番外編10:血濡れの首に口づけを(2)
 アナスタシアの魔法士となったコキトは、その稀代の魔力と研究熱心な性格で、あっという間に周囲の信頼を得て、魔律晶研究室の室長としての地位を得た。決して素顔を見せないものの、飄々とした性格も受けが良く、
『室長は魔王にも匹敵する魔力を持っている』
 と絶賛するが、まさに魔王がここにいる、などと思う者は一人もいなかった。
 主に魔物の体内から取り出され、魔物が魔物として動く原動力、そして人間が魔法を使う媒体として意味を成す、魔律晶。『火炎律』『氷結律』『雷音律』『回復律』などの基本的な攻撃や回復の魔法から、ある一定の時間の光景を収録する『記録律』、そもそも他の魔律晶の影響を受けない『阻害律』など、魔法の体系を整え、今までに無かった使い道も模索してゆく。
 人類が魔法を得る事に支障は無い、とコキトは思っている。遙か昔、このシュレンダイン大陸には、もっと進んだ文明が栄えていたのだ。デウス・エクス・マキナから与えられた情報に、その文明の詳細や、何故それが滅びたかは刻まれていなかったが、文明の進歩に異を唱える必要は無いだろうというのが、コキトの持論だった。
 真の使命から離れて魔法の研究をする日々は、楽しさに溢れていた。寿命と、いつかは捨てられる身である事を意識しながら、ただ闇雲に魔物を倒す旅路より解き放たれ、自分の興味の赴くままに魔律晶を研究し、新たな魔法を発見して、研究員達に称賛されるのは、悪い気がしない。
 生まれてから五年が過ぎたが、アルゼストの行方は杳として知れない。このまま見つからずに、お互いの存在を知らずに生きるのが、幸せなのではないか。そう思っていた頃だった。
「元気そうね、魔法士様」
 滅多に王都にいないはずのシエラが、研究室に姿を見せたのである。
 各地に散っている、隊長以外の特務騎士が王都に帰ってくる時は、何か重要な役目を任じられる時だ。城の人間の出入りを観察していてそれに薄々勘づいていたコキトは、「これ、あった方が良いかい?」と、酒のグラスを傾ける仕草をしてみせる。すると、特務騎士はゆるりと笑みを見せて鷹揚にうなずいた。
 城を出て、城下街へ降る。彼女の行きつけだという裏通りの酒場に入れば、照明を抑えた店内は薄暗く、『燈火律』の明かりを頼りにちびちびと酒をなめている客が、二人、いるだけだ。
 シエラは慣れた様子でカウンターのスツールにかけるので、コキトも倣う。彼女が「いつものをふたつ」と店主に注文すれば、予想通りシンフォニーが出てきた。
 乾杯をして、グラスを傾ける。果物と酒精の香りに満ちたカクテルは、毎日の研究で知らず知らずのうちに疲弊した身体に染み渡る。一息ついたところで、シエラがこちらを向き、口元を持ち上げた。
「皆、噂してるわよ。次から次へと新しい魔法を編み出していて、魔王のようだって」
「あんたはそれを、隊長には?」
「まさか」
 少し表情を硬くして訊ねると、彼女はころころ笑いながら、つまみに出てきたカルパスを口に放り込んで咀嚼し、飲み下す。
「何の根拠も無いのに優秀な魔法士を手にかけたら、流石に特務騎士でもただじゃあ済まないわ」
「じゃあ今日は、何の話をしに?」
 コキトの質問に、シエラはふっと表情を消して、シンフォニーを一口含むと、
「遠征するの」
 と、ぽつり、と洩らした。
 王都から東のハステルベルクの森で、行方不明者が多発しているという。最初は近くの村人。次は捜索に入った冒険者。不気味な夜吠えを聞いた者も多くいるらしい。
「それは機密事項なんじゃあないのかい」
「まあね」
 揶揄からかうように顔を覗き込んでみせれば、彼女の顔に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「出発はいつなんだ」
「明日。その前に、なんだかあなたの顔を見たくなって」
 その言葉の裏に秘められた熱を感じ取れないほど、コキトは鈍感ではない。むしろ人間の感情の機微には鋭い方だ。だが、それを知りながら、敢えて応えず、肩をすくめて話を逸らす。
「お互い、上の命令に逆らえない身は辛いね」
 シエラはきょとんと目をみはり、かわされた事に気づくと、少しばかりむっとした顔を作って。
「そうね」
 と、カクテルを飲み干すのだった。

 そして翌日、シエラは他の特務騎士数人と共にハステルベルクへ旅立ち。
 一日、二日、一週間経っても、誰一人戻ってこなかった。
 こうなったら、なりふり構っていられない。第二陣が派遣されるとの噂を聞きつけたコキトは特務騎士隊長に直訴し、捜索の同行を許された。
「魔法士の君には、攻撃火力として期待する。もし、魔物が現れたら、その力を遺憾なく振るってくれ」
 そう、強く言い含められて。
 かくして、揺れまくって尻の痛くなる馬車で四時間。ハステルベルクの森へ辿り着いた。
「魔物を見つけたら、これを」
 特務騎士達に、発煙筒の代わりに上空へ飛ばして合図を送る『光弾律』を二つずつ渡し、自らもそれを手にして、コキトは森へと踏み込んだ。
 森の中は昼間なのにほの暗く、ギャア、ギャア、と、烏の鳴き声と羽音が響き渡る。『燈火律』で足元を照らして、木の根に足を取られないように、ぬかるんだ道を歩いてゆくと、やがて、地を這うような不気味な音――いや、声だろうか――がコキトの耳朶を震わせた。
 急場しのぎとはいえど、魔王の血のせいだろうか。ぞわりとした感覚が教えてくる。これは、魔物の気配だと。それも、王都の周りに出没するような、下級の魔物ごときではない、という事を。
『火炎律』を握り締め、いつでも魔法を放てるように心の準備をしながら、足を進める。先へ行けば行くほど、気配は強くなり、嗅覚にも、腐敗した肉のような臭さが漂ってくる。
 やがて、木々が途切れ、汚泥に塗れた開けた場所へ出た時、コキトは思わず足を止め、顔をしかめて口と鼻を手で覆ってしまった。本当は目も瞑りたいくらいだったが、それをしてはいけないと、かろうじて理性が忠告した。
 醜悪な魔物だった。大人の五倍ほどの体躯を持ち、手足は無い。体表はぐずぐずと溶ける褐色の皮膚に覆われ、地面に流れ落ちたそれが泥と混じり合って、ヘドロよりひどい悪臭をまき散らしている。
 魔物の頭と思しき位置に、ぽっかりと一つ目が開き、その下に口のような亀裂が走って、ぶおおお……と空気を震わせる雄叫びが迸った。コキトは『光弾律』の一つを上空に向けて放り投げる。信号が上空で光を放って、特務騎士の誰かに届いた事を確信すると、『火炎律』を発動させ、炎の壁を魔物に叩きつける。
 ぶおお、ぶおおおお……と。
 苦悶の声をあげる魔物の体表がぐずぐずと焼け落ちてゆく。その下から現れた『もの』を見た時、コキトは色眼鏡の下の紫の瞳をみはって、思わず立ち尽くしてしまった。
 人の顔だった。一つや二つではない。若い男、年頃の少女、屈強な男性。誰も彼もが、苦悶に満ちた顔をし、ところどころが壊死を起こして腐りかけて尚、呻き声をあげている。行方不明になっていた人々は、この魔物にこうして取り込まれて、栄養とされていたのだ。思わず視線を逸らしかけ、しかし、視界に入った見覚えのある顔に、コキトは魔物に向き直り、そして愕然とした。
 魔物の体液によってびちゃびちゃになってしまった蒼い髪。絶望に囚われたはしばみ色の瞳。決して美人とは言えないが、好意を覚えた顔を、見間違えるはずが無い。
「コキ、ト」
 濁った声が発せられ、変な位置から生えた、骨の見える手が伸ばされる。
「コロ、シテ」
 下手な感情を差し挟む事の無いコキトの理性は理解した。この魔物に取り込まれた人間は、助からない。もう、ここに見える首から下はぐちゃぐちゃに溶けて、たとえ引きはがしても、再生する事はかなわないだろう。
『アナスタシアの魔法士』としてのコキトは、それでも尚、シエラ達を救う事を望む。だが、『間に合わせの魔王』のコキトは、あくまで冷静に、哀れな被害者の苦しみをこの魔物ごと断ち切るべきだと判断する。
 目をつむりうつむいて、歯ぎしりする。葛藤は一瞬で、コキトは唇を引き結んで顔を上げると、魔律晶を三個いっぺんに取り出した。
 太鼓を叩くような音と共に『地槍律』が発動する。ぬかるみから飛び出した土の槍が、魔物を地面に縫い止める。動きを封じられ、苛立たしげに身をよじるところへ、しゃんしゃんしゃん、と鈴に似た音で『氷槍律』が襲いかかり、四方八方から魔物を貫いて、幾つかの人間の首がぼたぼた地面に落ちる。
 とどめに、弦を弾くような音と共に、『業火律』が火を噴く。周りの木々を燃やさない炎が魔物を包み込み、更なる悪臭と悲鳴を放ちながら、魔物は燃え落ちていった。
 残り火がくっきりとした陰影を作る中、コキトは魔物の周りに落ちた人間の首の間を歩く。そのほとんどは最早魔物に取り込まれかけていたせいで、半分以上が骨と化したり、見るに堪えない様を見せつけていたが、目指す首は、血に塗れながらも、いまだ在りし日の姿を保っていた。
 服が汚れるのも構わず膝をつき、恭しく両手で持ち上げると、脳があるべき部分がまだ残っているおかげか、彼女はぱちくりとまばたきをして、そして、掠れる声で、「ありがとう」と言った。その後に、まだもごもごと何かを続けたので、耳を近づけ、聞き取る。

「大好きよ、私の魔王様」

 それきり、はしばみ色の瞳から光が失われる。笑顔のまま時を止めたその首を、コキトは腕で覆い隠して、半開きのままの唇に、口づけを落とした。
 そうして考える。どこからが間違いだったのだろうかと。彼女を止めずにこの森に行かせてしまった事か。魔法士としてアナスタシアに来てしまった事か。優秀な魔法士の振りをして各地で名を挙げてしまった事か。そもそも、生まれ落ちなければ良かったのか。
「……いや」
 様々な無念の最後に、心に残ったのは、怒りだった。
 許さない。自分が生まれる原因を作った相手を。
 代打の魔王でも、やってやろうではないか。コキトは決意する。
 アルゼストをさらった魔族ユホを、必ず討つ。シエラの為にも、相打ちになってでも。
 それが、『魔王』ではなく、『魔法士』としてコキトが抱いた、ただ一つの決意であった。
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