『零れ落ちる』



僕が彼女の母親から連絡を受けて、病院に駆けつけた時、彼女は頭に包帯をぐるぐる巻きにされた状態で、ベッドに横たわっていた。
面接に行く途中。あの電話の直後。駅の階段で。
突き落とされたのだと。
捕まったのは、若い男で、
「仕事をクビになって、むしゃくしゃしていた。誰でも良かった」
何て、あまりにも身勝手な理由。そんな事で、無関係な彼女を巻き込んだのか。行き場の無い怒りがこみあげる。
彼女の傍に腰かけて、そっと頬を撫でると、まつげが震えた。
ゆっくりとまぶたが開き、黒い目が、僕を映す。
「謙ちゃん」
おずおずと、口元がゆるむ。
「私、面接に行く途中だったんだけど」
「今は、気にしなくていいよ」
涙が零れ落ちそうになったので、僕の口は、への字に曲がっていただろう。無理矢理口の端を持ち上げ誤魔化して、立ち上がる。
「花の水を、替えて来る」
洗面所で、花瓶の水を入れ替えながら、彼女が無事に目覚めた事に感謝して、少し泣いた。
ほんの、10分ほど。
花瓶を抱えて、病室に戻った時、彼女はベッドの上に身を起こして、窓の外をぼんやり見ていたのだが、僕の気配に気づくと、ゆっくりと振り向き、
「謙ちゃん?」
やはり、おずおずと、微笑ったのだ。

「いつ来てたの?」

僕は、彼女から何かが零れ落ちた事に勘づいて、手にした花瓶を落とさないように、立ち尽くすのが、精一杯だった。
そしてその後、神様を恨んで、洗面所で一人泣く事に。

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