番外編11:漂泊する心(3)
「ミサクー!」
 ぱたぱたと。軽い足音が近づいてくる。
「スコーン、つくった!」
 この暑い中、ずっと『火炎律』と向き合っていたせいでもあるだろう、頬を赤く上気させた少年は、皿に盛られた焼き菓子を得意満面で差し出す。「食べてくれ」という意思表示だ。
 メイヴィスは、精神不安定で震えていた時期の長かったミサクの背中を見て育ったというのに、随分と優しく穏やかな子に育った。やはり、あの女性の息子だけある。
『化身律』――ユージンがそう名付けた――を心臓に埋め込まれた息子は、その細身な体格からは想像もつかない屈強な虎へと化身し、魔性の力を鋭敏に感じ取る力を得た。もっと幼い頃は、それを本人の望むと望まざるに関わらず発動させてしまい、わんわん泣き喚いていたものだが、この数年間、根気良く付き合う事で、今はほぼ完璧に制御出来るようになっている。
 その姿を見て、ミサクも、泣いてばかりではいられないと思うようになれた。自分はまだ、生きている。シズナの死を確かめた訳でもない。
 それに、彼女が残した光もある。
 エクリュ。
 唯一王妃の奸計によって親元から引き離され、僻地の貴族へ預けられた姪は、領地が蛮族の侵攻を受けた、とかつての部下から報告を受けて館に向かったところ、一族郎党皆殺しの憂き目を見ていた。だが、その中に紫髪の赤子の姿は無かった事から、エクリュはどこかで生きているのではないかという一縷の望みを託して、今も情報をかき集めている。
「ミサク!」
 少し怒った態の声で、ミサクは回顧の輪から現実へと戻ってきた。息子が、感想を待ちきれない、という様子で、皿を突き出している。
 手を伸ばし、スコーンを一つ取る。口に含めば、ふうわりと小麦粉の香ばしさが鼻を抜け、適度に混ぜたチョコレートチップの甘味が口内に広がる。誰が教えた訳でもないし、自分もユージンも料理にかけては致命的に下手なのに、この子は自力で勉強をして、そこいらの食堂も顔負けの料理を出してくるのだ。
「美味いな」
 しみじみと噛み締めるように呟けば、たちまちメイヴィスの顔に喜色が溢れる。喜怒哀楽を表面化させる事の少ない自分が育てたのに、これだけ素直に感情を出せるのは、ひとえにユージンの明るさのおかげだろう。彼女がいなければ、自分達はあらゆる意味で追い詰められて、無理心中さえ図っていたに違い無い。彼女がいてくれて、本当に良かった。
 そんな事を考えながら、にこにこ顔のメイヴィスを見下ろしていたミサクは、ふと、少年の髪が大分伸びている事に気づいた。
「お前」
 眉間に皺を寄せて声をかけると、息子は不思議そうに小首を傾げる。
「髪、切るか結ぶかしろ。邪魔だろう」
「ユージンせんせーはへいきなの?」
 ああ、と溜息をついて天井を仰ぐ。前言撤回、すぐ傍に悪い例がいた。彼女は波打つ水色の髪を肩より長く流し、医師として必要な時以外は束ねない。
 だが、男児の髪が長いというのはいかがなものか。かといって、男のミサクに髪を結ぶ道具などすぐに取り出せない。しばし思案して、彼はひとつの答えに行き当たった。いつか渡そうと懐に忍ばせて、そのままにしておいた、白いリボンを取り出す。
「なに、それ」
 無邪気に問いかける息子を直視出来なくなる。過去が黒い手を伸ばして、心臓をわしづかみにするような感覚に、ミサクは一瞬目を伏せ、それからゆっくり開くと、洗っても落ちきらなかった古い染みのあるリボンを、メイヴィスに差し出し、告げた。
「お前の母さんの形見だ」
 途端。
 息子の表情がふっと消えた。それから、何かを恐れるような、怯えるような顔つきに変わり、スコーンの皿を静かにテーブルに置いて、ゆるゆると手を伸ばし、リボンを受け取る。
「……おかー、さん」
 リボンを握った拳を胸に引き寄せ、やっと絞り出した声は、わななきを伴っていた。
「どんな、ひとだった?」
 どう、と訊かれて、明瞭な答えを返せるほど、ミサクは彼女と長く共にいた訳ではない。いや、シズナとさえ、一年とほんの少しの仲であった。長さなど関係無いのかもしれないが、とにかく、メイヴィスの母親とは、お互いに立ち入らない領域を持ち合っていた。
 だから、言えるのは、共に過ごした日々の印象、
「優しい女性ひとだった」
 それだけだった。
 メイヴィスが上目遣いにこちらを見上げながら、のろのろとリボンで髪をまとめる。それから黙って皿を手に調理台の方へ戻ってしまった事で、ミサクは自分が取り返しのつかない事をしでかしてしまった事を、薄々感じ取った。
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