生物に、果てしなく似ていた。
『あなたは望む?』
 男達がどよめくのを脇に追いやる、透明な声が、脳内に響く。
『あなたは、私が力を振るう事を望む?』
 その言葉の意味を、正確に認識したわけではなかったかもしれない。それでも、ユヅカはゆっくりとうなずき、願った。
(この子を殺した人達を、懲らしめて)
『わかった』
 いくばくかの感情も乗らない、平坦な声色だったが、ユヅカの望みは届いたらしい。竜に似たそれはこくりと頭を上下させ、男達に向き直ると、低い音で、一声吠えた。途端、竜の口から銀色の炎が吐き出され、先頭の男に容赦無く降りかかる。
「ぎゃああああ!!」
 瞬く間に火だるまになった男が、武器を取り落とし、地面を転げ回る。だが、炎が男を逃がす事は無く、黒焦げになって動かなくなるまで、銀の輝きはめらめらと標的を焼き尽くした。
 突然仲間を殺された男達が、呆然と立ち尽くす。しかし。
「……こいつだ」
 その内の一人が、いまだ恐怖にとらわれた震える声を発しながらも、ユヅカを指差した。
「このガキが『竜使りょうし』だ!」
「捕まえろ!」
 口々に喚きながら、男達が踏み込んでくる。竜が吠えて、また一人が炎に包まれたが、残る者達がユヅカを地面に引き倒し、がつ、と強く頭を殴りつけた。
 衝撃に世界がぐるぐる回って嘔吐えずきそうになるユヅカの首に、男の一人が何かを填め込む。首に圧迫感を感じた途端、竜が頼り無い声をあげ、まるで銀色の砂のようにさらさらと形を失い崩れていった。
「ったく、びびらせやがって」
 男達が鬱陶しげに吐き捨て、縄を取り出しユヅカの両手足をきつく縛り上げる。手首足首を圧される痛みに、遠のきかけていた意識が戻ってくる。そのせいで、男達の会話が明瞭に耳に届いた。
「まさか幻の『タツノオトシゴ』を操る竜使が、こんなガキとはな。ヒューゴの奴、上手く隠し続けたもんだ」
 ヒューゴ。それはユヅカが誰よりも大好きな兄の名だ。
「兄様を知っているの」
 まだ揺れる視界に顔をしかめながら発したユヅカの問いに、男の一人がにやりと笑って髭面を近づけた。本能的な嫌悪を感じて、思わず顔をそむけてしまうが、強い力で顎を引かれて、再び男と向き合う形に戻される。
「何だ、奴に飼われてたくせに、奴の事を知らねえのか」
 男が小馬鹿にするかのごとく肩を揺らす。自分達は、早くに両親を亡くして以降助け合って暮らしてきた、世界で二人きりの兄妹だ。飼われていた、とは一体どういう事か。だが、ユヅカの顔に浮かんだ疑問の色に、男が答える様子は無さそうだ。彼が指を鳴らした途端、残る二人がユヅカの髪の毛を引っ張って上半身を起き上がらせると、がっちりと身体を抱え込み、猿轡をかませた。
「『タツノオトシゴ』の竜使を手に入れた者は、世界を手に入れる。伝承が本当か、確かめさせてもらおうじゃねえか」
 ユヅカはひくっと喉を鳴らした。男が言っている事は理解出来ない。だが、彼らが自分をどこか―—『果て』の向こうへ連れ去ろうとしている事はわかる。
(助けて)
 十八年の人生で最大の危機に陥っている事を悟り、必死に身をよじる。
(兄様、ヒューゴ兄様)
「助けでも願ってるのか? 来ねえよ、諦めるんだな」
 男が下卑た笑いを浮かべて、ユヅカの肩に手をかけた時。
 しゅん、と。
 空気を裂くような音と共に何か白黒の物が視界を横切ったと思った途端、目の前の男の上半身が消失した。片割れを失った下肢がユヅカに向けて倒れ込んできて、胸にじんわりと生温く赤い液体が染みてくる。
「ひっ、ぎゃあっ!」
 ユヅカを抑え込んでいた男の一人が、悲鳴をあげて手を離した。また空気を切る音がして、「ひいっ」「な、何だあっ!?」と次々悲鳴があがる。だがそれも数秒の事で、声は途切れ、どさどさっ、と、男達はあるいは喉を引き裂かれ、あるいは四肢を失って倒れ、周囲は静かになった。
 何が起きたのか。一体誰が、この短時間で、どのような手段をもってこんな事を。心臓をばくばく言わせ、がくがく震えるユヅカの耳に、
「ったく、手間かけさせやがって」
 心底面倒臭い、といった態の男声が届いたので、そちらを向いた瞬間。
 淡い青の瞳と、視線が交わった。

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