第10章:神をほどく(6)
 頬を撫でていた手が、ぱたりと床に落ちて、二度と動かなくなった。エクリュは母の手を握り締めたまま、わなわなと全身が震えるのを抑えられずにいた。
 こんな事があって良いのか。理不尽に引き離されて。十七年の時を経て、ようやく再会が出来るはずだったのに。運命はそんな微かな希望の光さえ、無慈悲に奪い去っていった。
 事切れた母の顔を呆然と見下ろしていると、背後に『転移律』の気配が生じる。
「……エクリュ」
 アルダの声だ。振り向けば、彼は渡した服を着込んで、メイヴィスに寄りかかり、リビエラが反対側を支える形で、ようよう立っている状態だったが、『転移律』を使ったのは、父である事に相違無いだろう。
 リビエラの肩を借りたまま、ふらふらと、父はこちらに向けて歩いてくる。そして、崩れ落ちるようにエクリュの傍らに膝をつくと、シズナの身体を抱き起こし、愛おしむように頬を撫で、薄く開いたままの唇に口づけて。
「シズナ……!」
 血を吐くような声で、愛する者の名を呼んだ。
 誰もが、呼びかける事が出来ずに、沈黙が落ちる。ミサクが立ち尽くしたまま顔をそむける。キラが宙を仰ぎ、システは無感動を装っていたが、胸の前で組んだ手が僅かに震えている。リビエラが両目からぶわりと涙を溢れ出させて、隣に来ていたロジカの肩にすがりつく。生きて言葉を交わす事がかなわなかった両親を、ただただ見つめるばかりのエクリュに、虎のままのメイヴィスがそっと寄り添って、温かい毛皮の感触に触れた事で、自分の身体から血の気が引いている事に、今更気づいた。
 だが、更に非情な事に、悲劇の恋人達が哀しみを噛み締める時間は、残されていなかった。
『ロジカ、ロジカ! ミサクはそこにいるかい!?』
 静寂を破ったのは、ロジカの持つ『通信律』から発せられたユージンの声だった。えらく切羽詰まっている様子だったので、ミサクが何とか気を取り直してロジカから『通信律』を受け取り、努めて平静を装った声で、「どうした」と訊ねる。すると、通信の向こうの女性は、驚くべき話を告げた。曰く。
『データを観測してたんだけどね。もうすぐ空から、この魔王城を消し飛ばすほどの光線が降る』
 その言葉に、悲観的な空気は吹き飛んで、緊迫感が満ちる。
「もうすぐとは、具体的にわかるか」
『十五分後』
 エクリュ達はぎょっと目をみはった。十五分では、来た道を全力で逆走しても、ユージンのいる飛行艇まで戻る事も難しいだろう。
「デウス・エクス・マキナが消滅した事で、『神光律じんこうりつ』が目覚めたんだ」
 誰もが愕然とする中、アルダが口を開く。
「『機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナ』の消滅は、勇者と魔王による感情蒐集の失敗を意味する。計画が破綻した時点で、天空の要塞である『神光律』が作動して、まずは魔王城を消し、その後一日を置いて、シュレンダイン大陸全土を焼き払うように、千年前から仕込まれていた」
『神光律』。大陸を滅する規模の空中要塞が千年前から存在していたのか。誰もが続けるべき言葉を失う中、ミサクが口を開く。
「『神光律』を止める方法はあるのか」
「直接乗り込んで制御を叩き、強制的に機能を停止させるしか無い」
「成程」アルダの答えに、システがうなずいた。「それを見越して、飛行艇の製作を行っていたのですね。神が、自身に不利になる行動を起こした事は不可解ですが」
「恐らく母上の、いや、勇者シズナの意識が、無自覚の内に発動したものと推測する」
「そんな呑気してやがる場合じゃないでしょうに! このままじゃあ、わたくし達、この城と一緒に消し飛ぶんですのよ!?」
 ロジカが顎に手をやり冷静に分析するのをリビエラがどやす。確かに、状況は何一つ好転していない。神を気取る光に焼かれるのを、右往左往しながら待つばかりだ。
 しかし、希望の光は残されていた。
「『転移律』なら、俺が使える。それで飛行艇まで辿り着けるだろう」
 アルダがきっぱりと言い切った事で、皆が一様に安堵の息をつく。魔王である彼の魔力をもってすれば、この人数を一瞬にして転移させる事も可能だろう。
「ありがとう、とうさん」エクリュはほのかに笑んで、父の腕を取る。「行こう」
 だが。
 父はその場から動かなかった。「いや」と、ゆるゆる首を横に振る。
「俺はここに残る。お前達だけで行け」
 その言葉に、エクリュは吃驚きっきょうで目を見開いてしまった。ここに残れば、待っているのは、骨の欠片ひとつ残さない終焉だけだ。
「なんで!?」
 エクリュはまるで玩具を欲しがる子供がそうするかのように、父の腕を引っ張ってぶんぶんと振る。すると、アルダは娘の顔を見上げて、虚ろに微笑んだ。
「俺の耐用年数の話は知っているんだろう? それに、一度死んで『留魂律』で命を繋がれている身だ。どうせあと少ししか生きられない。ならばこのまま、シズナと一緒にいさせてくれ」
「馬鹿を言うな!」
 ミサクが激昂し、アルダの胸倉を乱暴につかんで揺する。
「ならば、俺の生きてきた十七年間はどうなる!? お前達を探して、お前達が生きた証を一つでも取り戻そうとしたのに、結局何も残せないままにする気か!?」
 それでも、アルダは動じなかった。ふっと口元を緩めて、ミサクの手首をつかんで退けると、
「残るさ」
 はっきりと言い放ち、エクリュの方を向く。
「エクリュ。お前自身が、俺とシズナが生きて、愛し合った証だ」
 それを聞いた瞬間、エクリュの両目から熱いものが溢れ出し、頬を伝った。『名無し』として空っぽの生を送ってきたと思った。だが父は今、エクリュの存在を、心から肯定してくれたのだ。流れるものもそのままにしゃくりあげると、ぽん、と頭に父の手が乗せられ、撫で回してくれる。
「生きろ、エクリュ」父の言葉が胸を打つ。「人として」
 その直後、『転移律』の光が複数生じ、エクリュ達を包み込む。
「とうさん、かあさん」
 深淵の間の光景が消える直前、両親を呼ぶ。
 最後に見た父は、魔王の肩書きを持っていた男とは思えないほどに、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。

「おわあ!?」
 次の瞬間、エクリュの鼓膜を叩いたのは、ユージンの驚き声だった。はっと気づけば、そこはもう闇深い深淵の間ではなく、飛行艇の操縦室の中であった。アルダとシズナ以外の全員が揃っている。
「よく戻ってこられたね!?」
「その辺りについては、落ち着いてから説明する」
 目を白黒させる魔族の肩を叩いて、ミサクが前方の壁を見すえた。
「出られるか」
「任せなよ。ってか、『駆動律』が大体やってくれるんだけど」
 ユージンがこきぽきと拳を鳴らして、操縦桿を握る。
「まずはこの壁を、搭載された『雷撃律』の砲で、ぶち抜く!」
「何でもいい、時間が無い! ぶち抜きでもぶち壊しでもやってくれ!」
 ミサクが珍しく、やけっぱちになった様子で、声を荒げた。

 もうすぐ『神光律』の一撃が降ってくるだろう。娘達は無事に飛び立てただろうか。
 他に動く者のいなくなった深淵の間で、アルダは宙を仰ぎ、それから、腕の中に収めた少女に視線を戻して、「シズナ」と、ささめくように語りかけた。
「懐かしいな。君と一緒に草原を駆け回った日々が」
 死を前にして思い出すのは、勇者と魔王に分かたれて、絶望に堕ちた経験ではなく、何も知らずに希望溢れる未来を信じていた、子供の頃だ。
「約束したよな。いつか、村を出て、大きな街で店を開いて暮らそうって」
 生憎店を開く事はかなわなかったが、こうして村を出る事は出来た。いつか故郷の誰かが、『外の世界は争いだらけで、幸せな事は何も無いよ』と言っていた。たしかに、世界は争いに満ちていた。哀しみも味わった。だが、誰よりも愛しい相手と、離れ離れになっても、いや、離れ離れになったからこそ、改めて想いを確かめ合う事が出来た。それで満足だ。
「シズナ」
 もう開かれる事の無いまぶたを指でなぞり、血に汚れて額に張りついた前髪を払ってやって、万感の思いを込めて、最後の告白をする。
「君を愛してる。永遠に、君だけを」
 瞳を閉じ、もう一度口づけを降らせて。
 そのまま、彼も動かなくなった。

 魔王城を臨む地に住む人々は、その日、見た。
 夕暮れ前なのに、突然空が真夜中のように暗くなり、天上から、闇を裂いて一条の太い光線が降り注ぐのを。それは魔王城を直撃し、光の中に溶けるように、消し飛ばしていった。
 誰もがそれに驚愕していたので、直前に、魔王城の壁の一角が崩れて、白い鳥のような機体が飛び去った事に気づいた者は、ほとんどいなかったという。
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