結婚指輪


彼女の記憶は、十分しか保たなくなってしまった。
彼女の頭に、新しい何かを刻んでも。
その傍から、泡のように消えてゆく。
そんな彼女に、僕は何が出来るだろうか。
考えて、考えて。
あるひとつの決意を胸に、その日、僕は彼女の元へ向かった。

病院の一室でぼんやりと外を眺めていた彼女は、入って来た僕に気づくと、
「謙ちゃん」
ぎこちない笑みを浮かべる。
「来て……た?」
十分しか記憶の無い彼女だ。さっきまで誰が居たか居ないかも、彼女は知り得ない。
「今来たところだよ」
笑顔で応えて、ベッドの脇に腰を下ろす。
そして、大事にバッグの中に入れて来た、蒼い小箱を取り出して、彼女の前で開けた。
彼女の瞳が大きく見開かれる。
彼女の大好きな緑色。
彼女の誕生石。
エメラルドの収まった。
指輪。
給料をはたいて買った、とっておきだ。
驚きをたたえたままの瞳がこちらに向く。その瞳を真正面から見つめて、一言一言を大事に、僕は告げた。
「結婚しよう、梨恵」
彼女と出会った十五の夏から、いつか伝えようと思っていた言葉。
あの頃思い描いていた場所でも、シチュエーションでもない、ロマンの欠片も無い、プロポーズ。
だけどこれが、僕から彼女に伝えられる本当の気持ち。
「わたしで、いいの?」
問いかけに、深く頷く。
「こんな、わたしで?」
二度目も、迷う事無く深く。
たちまち彼女の目が潤んで、僕より遙かに細い腕が、こちらの首に回された。
「なる。謙ちゃんのお嫁さんに」
十分後、彼女が自分の返した答えを忘れていても、この指輪を見せればいい。
きっとそれだけで、彼女は、彼女と僕の絆に、気づいてくれるはずだから。
その時の僕はただ、そう信じていた。

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