番外編11:漂泊する心(1)
 家に人が近づく気配がして、診察室で資料を整理していたユージンは、ふかしていた煙草を灰皿に押しつけ、玄関へ向かった。
 こんな夜遅くに訪ねてくるのは、急患か、泥棒か。いずれにしろ、あまり歓迎したいものではない。まあ、後者なら、体術と魔律晶まりつしょうで撃退する自信があるが。
「誰だい?」
 玄関前で、鍵を開けないまま訊ねても、返事は無い。ただ、扉の向こうから感じ取れる、今にも止まりそうな呼吸が、少なくとも強盗ではない事を教えてくれる。
 用心しながら鍵を外し、扉を開く。途端、視界に入ってきたのは、夜闇でもわかる赤だった。
「……ユージン」
 まだ少年と言っても良い銀髪の青年が、放心しきった様子で立ち尽くしている。ぽたり、ぽたりと地面に落ちて吸い込まれてゆく赤のもとを目で辿れば、その隻腕に抱かれた、血塗れの裸の幼児が視界に映った。彼が育てている義理の息子のメイヴィスだ。
「……彼女が」
 蚊の鳴くような声で、青年――ミサクは続ける。
「何とか、してくれ」
「どうしたの」
 とにかく、一刻も早く幼子を救わねばならない。診察室に導きながら、自失気味に、断片的にミサクが語るのを聞くに、メイヴィスが虎に『化身』して、母親を咬み殺し、ミサクが反射的に撃ってしまったらしい。
 メイヴィスの母親は、魔族の実験台として魔王城に囚われていた時期がある。息子にも何か影響があるかもしれないと、メイヴィスが生まれた時、身体を調べて、心臓に魔律晶が埋め込まれている事はわかっていた。だがそれが、何の効果をもたらすかまでは、ユージンにもわかっていなかったのである。
 ユージンは白衣を着込み、白い手術用の手袋で手を覆うと、幼いメイヴィスの身体に留まっていた銃弾を慎重に抜き去り、『回復律』を施す。ひゅうひゅうと喉を鳴らしていた幼児の呼吸が穏やかになったのを確認すると、部屋の隅で椅子にかけてうなだれていたミサクに、「彼女は」と訊ねる。少年は、ゆるゆると首を横に振った。
 今、ミサクを一人にするのは、非常に危険だと思う。だが、彼女を放ってもおけない。
 ミサクの見えないところで、度数の低い酒に軽い睡眠薬を混ぜ、「これ、飲みな」と差し出す。ミサクがのろのろと片方しか無い手を伸ばして受け取り、呆然と口をつける様を見届けるのももどかしいが、今、無理にでも眠らせなければ、彼は今度こそ間違い無くメイヴィスの脳天を撃ち抜いて、自殺すらしかねないだろう。
 やがて、カップが床に落ちて、中に残っていた酒が染みを作る。壁にもたれかかって規則正しい寝息を立て始めたミサクに毛布をかけてやると、ユージンは家を飛び出し、彼らが暮らしている家へと駆けた。
 扉を開けた途端、むせかえるような血のにおいが鼻を突き、思わず口を手で覆ってしまう。忍ぶように屋内へ入れば、台所で、メイヴィスの母親があおのけに血の海へ沈み、かっと目を見開いたまま時を止めていた。致命傷になった喉の引き裂き傷からは、既に出血は止まっている。
 死者はこれ以上先へは進めない。ユージンはそっと両目を閉じさせ、服が血で汚れるのも構わずに、その軽い身体を抱き上げた。
 愛する双子の姉シズナを失ってから、ミサクの傍に居続けた女性に、彼は決して手を出す事が無かった。それが彼なりの彼女への気遣いだったし、彼なりのシズナへの筋の通し方だったのだろう。
 だが、危うい薄氷は砕け散ってしまった。これからは、自分が彼を守らねばならない。その炎がユージンの心に宿る。ミサクとメイヴィスの命を繋ぐ為にも、この炎を消してはいけない。心からそう思った。
 彼女を自宅の庭に埋葬すると、明け方にゆるゆると目を覚ましたミサクにそれを告げる。途端、彼は子供のようにぽろぽろと涙を零し、「僕のせいだ」と繰り返しながら、残された左手で顔を覆い、嗚咽した。
 そんな彼の肩を両腕でしっかりと包み込み、ユージンは、耳元で囁く。
「あんたのせいじゃあないよ」
 そう、誰も悪くはなかった。この場にいる、誰も。
「あんたのせいじゃあないよ。この世界には、アタシらの力じゃあどうしようもない因果がある」
 今の彼に、この言葉の意味が届くかは、わからない。だが、告げなければいけないと思った。
「一緒に暮らそう」
 それだけは通じると信じて、朝の光が静かに部屋に差し込む中、唇から爪弾く。
「家族になろう」
 それが、ユージンなりの、彼女への筋の通し方だった。
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