エピローグ


「ふーん、それでそれで?」
 揺り椅子にもたれかかって昔語りをする老人を取り囲む子供の一人が、興味津々といった態で身を乗り出した。
「王族を全員失ったエレフセリアは、隣国ディケオスニの力を借りて、王様のいない『共和国』として生まれ変わった」
 髪も、垂れた眉毛も、顎に生える髭も真っ白な老人は、皺深い目を細めて締めくくる。
「後は、お前さん達が歴史の授業で習った通りじゃて」
「ちーがーうー!」
 すると、別の子供が不服そうに拳を突き上げた。
「アイビスだよ! 人魚姫になって、サシュヴァラルと幸せに暮らしたの?」
「はてさて」
 老人はすっとぼけるように肩を揺らし、揺り椅子を前後に動かす。
「どうだかの」
「そんなあ!」また別の少女が、悲痛な声をあげた。「王子様とお姫様は、幸せに暮らしてこそじゃない!」
 すると老人は身を起こし、手にしていた杖で床をとん、とひとつ打ち鳴らし、「こんな話がある」と言を継いだ。
「アリトラの海には時折、赤い髪と赤い瞳、朱い鱗を持った人魚が現れて、地上の民に、今の様子を訊ねるとな」
 しばらく沈黙が落ちる。だが、老人の言葉を咀嚼した子供達は、一様にぱっと表情を明るく輝かせて、歓声をあげながら互いの手を打ち合わせた。
「さあ、昔話はこれまで」
 老人が、もう一度杖で床を突くのを合図にして、子供達はわいわいと立ち上がる。
「ありがとう、ファディムじいちゃん!」
「海行こうぜ、海!」
「人魚姫に会えるかも!」
 口々に騒ぐ子供達の喧噪が去った後、老人は黒い瞳を細めて、開け放たれた大きな窓へ視線を馳せた。穏やかなアリトラの海を見つめ、小さく、その名を乾いた唇から紡ぐ。
「アイビス……」
 爽やかに吹き込む風の中、静かに目を瞑れば、まなうらに、数十年の時を経ても色褪せる事の無い赤い印象の少女が、風を受けて空を飛んでいた。

 照りつける太陽の下、汐彩華がきらきら舞う夏の浜辺を、子供達は笑声をあげながら裸足で駆ける。静かに波が打ち寄せる白い浜辺は、永の時を経ても変わらずに、エレフセリアの民を受け止める。
 その時、水飛沫をあげてはしゃぎながら浅瀬を走る子供達の、最後尾を行っていた少年が、ふっと足を止めた。近くの岩場から、こちらを見つめる視線を感じたのだ。
 一人、仲間から外れて岩場に近づく。すると、海面から小麦色の肌を持つ上半身だけを乗り出した、少年より七、八歳は年上と見える少女が、「こんにちは」と赤い瞳を細めて笑った。その首からは、蛋白石の指輪と赤い貝殻を通したペンダントが光を放っている。
「こんにちは」
 少女の整った美貌に気圧されつつ、何とか挨拶を返すと、彼女は小首を傾げて問いかける。
「あなた達は今、幸せですか?」
 奇妙な質問をするものだ、と思いながらも、少年は「うん」と大きくうなずく。
「毎日楽しいし、ごはんは美味しいし、友達と遊ぶのは面白いから、幸せ」
 すると、それを聞いた少女は、「なら、良かった」と満足げに微笑み、身を翻す。途端、少年の視界に、朱い鱗を持つ魚の下半身が、太陽の照り返しを受けて極彩色に輝いた。その眩しさに、少年は思わず手で目を覆ってしまう。そして、手をどけて再び視界を取り戻した時、少女は近くで待っていた青い鱗の身を持つ青年と幸福そうに微笑みを交わし、手を取り合いながら、遙かなる海原へと消えた。
「おーい、置いてくよ!」
 目をぱちくりさせていた少年を、仲間達が呼ぶ声がする。
「今行く!」
 白昼夢でも見たかのように、今の光景も記憶の彼方に追いやって、少年は友人達に大きく手を振り、後を追いかけた。

 エレフセリアの空には、今日も風が吹いている。
 人魚姫となった少女がかつて焦がれて飛んだ、心地良い風が。

―完―

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