番外編17:続いてゆく絆
「アルダのばかー!」
 澄み渡った青い秋空の下へ広がる草原に、子供特有の甲高い声が響き渡る。
 空色のワンピースを着て、金に近い銀色の髪をワンピースと同じ色のリボンで二つに結わいた、七、八歳と見える少女は、怒りを孕んだ涙を琥珀色の瞳にたたえ、目の前で狼狽える同年代の少年を睨みつけていた。
「ご、ごめん」
「ごめんですんだらけんかなんてなくなるの!」
 紅玉髄カーネリアンの瞳に戸惑いを浮かべておろおろする少年の紫の髪を、風が撫でてゆく。わんわんと喚く少女の泣き声に、「あっはは!」と愉快そうな高笑が重なった。
「まーた、アルダがシズナを泣かせてるぜ!」
 少し距離を取った場所で、赤い短髪を持つ、少年少女よりは少しだけ年かさだろう少年が、面白くてたまらない、とばかりに腹を抱える。
「まだがきんちょのくせに、『罪な男』ってやつだな!」
 と、その脇から、ごっ、と痛そうな音を立てて、肘鉄が少年のこめかみに打ち込まれた。
「痛え~!!」
 少年は、腹を抱えていた手を頭に当ててしばしうずくまり、やがて涙目になりながら、自分の傍らに立つ人物をぎんと見上げる。
「アティアてめえ、この横暴女!」
「貴方がシズナとアルダをからかうからでしょう、自業自得よ」
 アティアと呼ばれた茶髪の少女は、少年の激昂を受けても怯む事無く、黒目がちな瞳を細めて、冷ややかに相手を見下ろした。
「まあまあ、アティアもイリオスも。喧嘩は良くない」
 一触即発の少年少女の間に割って入ったのは、陽の光を受けると紫色にも反射する黒髪を持ち、つるの細い眼鏡をかけた、この場にいる子供達の中でも年長と思しき、ひょろりと背の高い少年だった。
「シズナとアルダも、仲良くしないと。お互い謝って」
 彼は、最初に喧嘩を始めた二人のもとに歩み寄り、二人の右手をそれぞれ取ると、握手の形に繋がせる。
「ちぇっ、コキトはいっつも偉ぶりやがって」
「貴方は少しはコキトの落ち着きぶりを見習いなさい」
 それを見た、イリオスと呼ばれた少年が不服そうに舌打ちすると、アティアの名を持つ少女に脇腹をどつかれ、「うおっ」とまた背を丸める羽目になった。
 シズナはしばらくの間、濡れた瞳で、コキトが握らせたアルダの手を見下ろしていたのだが、またぷわりと目の端に粒を浮かばせる。
「やだもん!」
 涙声と共に、少女は少年の手を振り払った。
「アルダがわるいんだもん! ぜったいぜったいあやまんないもん! アルダなんて、だいきらい!」
 済まなそうに見つめる橙色の瞳が、余計に腹立たしい。背を向けて、少女は草原を駆けていった。

 少年少女達は、所謂いわゆる幼馴染だ。シュレンダイン大陸の南方、ベルカの街にある孤児院で共に育った仲である。シズナだけは、ここより離れた場所に住んでいるのだが、少女の両親と、アルダの両親である孤児院の院長夫妻が、『しんせきかんけい』にあるので、月に一度はベルカを訪ねるのだ。
 他の三人は、ほぼ同時期に孤児院に引き取られた。彼らは既に自分の名前と誕生日を言える歳だったので、元気良く名乗ると、院長は「こんな事ってあるんだ」と目を真ん丸くし、シズナの父親は、イリオスの顔を見て、ほんの一瞬だが、何かひどくしょっぱいものを口に含んでしまったような表情をぎらせた。それらの理由は、子供達の誰にも一切わからないし、大人達は教えてはくれなかったが。
 そんな経緯があって、子供達は自然と一緒に遊び回る仲になった。中でも、血の繋がりによるのだろうか、シズナはアルダの紫髪をついつい目で追いかけ、後ろをついて歩き、橙の瞳がこちらを向いて嬉しそうに細められるよう、期待を寄せるようになった。
 だのにあの『ぼくねんじん』――シズナの母が父をそう評していた事があるが、恐らく同じ意味だろう――は、こちらの気持ちなど露知らずとばかりにさっさと先を歩き、シズナが残した人参を「食べ物を粗末にするのは良くない」と、まるで親のように上から目線で言って、これ見よがしに己の口に放り込んでみせる。とにかく、シズナよりお兄さんであろうと振る舞う。そのくせ、シズナのして欲しい事に気づかなかったりと、気遣いが足りないのだ。今日も、シズナの大事な大事な日なのに、彼はすっかり忘れている。だから怒りを爆発させたし、こちらから謝る気もさらさら無いのだが、あの鈍感な少年は、きっと思い出さないだろう。
「アルダのばか! ばーか!」
 シズナは罵声をまき散らしながら、足元に咲くシロツメクサを蹴り飛ばし、小さな白い花弁を宙に舞わせる。
 すると。
「そんな事をしたら、お花さんが可哀想よ?」
 背後から突然声をかけられ、シズナはびくうっとすくみあがり、蹴り上げていた足をのろのろと地面に下ろした。そして、ゆっくりとこうべを巡らせる。
 二人の人物が立っていた。シズナよりずっと年上だが、アルダの両親よりは若いだろう、白い服をまとった女性と男性。女性は黄金色の髪を風に揺らし、彼女の肩を抱く男性は、アルダと同じ紫の髪をして、二人とも柔らかい笑みを浮かべている。
『一人でふらふら歩き回らない事。知らない人に声をかけられても、答えたり、ついていったりしない事。いいね?』
 どんなに人のさそうな顔をしていても、頭の中では何を考えてるかわからない悪い大人もいるから、と、子供達だけで遊びに出る時、院長が必ず言って聞かせる文言が、シズナの脳裏を横切る。
 だが、シズナには、彼女達が院長の言うような『悪い大人』には見えなかった。理由はわからない。ただ直感で、「この人達は大丈夫だ」という確信を得ていた。更には、彼女達に対して、「懐かしい」という感覚さえ抱いているのだ。
「おねーさんたちは」琥珀色の瞳で、二人を見上げる。「パパとママのきょうだい?」
「うーん、半分合ってるけど、半分違うかな」
 男性が紫の瞳を切なげに細めて、静かに首を横に振った。
「だって」
 シズナは納得がいかなくて唇を突き出す。二人の帯びる雰囲気は、自分達の親、特にアルダの母親にとてもよく似ているのに。
 すると、男性が女性の肩に回していた腕を解き、シズナの目線と同じ高さに屈み込んで、小首を傾げた。
「でも、君達のパパやママにお世話になった事は、間違い無い」
「だから、あの子達の子供である貴女達が、幸せにやっているかどうか、ちょっと気になっちゃって」
 女性が長いスカートの裾を翻しながら歩み寄ってきて、そっと右手を伸ばす。シズナの髪を撫でてくれるかと思ったその手は、すうっとした少し冷たい感覚と共にすり抜けて、シズナの頬を軽くくすぐり、離れていった。
「シズナ」
 男性が、優しくこちらの名を呼ぶ。院長の作る甘いスノーボールを味わう時みたいに、噛み締めるかのように。
「君はこれから大人になるにつれて、つらい事、哀しい事、ままならなくて悔しい事を、沢山味わうだろう」
 だけど、と、一旦間を置き、男性は言を継ぐ。
「それ以上に、嬉しい事、楽しい事、喜ばしい事もあるはずだ。君には、その思いを忘れないで、好きな人を大切にして、皆に幸せを分けてあげる優しい大人になって欲しいと、俺達は思っている」
 男性の言う事を、シズナは全て理解しきれた訳ではない。だが、『好きな人を大切にして』『幸せを分けてあげる優しい大人』になって欲しいという彼の願いは、受け止めた。それを証する為に、深くうなずく。
「良かった」
 男性が満足そうに微笑み、立ち上がる。女性が、触れられない腕で、ふわりとシズナを抱き締めて、耳元で囁く。
「貴女の生きる世界が幸いに満ちている事を願うわ、私達の」
「――シズナ!」
 ささめきの途中で、必死な声が耳に滑り込んだ。はっと振り返れば、誰よりも大好きな少年が、まっすぐこちらに向けて駆けてくる。
「一人で行っちゃうから、心配した」
 ずっとシズナを探して草原を走り回っていたのだろう。アルダはシズナの前までやってくると、ぜえぜえと切れた息を整える。
「君に何かあったら、僕は」
 まだ不安を拭いきれない少年の顔をじっと見つめると、「な、何?」と相手は朝焼け色の瞳を戸惑いに揺るがせた。やはり、似ている。その予感をたしかなものにしようと肩越しに背後を見やり、シズナは瞠目した。
 いない。
 ついさっきまでいた、目の前の少年に似た男女の姿は、その存在した証を微塵も残さずに消え失せ、ただ、そよそよとシロツメクサが風に吹かれてこうべを揺らしている。
「シズナ」
 唖然とする少女の名を、少年が呼ぶので、向き直る。アルダは小さく身を屈めて、足元のシロツメクサを一輪手折ると、父親譲りの器用さで手早く茎を輪っか状にして、シズナの左手を取り、静かに薬指に通した。それはさながら、大粒の月長石ムーンストーンの指輪のように。
「お誕生日、おめでとう」
 万感の思いを込めて、少年がその台詞を爪弾く。少女は琥珀色の瞳を真ん丸くしてシロツメクサの指輪を見下ろし、それから、少年の顔を凝視した。
「後で父さんが大きなケーキを出してくれるから、その時に言おうと思って。でも君は、僕が言ってくれるのを待ってたんだよね」
 気づくのが遅くて、ごめん。
 面映ゆそうに微笑む少年の言葉が、風に乗ってシズナの耳に届く。その途端、少女の胸にわき上がる感情があった。アルダが忘れていなかったという嬉しさ。彼の気持ちに気づかないで一方的に怒ってしまった恥ずかしさ。もらった指輪の喜び。様々な思いの色が胸の内で混じり合って描いた絵画は、幸せ、だった。
「わたしも」
 少年の首に腕を回して、ぎゅっと抱きつき、相手が気恥ずかしそうに狼狽える様子もお構いなしで、告げる。
「おこっちゃって、ごめんね。だいきらいなんてうそ。ほんとうは」
 その後に小さく爪弾いた一言は、アルダに届いただろうか。それを確かめる前に。
「あーあ、シズナとアルダはまたやってるぜ!」
「子供なのに妬かせるねえ」
「二人とも、茶化さないの」
 めいめいに笑う声と共にイリオス達が追いついてきたので、シズナはアルダに質問する機会を失ってしまったのだ。
 だが、たしかな絆はシズナの薬指に宿っている。いつかアルダはこのシロツメクサを本物の宝石の輝きにして、大人になった自分に与えてくれるだろう。それを思えば、優しい気持ちが心臓のあたりをじんわりと温めてくれる。
「さあ、そろそろ帰ろうか」コキトが年長者らしく皆を差し招く。「先生が作ってくれるシズナの誕生日ケーキが出来上がる頃だよ。皆でお祝いだ」
「ひゃっほう、ケーキケーキ!」「貴方のじゃあないわよ」
 拳を突き上げて駆け出すイリオスを、アティアが呆れ半分の笑顔で見守りつつ追う。その後ろを、ズボンのポケットに手を突っ込み、口笛を吹きながら、コキトが歩いてゆく。
「シズナ」それを見送ったアルダが、こちらに向けて手を差し出す。「行こう」
「うん!」
 シズナは満面の笑みを弾けさせ、幼い恋人未満の二人は手を繋ぎ、草原を去る。
 一瞬、その背中を見守ってくれる誰かの視線を感じて、少女はもう一度振り返ったが、やはり誰もおらず、シロツメクサの花畑だけが広がっている。しかし、先程出会った不思議な男女がそこに立って、笑顔で手を振ってくれているような気がして、少女は無人の方向にぺこりと頭を下げ、そして前に向き直り、もう振り返らなかった。

 千年に渡る悲劇は終わった。
 物語はいつか風化し、真実を知る者もこの世を去ってゆくだろう。
 それでも、世界は遙か未来へと続くのだ。人々が、「愛する」という感情を忘れない限り。


フォルティス・オディウム 完
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