番外編11:漂泊する心(4)
 いつもだ。いつも後悔の波の中を漂っている。やる事為す事全てが後手に回り、失敗する。そして悔いても、戻るものは何も無い。得られたものも、容易く掌の中から零れ落ちていってしまう。

『気にしすぎよ』

 闇の中で、ふと、彼女の声が聞こえた気がした。
『貴方はいつも、眉間に皺寄せて、何でもないって口先ばかりで。でも、いいのよ』
 遠浅の海色の瞳を細めて、彼女が微笑う。そうやって直接向けて欲しかった、『透過律』越しにしか見た事の無い笑顔で。
『貴方は、貴方の思うままに生きて、いいのよ』
 ああ、そうだ。そう言って欲しかったのだ。他の誰でもない、彼女に。
 彼女をかき抱きたくて、必死に左手を伸ばす。そして名を呼ぶ。

「――シズナ」

「ミサク」
 声変わりして少し低くなった声が自分を呼ぶ事で、ミサクの意識は現実に立ち返った。食堂の椅子にもたれかかって、そのまま寝落ちていたらしい。橙色の瞳が自分を見下ろしていて、目の前には、湯気を立てるカップが置かれている。
「おやつ作って、珈琲も淹れた。いるでしょ?」
「……ああ」
 答えなどわかりきっていたとばかりに、深煎りの珈琲は香ばしいにおいを漂わせ、この家の人数で等分されたチーズタルトの一片が載った皿がある。
 短い居眠りだったはずなのに、やたら長い夢を見ていた気がする。夢は大体悪夢なので、さっさと忘れてしまうよう努めるのだが、今回は違った。
 誰よりも愛しい彼女の声。十七年経っても色褪せない、高い声。夢とはいえ、久しぶりに聞いた。
 恐らく、環境が変わったせいだろう。その要因となった少女の名を、息子に告げる。
「エクリュ達も呼んできてやれ。喜ぶだろう」
 途端、メイヴィスが目を真ん丸くして、それから顔を紅潮させると、「う、うん」とぎこちなくうなずき、食堂を出てゆく。そのうなじでは、古い白いリボンが亜麻色の髪をまとめている。
 リボンを渡したあの日以来、メイヴィスはこちらに一線を引き、態度は少々よそよそしくなった。「やらかした」とは思ったが、関係を修復するには、父子らしい父子の関係を知らずに育ったミサクには、到底思いつかなかった。ユージンが間に入っていてくれなかったら、この生活はとうに瓦解していただろう。
 だが、変化が訪れた。今はまだ、わずかで、しかし、確実な変化が。
 エクリュ。十七年探し続けた、シズナの娘。彼女がこの家に来てから、メイヴィスは明らかに変わった。
 押し込めていた感情の波が、多少見えるようになった。エクリュに褒められるとやたらと照れを見せ、彼女の為なら最前線に飛び出して戦う危険も厭わない。リビエラが来た時はお互いに「タイプじゃあない」と言い合ったのに、庇護対象が出来た事で、男としての矜持が刺激されたらしい。
 息子は変わってゆく。誰もが前へ進んでゆく。自分も変わらねばならないのはわかる。だが、若者のようにすぐにとはいかないのだ。
 だから、今は、まだ。
「ミサク」
 十七年付き合った、耳当たりの良い声が耳朶をくすぐる。顔を上げれば、琥珀色の瞳が、親愛を込めて細められている。
 その水色の髪に指を絡ませ、引き寄せて。
 ミサクは軽い口づけを、彼女の唇に落とした。
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