第4章:人魚姫は泡に還るか(3)


 目蓋がひどく重い。全身に何かがのしかかっているような倦怠感を覚えながらもゆっくりと目を開くと、不安たっぷりのサシュヴァラルの顔がそこにあった。ここがどこだか一瞬わからなくてぼうっとし、やがて海底の城の、どこかの部屋の寝台の上のようだ、と認識する。傾けるのも億劫なこうべを巡らせると、彼の後ろから心配そうに見つめているシャオヤンテの姿も見えた。
「アイビス」
 サシュヴァラルが名を呼ぶ声がわんわんと頭に反響する。身体が火照っているのを感じるが、すぐに寒気を覚えてがたがた震える。
「大丈夫か」
 問われ、大丈夫、と返そうとした声は喉で絡まって、口の周りの水に流れを生み出すだけになった。
 何があったのか、思い出そうとする。城の庭でサシュヴァラルと語り合っていて、エスタリカという人魚に、刺された。死ぬのではないかと思った恐怖はまだ心臓のあたりに重くわだかまっていて、そう簡単には消えてくれそうに無い。
 だが、実際相当量の血が流れたはずなのに、自分はまだ生きている。背中にひきつるような痛みも熱も無い。
「アイビスも、人魚の血を引いているから、回復力は高かったんだ」
 助かって良かった、とサシュヴァラルが吐息をつく。そう、自分は元人魚の母リザの血を引いている。人魚の驚異的な治癒の力は、サシュヴァラルを見て知っていた。それが自分にも引き継がれていた為に、傷が塞がったのか。だが、サシュヴァラルの複雑な感情を孕んだような深海色の瞳は、痛々しそうにアイビスを見つめている。いや、正確には、アイビスの、下半身を、か。  一体どうしたのだろう。寝台に横たわったまま視線を下ろす事が出来なかったので、何とか寝返りを打って足を視界に収まるように動かし、アイビスは愕然とした。
 アイビスの小麦色の細い足を、朱い鱗がびっしりと覆っていた。枕元に置いた深海魚の頭骨のカンテラの青白い光を受けて尚、鮮やかな朱に輝いている。
「人間は、海に順応すると人魚になる」
 自らの身に起こった異変に瞠目しているアイビスに、サシュヴァラルが語りかける。
「アイビスは、叔母上の血を引いているから、それが早かったんだろう」
 そこで彼は一旦言葉を切り、だが、と続ける。
「早すぎる順応は、君の身体に大きな負担をかけたんだ」
 成程、この異様な身体のだるさは、その負担か。アイビスの熱に浮かされた脳は、どこかの部分でやたら冷静に納得した。人でなきものに変わる恐怖よりも、母やサシュヴァラルと同じ存在になれるのか、という安堵感の方が先に立つ。
 しかし、それにしてはサシュヴァラルの痛々しそうな表情は、あまりにも深刻だ。そんなに自分事のように心配しなくても、人魚になれば、今まで以上により自由に、海底を共に泳げるのだ。彼が悲しむ必要など、どこにも無いのに。
 それを告げようとするより先に、口ごもる兄を見かねたか、シャオヤンテが近づいてきて、「アイビス」と、こちらも悲痛さを隠さない面持ちで言った。
「順応が早すぎるのも、問題なんだ。身体が変化に追いつけなくて、人魚になれなかった人間は、泡となって消えてしまう」
 ひゅっ、と。
 アイビスは息を呑み込んだ。
 幼い日の夜に、母から聞いた御伽話がある。海に住む人魚の姫が、嵐から助けた地上の王子に恋をした。しかし、声と引き替えに人間の足を得て陸に上がったにも関わらず、王子は別の娘と愛し合い、失恋した姫は泡となって海に還ったと。
 子供心に、ひどい話だと思った。想いを遂げられなかった人魚の姫が可哀想で、他の娘に余所見をした王子も、姫から王子を盗った娘も、皆一緒に泡になってしまえばいいのに、とわんわん泣い。すっかり眠るどころではなくなり、『アイビスは感受性が豊かすぎる子ね』と母が困り顔で頭を撫でてくれた事も、覚えている。
 それと似たような事が、今、自分の身に起こりつつあるというのか。人になろうとしてなれなかった人魚の姫のように、人魚になれなかった人間の王女として、消えるかもしれない危険性が、今、自分の身に迫りつつあるのだ。唖然と宙を見つめた時。
「消えないでくれ」
 ひんやりとした感覚が、アイビスの手を、強く、強く、握り締める。サシュヴァラルの手だと気づいたのは、彼が血を吐くような声を発したからであった。
「やっと手が届いた輝きなんだ、俺を置いていかないでくれ」
 ああ、と熱を帯びたままの吐息が零れる。
 夢のようだった刹那の少年少女期を共に過ごしたひとが、こんなにも熱情を向けてくれる。許婚のジャウマが決して見せてくれなかった追慕を注いでくれる。
 死にたくない。
 その想いが、強く、強くアイビスの胸の鐘を打って響かせる。このひとの傍にいたい。笑ってこれからの生を共に歩みたい。泡となって儚くなりたくはない。
 サシュヴァラルに握られていないほうの手で目を覆えば、海水とは異なる塩辛い水分が、流れていった気がした。

「何で!? 何でよ!?」
 ぎらぎら照りつける太陽の下、金切り声と、じゃらり、と重たい鎖の音がする。
 メーヴェリエル女王の姪を殺しかけた罪で捕らえられたエスタリカは、女王の裁きを受け、鮫が餌場とする海上の岩場に繋がれていた。直接首を落とされる訳ではないが、鮫に食われるも、岩場で干上がるも、どの道いつかは命果てるしか無い、重い罰であった。
「私は海の民として正しい事をした! 侵略者の誘惑からサシュヴァラルを守ろうとしただけじゃない! それの何が悪いの!?」
 あくまで自分の行為を正当化しようと喚き散らす、半ば乱心した女の叫びは暑気に溶け、聞き届ける者はいない。いや、たとえいたとして、嫉妬に狂った人魚の戯言と、鼻先で笑い飛ばすだろう。
 自慢だった翡翠の鱗は、すっかり乾いてぱりぱり剥がれ始めている。薄緑の髪を振り乱し、銀色の瞳から正気の光を失ったエスタリカが、更なる罵声を放とうとした時、海原を揺蕩ってくる影に、彼女の目はようやく現実を見つめる事が出来た。
 それは小舟だった。櫂がついている様子は見えず、波の赴くままに流されてきたものと思える。見る間に距離を詰めてくるそれに、誰かが乗っている気配を感じて、エスタリカは腰に巻かれた鎖を引きずりながら、岩場に打ち寄せられる小舟へと近づいていった。
 船底に丸まっていたのは、人間の男だった。手酷い拷問を受けたのか、全身痣だらけで、茶色い巻き毛のあちこちが、血で固まっている。エスタリカは男を小舟から岩場へ引き上げると、
「ねえ」
 つんつんと頬をつつき、甘ったるく、水底へいざなうような声音で呼びかけた。
「助けてよ。この鎖を外して。そうしたら、私もあなたを助けてあげるから。私の血で、あなたもすぐに治るから」
 両のかいなで包み込むように抱き締めれば、男はゆるゆると目蓋を開く。黒の瞳は彷徨うようにきょろきょろと動き、きちんとエスタリカを映しているのか、わからない。
「ねえ、私の言う事、聞こえてる?」
 苛立ちを覚えて再度呼びかけると、男は血泡の浮いた唇を震わせ、かろうじて聞き取れる声量で、言葉を紡ぎ出した。曰く。
「アイビス……」
 それは憎き仇敵の名。何故その名を、この人間の男が口にするのか。
 驚愕にとらわれた直後、エスタリカの自由を奪っていた鎖の重みが消えた。いや、自慢の翡翠の鱗持つ下半身が、ごっそりと消えていたのだ。
 岩場に血の絵画が広がり、悲鳴をあげる余裕すら無い激痛が、脳髄に響く。
「何で……何で……何で、私ばっかりこんな……!?」
 遠ざかる意識の中、恨み言を洩らす彼女が最期に見た光景は、急速に暗くなって風が荒れ狂い泣き始める空。そして、人魚の下半身を食い千切り、鋭い牙で噛み砕きながら、爛れた皮膚持つ歪な生物と化してゆく、助けようとしたはずの人間の男の姿であった。

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