第1章:おかの赤き姫と、海の青き人魚(2)


 エレフセリアは、セオドア大陸の南半島に位置する、小さな王国だ。海で採れる魚介類は豊富で民の腹を満たし、養殖した真珠を大陸内外の貿易で売りさばく事で、小国でありながらも他国が無視出来ない国益を得ている。東西と南、国土の三方を穏やかなアリトラ海に囲まれ、北は同盟国であるディケオスニ王国と国境を接する。国土こそ狭いものの、友好国と自然に護られている為、建国五百年来、外つ国の侵略を許した事は無い。
 その王宮は、南のわだつみを臨む高台の上に建てられている。南方でありながら湿度が低いとはいえ、単純に気温の高い環境を、少しでも快適に過ごす為、王宮は通気性が良く傷みにくい木材を組んで編み上げられた。ともすれば単なる「大きな平屋のお屋敷」に見えかねない。
 だがこれは、王宮の場所をここに定めた時の王が、
『民と離れすぎた生活をしてはならない。それは民の心との乖離を招く』
 と、質素な暮らしを王族にも課した為である。ゆえにエレフセリアの代々の王族は、民と同じ素材の王宮で暮らし、民が口に入れるのと同じ魚をその日の食卓にあげ、時に民の間に降りてその意見を聞き、国政に反映させた。民はそんな王族を慕い、彼らの謙虚さを讃え、敬うべき人々がそこまで遠慮する必要は無いのだと口を揃えて言う。むしろもっと王族らしい生活を、と直訴に至った事さえあると、史書は記している。
 その王宮の入口を、ファディムと共にくぐったアイビスを出迎えたのは、彼女の瞳と同じ赤を持つ、敵意を込めた視線だった。
「またアホウドリみたいにフラフラ飛んでたの? 馬鹿妹」
 辛辣な悪口に、アイビスは目をみはって立ち止まる。隣のファディムもたちまち、それまでの穏やかな笑顔が嘘のように萎縮した。
 アイビスと同じ赤髪赤瞳は、エレフセリアの王族である証。だが、亡き母親から受け継いだ美貌と、持ち前の闊達さで、陽の存在に見えるアイビスに対し、目の前の女性は、高価な紫の布を使ったドレスときらきらしい化粧で飾り立てているものの、その内に抱える陰の性根を隠しきれずにいる。
「タバサ姉様」
 名を呼ぶと、腹違いの姉はことさら機嫌が悪そうに舌打ちした。
「まったく。空狂いな王族なんて、恥だったらありゃしない」
 遠慮会釈も無い毒舌に黙り込んでしまうアイビスを一瞥して、タバサは嘲るような笑みを浮かべる。
「その様子だと、海に落ちたようだけど」
 指摘の通り、アイビスは墜落したそのままの格好だ。さすがに垂れるほどの水分は落としてきたが、髪は潮に濡れてばさばさになり、服もべったりと身体に張りついている。
「そのまま溺れ死ねば良かったのに」
 到底家族に告げるものとは思えない台詞を吐いて、タバサは背を向ける。
「ファディム、あんたもその馬鹿の相手なんかしているんじゃないわよ。だから馬鹿が調子に乗るんでしょう。それとも、あんたにも馬鹿が伝染ったの?」
 いい加減にしてよね、と捨て置いて、彼女はすたすたと王宮の奥へ立ち去ってゆく。並び立つと少し高い視線からファディムがアイビスを見下ろし、心底すまなそうに肩をすくめた。
「ごめん、アイビス」
「ファディムが謝る事じゃないわ」
 そう。この件に関してファディムが謝罪を述べる理由はどこにも無い。空を飛びたいと望んだのはアイビスだし、それに対してタバサが勝手に苛立っているだけだ。
 だのにこの、姉の夫は、まるで自分がしでかした罪のように、頭を下げるのだ。
「でも、タバサをまた怒らせるとわかっていながら、君を止めなかったのは僕だよ」
「それを言うなら、姉様が怒るってわかっていながらあなたまで連れ出したのは、わたしの責任だわ。あなたが謝る必要なんて、全然無い」
 アイビスが首を横に振り微笑してみせても、ファディムはおさまりが悪そうな表情で口をつぐみ、継ぐべき言葉を探している。
 いつもこうなのだ。この義兄は優しすぎる。ディケオスニから婿入りしてきた第五王子は、王位とは縁遠かったゆえに、政争によって心荒まず、誰にでも穏やかに接する青年に育った。が、まつりごとを知らなかったゆえに、決して王の器たりえない。それが、第一王女としていつか国を継ぐ為に、望むと望まざるに関わらず夫を迎える運命にあった、強気なタバサを失望させ、夫婦仲は完全に冷え切っていた。彼女の高圧的な言動から逃げる形で、アイビスと行動を共にする事が多かったのも、姉が余計に二人に対してきつく当たる原因となっていた。
「ほら」
 二人揃って落ち込んでしまった気分を何とか変えようと、アイビスは笑みを閃かせ、ファディムの背を軽く叩く。
「今日は大陸中央から荷物が届く日だわ。珍しい服や宝石をさしあげて、姉様のご機嫌を取ってきなさいよ」
 焼け石に水だと、アイビスもファディムもわかっている。高価な品物を見たタバサの気分が良くなるのは、その場限りの事で、また明日には、二人に嫌味をぶつけてくるだろう。
 それでも、政略結婚だったとはいえ、姉夫婦の歯車が噛み合わねば、エレフセリアという国は将来立ちゆかなくなる。少しでも二人の仲が良くなってくれる事を願いながら、アイビスは義兄の胸に拳を当てた。
「……ごめん」
 心優しいディケオスニの王子は、アイビスに頭を下げると、踵を返して、妻の去った方向へと歩いてゆく。
「謝るのは、私の方なのに」
 気の重い役目を押しつけてしまった申し訳無さに、アイビスはぽつりと呟く。それから、今更濡れた身体を思い出して、寒気にぶるりと身を震わせる。冷え切った身を温めるべく湯を浴びようと、彼女は早足で風呂場へ向かった。

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