第3章:水底に揺蕩う雪(3)


 北へ向かえば向かうほど深い所へ潜ってゆくのか、海の明度と青の彩度は下がって、視界は狭まってゆく。肌に触れる水温も下がってゆくのがわかり、思わずぶるりと身を震わせる。
 左手で掲げた、深海魚の柔らかい頭骨で作られたカンテラが、口の中から青白い光を放って、周囲を淡く照らしている。だが、数メートル先も見えない世界は、否が応にもうっそりとした恐怖を煽る。ぞっと背筋を這い上がるものがあっても、ここは水の中。伝い落ちる冷や汗は無い。それでも、地上での行動の反復で、アイビスは地上の癖で、右の拳で額を拭い、気を取り直して水を蹴った。
 この探検に与えられたのは、暗闇を照らすカンテラと、沈没船に納められているという宝箱を開ける為の、タツノオトシゴの骨で作った鍵。それだけ。地上にいた時から身に帯びていた短剣を所持し続ける事は許可されたが、
いたずらに我が民に害を為せば、相応の報いがあると心得よ』
 とメーヴェリエルに釘を刺された。つまりは、明確にこちらに危害を加える前から、邪魔だからと海の生物を排する行動を取ってはならないという事だ。無為に血を流しては、海のひとびととは友になれぬどころか、女王の信用も損ない、たとえ宝を無事に得て帰ったとしても、仲間とは認めてもらえないだろう。
 ならば、と、アイビスの前向きな思考は答えを導き出す。争いになりそうな相手を、こちらから先に回避して通れば良いだけ。虎の皮が欲しいからとねぐらに兵を突っ込ませるのは、姉のような人種がする事。大抵の人間は、欲望を胸に仕舞い込んで、眠る虎の親子を起こさずにいるものだ。
 そこまで考えたところで、自分の通ってきた道の後から、水の流れが追いかけてくるのに気づいた。アイビスは息を呑み、泳ぎを止めて、近くの岩場に身を隠す。
 風の向きと同じようにうかがって感じ取る、この水の動きの大きさは、小魚の群れではない。何か、アイビスより体躯の大きな一体だ。海に来た時に見た鮫のような獰猛な何かが、人間を餌とする為に後を追ってきたのだろうか。
 嫌な予感に少しだけ震える手を、腰の短剣に伸ばしかけ、しかし引っ込める。メーヴェリエル女王との約束を違える訳にはいかない。本当にアイビスに危害を加えるのかわからない内から、先手を打ってはいけない。ここでじっとしてやり過ごせるならば、それが最善手だ。下を向いて身を固くした時。
「アイビス」
 海の流れを通じて鼓膜を震わせる心地良い声に、聞き覚えがあって、アイビスははっと頭を上げ、岩場から顔を覗かせた。
 青い髪に深海の瞳。鱗はアイビスが持つカンテラの光を受けて、不可思議なほの白さに輝いている。
「サシュ!」
 まさかの相手の出現に、目を白黒させながら岩場から泳ぎ出る。人魚の王子はぱっと笑顔を弾けさせ、魚の半身で水をかき、アイビスを抱き締めるように受け止めた。
「どうしてここに?」
「君の事が心配で。城でじっと待っているなんて出来るはずが無かった」
 至近距離で蒼い瞳を覗き込んで問いかければ、サシュヴァラルは真摯な瞳で見つめ返してくる。
「女王様は一人でっておっしゃったじゃない。あなたがお母様に怒られるわ」
「『人間一人で』と母上は言った。つまり、それさえ守れば、海の民が手を貸す分には、何人でも構わないって訳さ」
 彼が女王に叱られるに違い無い、という憂いで、アイビスは愁眉を曇らせる。だが、それに反してサシュヴァラルは得意気に口角を持ち上げて、片目を瞑ってみせたので、返す言葉を見失ってしまった。
「……あなた、『屁理屈屋』って言われない?」
「さあ、どうだったかな」
 苦笑しながら言葉を紡ぎ出すと、相手も飄々とした笑顔で両肩をすくめる。地上の時のたどたどしい言葉からは想像がついていなかったが、存外に茶目っ気のある性格のようだ。しばし互いを見つめ合い、それから、二人同時にぷっと噴き出して、くすくす、くすくす、笑いを洩らした。
 破笑がひとしきり治まったところで、改めてサシュヴァラルを見つめ、アイビスは気づいた。彼の唇にあった、噛み切り傷が無くなっている。いや、それだけではない。むき出しの胸や、全身にあった、地上で受けた数々の傷が、跡形無く綺麗に消え去っているのだ。
 夢でも見ているのかという錯覚にとらわれ、アイビスはぱちくりと目を瞬かせる。その意図に気づいたか、サシュヴァラルは「ああ」と水かきのついた手で、己の逞しい胸板をなぞった。
「人魚の回復力は人間より遙かに高い。あれくらいの傷、どうという事は無かったのさ」
 そうは言っても、嵐に巻き込まれた上に、姉タバサに打たれた時に感じた苦痛は、たしかなものであっただろう。彼がアイビスに心配や罪悪感を抱かせまいと、殊更明るく振る舞ってくれているのだと気づき、申し訳無さで胸が一杯になって、うつくむと。
「そう自分を責めないでくれ、アイビス」
 ひんやりとした感触が顎に触れ、上向かせる。真率しんそつな青の眼差しが、アイビスを射抜く。
「君が落ち込んだ顔をしていると、俺も苦しい。君には、空を飛んでいる時のように、眩しいくらいの笑顔でいて欲しい。俺が勝手にした事で君が君を責めるのは、お門違いだよ」
 だから、と。
 こつんと額を突き合わせて、サシュヴァラルが至近距離で囁く。
「俺の勝手だけど、ここは君を守らせてくれ。俺のお姫様」
 それを聞いて、冷たい水に触れているはずなのに、頬が、耳が、火照ってゆく。ときめきを与えてくれる熱が、胸に訪れる。母親に罰せられる事も覚悟の上で、ここまでまっすぐに自分を想ってくれているひとを、邪険に扱うわけにはいかない。
 そしてそれ以上に、彼が自分を大切に想ってくれる事が、とてつもなく嬉しい。カンテラの光以上に強い炎がアイビスの胸の中で燃えている。
 応えたい、このひとの情熱に。その結論に至れば、返す言葉はひとつだった。サシュヴァラルの頬を両手で包み込み、淡い笑みを返す。
「頼りにしてるわ、わたしの王子様」
 赤と青の視線が絡み合い、どちらからともなく目を閉じて、数瞬、互いの唇の温度を伝え合う。それが離れると、アイビスはサシュヴァラルから両手を離し、彼も腕を解いた。
「ところであなた、武器とかは持っていないの?」
 やはり海の民同士でも傷つけ合ってはいけないのだろうか。人魚の心とは反した冷たさを胸に刻むかのように、指で唇に触れながら、アイビスが相手を頭から尾鰭の先まで見つめて疑問を放つ。すると、サシュヴァラルは、子供のように歯を見せて笑い、すっと右手を宙にかざした。
 直後、カンテラの明かりよりまばゆい光が辺りに満ちたかと思うと、彼の手の中にそれが集束し、銀色の輝きを持つ三つ叉の矛が生まれていた。
「マル・オケアノスに伝わる『トライデント』だ。王になる者だけが手にする事が出来る」
 やや小柄なアイビスの身の丈ほどもある武器を誇らしげにかざすサシュヴァラルの姿は、さながら勇ましい戦士。彼が本当にいずれ海を統べる王者になるのだという印象を、アイビスの胸に刻みつける。
「じゃあ、改めて先へ進もうか」
 否応無しに高まる鼓動を必死に抑えていると、トライデントを握っていない左手が差し出される。そこに、カンテラを持っていない右手を重ねて、ふたりはさらなる深みへと静かに泳ぎを進めた。

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