ねがいはかなえ


わたしの名前は、かなえ。
ママがつけてくれました。
どんな願いもかなうように。
手をのばせば、望むものにとどくようにと。

でも、わたしの手は、とどかない。
とても会いたい天国のママに、まだとどかない。

   ◆

みーん、みーんと。
響きわたる蝉の声を聞きながら、丹羽かなえは炎天下に一人、棒のように立ち尽くしていた。
つばの大きめな麦わらをかぶり、水色のノースリーブワンピースを着た、小柄で華奢な身体。まだ成長しきっていない小さな手には、身長に見合わない、地面をかすめてしまいそうな水桶。
父と一緒に、母の墓参りに来た彼女は、父とはぐれ墓地のただ中で立ち往生していた。
要するに、おもいっきり迷子なのである。
一人で目的の墓に辿り着ければ何ら問題は無いのだが、七歳の子供が何かを目印にして道を覚えるには、この郊外の墓地はあまりにも広すぎた。
幸い昼間なので、墓石に囲まれていても、卒塔婆がかたかた鳴っても、恐怖を覚える事は無いが、じりじりと照りつける南中の太陽に肌を焼かれ、喉はじわじわ渇きを訴える。
盆といっても東京の暦によるものだからだろうか、墓参りに訪れる人は少なく、あたりに人影は見あたらない。
「……パ」
さすがに心細くなって父を呼びかけたかなえは、それを中途に打ち切って、背後に視線を巡らせた。人の気配を感じたのである。
果たして振り返った時、そこに人影はあった。
柔らかそうな黒髪に、くりっとした瞳が好意的な、かなえとそう歳の変わらなそうな少年がいたのである。
「こんにちは」
少年は黒い目を細めて、人好きのする笑顔を見せる。
「こん……にちは」
かなえも、ぎこちないながら頭を下げた。
『挨拶をされたらきちんと返すように』
といつも父に言われているからだ。
「きみ、迷子?」
少年が、笑みを崩さないまま小首をかしげてみせる。ずっぱり言い当てられてかなえは頬を赤くしたが、ここで妙な見栄を張っても仕方がない。こくりとうなずくと。
「じゃあ、僕が案内してあげるよ」
かなえより少しだけ大きい手が、さしのべられる。
『知らない大人についていってはいけないよ』
これも父が口をすっぱくして常々注意している事。だけど、知らない大人じゃなくて、知らない子供なら、いいだろうか?
……いいよね。
心の中で言い訳がましい自問自答をして、かなえは、目の前の手に自分の手をそっと重ねる。
ひんやりとした感触が、かなえの手に触れた。

「きみ、名前は?」
蝉時雨の降りしきる中、手をつないで歩きながら、少年が問う。
「かなえ。丹羽かなえ」
「かなえ」
答えると、少年はかなえの名前を繰り返して、心地よい風でも受けるかのように目を細めた。
「すてきな名前だ」
名前を、可愛いと言われた事はあるけれど、すてきなどと評されたのは初めてだ。かなえは何故か、先ほど迷子を指摘された時より顔を赤くしてしまう。心臓がどきどき言って落ち着かない。これは一体何なのか。
「ママがつけてくれたの」
正体不明のめちゃくちゃな脈拍をごまかすように、かなえは訊かれてもいないのに語り出した。
「願いごと、ぜんぶかなうようにって。ねがえばかなわない願いはないんだって」
でも。かなえは一瞬言葉につまって、小さくて愛らしい唇を突き出し、ぽそりと。
「でも、願いごとはかなわないの」
それはささいな、だけど絶対にかなわない願いごと。
右側に父と、左側に母と。三人仲良く手をつないで歩き、疲れたら家に帰って食卓を囲んで、みんなでお風呂に入って数え歌を奏で、一緒の布団で川の字になって、夢を見る。
小さい頃から、何度も何度も望んだ、特別さなど一切無い平凡な、だけど一番の幸せな願いは、かなわない。
写真やビデオでしか会えない母は、病気で天国に逝ってしまって、絶対にかなえの手は届かない。墓石に向き合って手を合わせても、その下にあるのはただの骨で、母がかなえの声を聞いて応えを返してくれる事は、決して無い。
父は折につけて、母との思い出をかなえに見せてくれる。母は写真の中で、あるいはビデオの中で、笑いかけて、語りかけてくれる。顔も声もよく知っている。
だけどそれは果てしなく一方通行で、かなえが話しかけても、母は応えてくれない。手を差し出しても、触れる事は無い。
そこにいるのに、絶対に届かない。
まだ七歳でも、それだけの真実を知る頭を、かなえは持ち合わせていた。
かなえが口をつぐんでしまうと、二人の間には沈黙が落ち、みーん、みーんと、蝉の声ばかりがやけに大きく聞こえる。
ほんの少しのだったのかもしれない。だけど、かなえが何分にも何十分にも感じられる時間が流れた後。
「かなわない夢は、無いよ」
少年が不意に口を開いたので、かなえはふせがちになっていた顔をはっと上げた。
「君の願いは、かなう。君のお母さんは、ここにいるよ」
ここに。
と、少年の指が、かなえの心臓の位置をしっかりと指さす。
「ここで思い描いて、話しかければ、応えてくれる。手をのばせば、握ってくれる。かなえと願えば、きっとかなう」
途端。
ぶわっと、かなえの周りでつむじ風が舞ったような気がして、一瞬、目をつむる。
そしてその目を開けた時、かなえの視界は変転していた。
夏の墓場も少年も消え失せて、代わりに広がる光景は、一面の原っぱ。
風が運んでくる萌える草のにおいは、息が苦しくなりそうなほどの現実味を帯びて香り、知らない場所のはずなのに、懐かしくて、恋しくて、胸をいっぱいに満たす何かが迫ってくる。
青い空と緑の草原の中、人の姿が見える。
明るい色の髪の女性が振り返る。
写真の中と同じ笑顔で、ビデオで聴くのと同じ声で、女性は「かなえ」と優しく名を呼ぶ。
嬉しくて、苦しくて。
この想い届けとばかりに、かなえは草を蹴って走り出し、女性に向けて手をのばす。
かなえよりずっと大きくて、ずっと細くて綺麗な指の手が、ふわりとかなえの手に触れた。

   ◆

「かなえ?」
聴き慣れた声にはっと気づいた時、かなえは再び墓地にいて、父の腰にしっかとしがみつく形になっていた。
「良かった。いつの間にかいなくなってたから、心配したよ」
眼鏡の奥の瞳が優しく見下ろしてきて、「もうはぐれちゃだめだぞ」こつん、こぶしがひとつ、優しく頭に触れる。
「パパ、あのね、わたし、ママに会ったの」
あの子のおかげで。
指し示そうとして振り返った背後には、ところが誰もいなかった。かなえが手にしていたはずの水桶が、ぽつねんとあるばかり。
「水を持って来てくれたんだね。ありがとう」
父が水桶を拾いに行き、腰を屈めたところで、不意に視線を上げる。
「ああ、こんなに古い立派なお墓もあるんだね。ご近所なのに知らなかったな」
独り言のように呟く父の隣に並んで、見事な墓を見上げる。
かなえが生まれた後にできたとは思えない、古びた墓石の横には、何人もの名前と亡くなった年が刻まれていた。その中のひとつに、かなえは何故か目を惹かれる。
九九だって習い始めたばかりな年齢のかなえには読めない文字もある中、「十九年八月」「フィリピン」「戦」を、読み取った。
根拠は無い。だが、子供の直感で、先程の少年の姿に思考が結びつく。
どうして彼が、子供の姿をとってかなえにかまってくれたのかは、わからない。だけど、彼が伝えてくれた言葉は、あたたかさと共にしっかりと根付いた。
ここに。
心臓の位置に小さな握りこぶしを当てて、かなえは語りかける。

願うよ、かなうように。
あの原っぱで、今度は君に会えるように。
ちょっと冷たいあの手をつかめるように。
かなえと願えば、きっとかなう。
きっと、手はとどくんだ。

一陣の風が駆け抜けたような気がして、笑顔を天に向ければ、真っ青な視界に白い飛行機雲がひとすじ、長い尾を引いて流れゆく。
彼も見上げたはずの八月の空は、もう、すぐそこまで近づいていた。

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