第10章:神をほどく(5)
 離れた場所にユホ=デウス・エクス・マキナ――否、デウス・エクス・マキナから切り離されてただのユホに戻った魔女が落下し、金属がひしゃげる音がする。だが今、エクリュの脳内を占めているのは、外道の敵よりも、デウス・エクス・マキナ、『複製律』の事だった。
「かあさん!」
『複製律』は四分の一ほどが砕け散り、中に満ちていた紫の液体が溢れ出している。だが、そこに囚われたシズナを引きずり出すには、彼女に絡みついた線が邪魔をして、かなわない。
「エクリュ」
 どうすれば良いか。逡巡するエクリュに向けて、ミサクが聖剣『フォルティス』と魔剣『オディウム』、二振りを同時に差し出した。
「聖剣と魔剣は、二振りが揃った時に初めて、デウス・エクス・マキナを停止させる神剣『イデア』として機能します」
 システが厳かに告げる。
「エクリュ。聖剣の勇者と魔剣の魔王、両方の血を引く貴女ならば、神剣を目覚めさせる事が可能であると、わたしは信じます」
 信じる。システがエクリュを信用に値すると言ってくれた。ただそれだけだが、いつも淡泊な態度を取っていた彼女がそんな事を言ってくれたという事実に、胸のあたりがくすぐったくなる。苦笑しながら、聖剣と魔剣を受け取った時。
「させない……させないよおお……!」
 耳障りな金属音を立てながら、床を這いずってこちらに向かってくる気配がして、一同はそちらを振り向いた。ユホだ。高所から落下して、機械の身体も、顔の半分もずたずたになりながら、千年を生きた魔女は尚も執念深く迫ってくる。
「エクリュはデウス・エクス・マキナを」
「こういう馬鹿の掃除は、俺様達に任せときなって」
 ミサクが銃を持ってユホを睨みつけ、キラが闊達に笑って大剣を構え直し、二人はユホのもとへと歩み寄ってゆく。
「くたばれ、人間……! あたしの邪魔をする奴は……どいつもこいつも……!」
「くたばるのはてめえだよ」
 金の瞳をぎらつかせるユホに向け、キラが大剣を振り下ろし、
「今度こそ消えろ、下種が」
 ミサクが三度、引鉄(ひきがね)を引く。深淵の間に絶叫が響き渡り、尾を引いて、やがて消えた。
 それを後目に、エクリュは聖剣と魔剣を手に、目を閉じた。
 そして願う。母を救いたいと。神に支配される世界を終わりにしたい、などと大仰な事は言わない。ただ、母と言葉を交わしたい。その為に自分の血が役に立つのなら、いくらでもくれてやる、と。
 その瞬間、『フォルティス』と『オディウム』が同時に光を放った。思わず、閉じていた目を開いて見つめると、青でもなく、赤でもない、純白の輝きが二振りを包んでいる。それがエクリュの手を離れて宙に浮かび上がったかと思うと、つがいの鳥が歌うかのようにくるくると舞い、やがて一つに融け合う。
 聖剣と魔剣に果てしなく近い形状を持つ、しかし、放つ白い光は『フォルティス』と『オディウム』より遙かに神聖で美しい剣が、ゆっくりとエクリュの眼前に降りてくる。これが神を解く剣、神剣『イデア』か。
 手を伸ばす。握った柄は、まるで初めからエクリュを主として待っていたかのように、指に馴染む。
 神剣を手に、エクリュは『複製律』の前に立つ。『イデア』の光に圧されて、波が引くかのように、シズナに絡みついていた線が離れてゆく。
 神剣を、振り下ろす。白い刃を呑み込んだ『複製律』は、一瞬にして灰色に変色し、しゃりいいいん……と、甲高い音を立てて、完全に砕け散った。同時に、蠢いていた線が動きを止め、回りの画面も次々と機能を停止して暗くなってゆく。
「かあさん!」
 システが『燈火律』を灯した中、エクリュは『イデア』を鞘に収め、母の身体にすがりついた。ユホに繋がれていた身体は傷だらけで血に塗れ、毒も浴びて、口から赤いものを溢れさせている。
「……シズナ」
 ミサクが傍らに膝をついて『解毒律』を施したが、青白い顔に血の気が戻る様子は無い。
 生命の刻限が迫っている。その場にいる誰もが、理解する。
 どうすれば良いのか。混乱の渦に陥りかけたエクリュの脇を、虎に化身したままのメイヴィスが疾風のように駆け抜けて、エレベータに乗り込んでいった。それでエクリュは少年の意図を悟り、閉じられたエレベータの扉から、母に向き直る。
 今は彼を信じるかしかない。どうか、母の命の灯火が消える前に間に合うように。目が潤むのもそのままに、切実に願いながら、横たわる母に呼びけかた。
「かあさん、かあさん。もうすぐ、とうさんが来るから!」

 とうさん。
 かあさん。
 目の前の少女はそう言った。
 では、この子が。今にも闇に落ちそうな朦朧とした意識の中、シズナは確信する。
 アルダと同じ紫の髪。生まれた時に見る事がかなわなかった瞳の色は、自分と同じ碧。自分と愛しい人の特徴を、しっかり半分ずつ受け継いでくれたのだ。
 ああ、と血の味をした吐息が洩れる。
 エクリュだ。あの日奪われた娘が、こんなにも立派になって、自分を救いにきてくれたのだ。
「かあさん」
 娘が自分の手を握ってくれる。温かい。いや、自分の手が冷え切っているのだろうか。
「かあさん、とうさんが、すぐ来るから、だから」
 わかっている。自分の身体はもうもたない。生命は流れ落ちてゆくと。
 自分が何をしたかもわかっている。自由にならぬ身だったと言い訳をする事も出来ないほどに、世界を混乱に陥れた。そんな罪深い自分が、最後に娘の顔を見られた。声も聞けた。もう、それだけで充分だ。
「シズナ」
 静かに名を呼ぶ声に聞き覚えがあって、そちらに視線だけを動かす。銀髪に青い瞳。随分と大人びてしまったが、帯びる静謐な雰囲気、向けられる誠意は、かつての少年そのままだ。
「ミサク」
 名を呼ぶと、彼が少しだけ驚いたように目をみはる。
「エクリュを、助けてくれて、ありがとう」
 その言葉に、彼はくしゃりと顔を歪めて僅かに笑み、それから、唇を噛み締めて、面を伏せた。
「エクリュ……」
 娘に視線を戻し、震える手で、その頬に触れる。自分に似た顔が、何だかくすぐったい。笑おうとしたが、頬の筋肉にすら力が入らず、代わりに、涙と血が零れた。
「一緒にいて、あげられなくて、ごめんね」
 ぶんぶんと、娘が首を横に振る。それだけで、許された気持ちになった。
「アルダと、貴女と」
 声が掠れる。言葉を紡ぎ出す事すら難しくなる。
「帰り、たかった。あの村へ。あの、日々へ」
 まぶたを閉じれば、かつて夢想した風景が浮かぶ。
 走り回る娘を、あの人と肩を寄せ合って見守って。成長してゆく姿を見届けて。そうして、穏やかに老いてゆきたかった。
 あの幸せだった日常から、自分達はなんて遠くまで来てしまったのだろう。それでも。
(……アルダ)
 今も鮮烈に、紫の髪と瞳を持つ、あの人の笑顔を思い描ける。
 アルダ。
 愛していた。
 今も、愛している。
 その想いを最後にして。
 シズナの意識は、永遠の地へと旅立っていった。
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