番外編11:漂泊する心(2)
『お前は、お前の姉が万一死んだ時の為の保険だ。生かしも殺しもしない』
 老いの始まった顔に皺を深く刻み、唯一王はそう嘲笑した。
『だが、顔は良いな。お前も儂の手の内だと知るには丁度良い』
 その言葉の意味も、何をされたのかもわからないまま、ただ、泣き叫んだ夜があった。

『お前みたいなチビが、次の特務騎士隊長様だって?』
『笑わせるんじゃねえよ』
 蝉時雨が五月蝿い城の裏庭の木陰。体格差で全く歯が立たなくてぼこぼこに殴られたところへ、更に腹に蹴りが入る。
『お坊ちゃんには、世間の厳しさを教えてやらねえとな』
『良い面してるんだ、鳴き声もさぞかしそそるだろうよ』
 下卑た笑みを浮かべながら、男達が手を伸ばしてくる。
 助けて、助けてと叫びたくても、言葉は音として紡ぎ出せず、声になったところで、育ての親は助けてくれない。
 誰も、助けてくれない。

『助けてくれ、って?』

 不意に一面の闇が訪れ、彼女の声が聞こえる。
『誰も助けられなかった貴方に、それを言う資格があるのかしら?』
 ぼんやりとした光をまとって、彼女が立っていた。『あの日』の姿のままで、赤く染まった聖剣を手にして、返り血に塗れて。
『貴方は私を助けてくれなかった。そんな貴方に、助けを乞う資格なんてあると思う?』
 嘘だ。彼女はそんな事は言わない。いつでも哀しみを押し込めて、強気な顔を見せていたのだから。
 いや、だからこそか。全てを失った今だからこそ、彼女は胸の内に抱えていたどす黒い感情を解放するのか。
『貴方も、こっちへいらっしゃい』
 赤く輝く刃がこちらの首筋に触れる。後は力を込めて引きさえすれば、頸動脈を斬り裂き、血を噴き出して、あっけなく死ぬだろう。
 もう、終わりにして良いのだと。甘美な囁きさえ聞こえてくる。彼女が、にい、と薄い唇を笑みの形に象って――

「――ミサク!」
 耳に届く声は明瞭で、は! と息を吐きながら、ミサクは覚醒した。もう秋も深いというのに、全身汗びっしょりで、心臓はばくばくと脈打っている。
 薄い月明かりの差し込む中、ユージンの琥珀色の瞳が不安げに見つめている。隣からは、メイヴィスの小さな寝息が聞こえてくる。
 夢か、と安堵しかけて、いや、と考え直す。
 全て夢ではないのだ。屈辱を浴びた日々も、彼女を救えなかった事も、置き去りにしようとした過去だ。だが、過去はミサクが逃げる事を許さない。夢の中までも追いかけてきて、その心を鋭い刃で抉る。
 抑えようと思っても、勝手に岸水寄せて、恐怖と後悔は水分となって溢れ出す。
 左手で目を覆って、引きつれた泣き声を洩らす。大の男がみっともないと言われても。精神の傷はこうしてどこまでもミサクを追い詰める。何度も、何度も。薄れるどころか、よりその彩度を増して、ぎらぎら光る刃のように、襲いかかってくる。
 がくがくと全身が震え、とめどなく流れる涙が枕まで濡らしてゆく。子供のようにしゃくりあげていると、ふと背中に腕が回され、抱き起こされて、ミサクはユージンの胸に顔を埋める格好になっていた。
 いつもこうだ。共に暮らすようになってから、彼女は主治医としてだけでなく、女としてもミサクの傍らにいてくれるようになった。
 一番に想う女性ひとが他にいながらその優しさに甘えるなど、男として最低なのはわかっている。それでも、今。ユージンに助けてもらわねば、自分は全ての重みに押し潰される事も、わかっている。
 雷や幽霊に怯える子供のように震えながら、ミサクは、恐怖の根源を押し流そうと、涙を流し続ける。
 ユージンの細い指が銀髪に触れ、くしゃりと撫でてくれる。それで感情の大波は、少しずつ引いてゆくのであった。
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