第9章:帰ってきた勇者(1)
 窓から見える空は赤から藍色へ移りゆき、夕暮れ時の終わりを告げている。
 遠くで静かに波が打ち寄せる音もする。この世に生み出された時に聞いた、円筒の中の水が引いてゆく音に似ている。
 いや、比較対象の範囲が違いすぎる。秩序システムにのっとる自分システにあるまじき思考だ。
 そう考えながら、システは長の部屋の扉をそっと押し開いた。
 椅子に座り、テーブルの上に組んだ手に額を押しつけて、ぶつぶつ何かを呟いている青年の背中は、自分より遙かに広いはずなのに、今はひどく小さく見える。一日二日で大きさが変わるはずも無いのに、理不尽だ。
 昨日今日だけで理解しがたい事象に相次いで襲われ、自分の心も揺らいでいる。
「キラ」
 声をかけると、青年の肩がびくりと揺れ、のろのろと頭を上げて、こちらを振り返った。覇気のあるオルハ族の若長の威厳はどこへやら、黒の瞳に気迫は無く、憔悴した顔をしている。
「ああ、あんたか」
 青年がゆるく笑う。その笑みさえ虚ろで、無理矢理作り上げたものである事がひしひしと伝わる。それが、自分の過失で彼の片腕を奪ってしまった結果なのだと思えば、心臓のあたりがしくしくと痛んだ。
 ゆっくりと、彼のもとへ歩み寄る。過失に対する責任を取るのは、自然の理だ。システはここに来るまでに考えた責任の取り方を、唇から爪弾いた。
「わたしを妻にしてください」
 途端、青年の瞳が驚きに見開かれ、しばしの沈黙が部屋の中を支配する。
「……あんた」
 彼が真顔で問いかけてくる。
「意味わかって言ってる?」
「はい」
 それが自分が今、彼に出来る唯一の償いだ。躊躇いもせずに、システはしっかりとうなずいた。
 青年が無言で椅子から立ち上がる。向かい合うと見上げる形になる彼の顔をじっと見つめれば、日に焼けた手がくいと顎を上向けさせる。そっと目を閉じれば、唇にかさかさした感触が触れた。それが頬を辿り、首筋に小さな熱を刻む。知識にはあるが、未知の経験に、心拍数が上がるのを感じた時。
「ウラァ!!」
 唇が離れ、雄叫びと共に打撃音が聞こえたので、システは目を開き、そして唖然としてしまった。キラの頬に、彼自身の拳がめり込んでいる。
「甘っちょろい!!」
 言うが早いか今度はテーブルを振り返り、その角にがんがんと額を打ちつける。システに『回復律』は使えないのだから、そんなふうに突然自傷をされても困るのだが。止め時がわからなくてその場に立ち尽くしていると、「ふい~」と深く息を吐きながら、キラがようよう顔を上げた。血こそ出ていないが、額に真っ赤な痕がついている。
「駄目」大きな手をシステの両肩に置き、彼はぶんぶん首を横に振る。「それは駄目」
 一体何が駄目なのだろうか。紫の瞳をしばたたくと、青年が殊更深い溜息をついた。
「慰めようとしてくれたのはほんっとうに嬉しいけど、あんたの選んだやり方は間違ってて駄目だし、それにすがろうとした俺はもっと駄目」
 その声色は、いつもの軽い調子からは到底かけ離れていたが、先程までの固さは少し和らいだような気がする。
「俺が落ち込んでたのは、カッシェが死んだって事実よりも、助かったのがあんたで良かったって思っちまった事に対する自己嫌悪なの」
「自己嫌悪、ですか」
「そう」
 おうむ返しにすると、彼は白い歯を見せて、だがまだどこか寂しそうに、軽く笑む。
「いつまでもめそめそ泣いてたら、あいつに顔向け出来ねえし、オルハの長として失格だ。もう少ししたら、立ち直るから。だから」
 その表情がくしゃりと歪んで、彼の頭が肩にのしかかってくる。
「ごめん。やっぱちょっと頭撫でてもらってもいい?」
 くぐもった声が、懇願しているように聞こえて、システは「はい」と答えると、彼の赤茶の髪に指を絡めて、くしゃくしゃと撫で回す。南方の日差しを浴びた彼の髪は、自分のそれとは違って、ぱさぱさして固いが、不思議と不快さを感じるものではない。
 小さな嗚咽だけがその場に降り注ぐ。部屋に射し込む紅の夕日の名残が、二人の影を床に照らし出していた。

『回復律』の青い光が、ロジカの胸に吸い込まれる。
「これで大分楽になったと思うのですけれど?」
「ああ」
 リビエラが問いかけると、寝台の上に半身を起こした少年は、まっすぐにこちらを見つめて、深くうなずいた後、深々と頭を下げた。
「ロジカはいつもリビエラに助けられている。感謝する」
「べ、別に、いつもって訳じゃあないでしょうに」
 他意を含まない視線を向けられると、照れ臭いのと、相手の鈍感が過ぎて腹立たしいのとが入り混じって、いつも以上に素直に物を言う事が出来ない。視線を宙に馳せ、何とか沈黙に陥らないように話題を探して、リビエラは一つの疑問に行き当たった。
「この際だからお訊きしますけれど」
 向き直ると、ロジカがきょとんと目をしばたたいた。興味本位が大きいが、友人の人生に関わる事でもある。真剣な表情で問いかけた。
「貴方がた、神に造られた存在は、寿命が短いと言いましたわよね」
「相違無い」
「では、その子供はどうなるんですの? やはり短命でして?」
 リビエラの脳裏に浮かぶのは、エクリュの姿だ。三十年しか身体機能を維持出来ない魔王の娘であるならば、その性質を引き継いでいてもおかしくはない。もし彼女も父親と寿命が同じならば、人生の半分以上を、人間としての尊厳すら奪われて生きた事は、あまりにも苛酷だ。きゅっと唇を噛み締めうつむいて、皺が出来そうな程にスカートを握り締めた時。
「その可能性は無い」
 ロジカが紡ぎ出した回答に、リビエラははっと顔を上げた。
「デウス・エクス・マキナに造られた者が、魔族と交われば、その子供は魔族と同等の寿命を、人間と交われば、人間と同等の寿命を得る。相手にも短命の遺伝子が無い限り、短命が遺伝する確率はゼロであると断言する」
 少年はいつもの調子のまま、淡々と語る。遺伝子という単語はよくわからないが、魔王アルダと勇者シズナの子であるエクリュは、人並みに生きる事が出来るようだ。感情を差し挟まない語り口は客観性を強調して、リビエラを安心させてくれる。深々と安堵の息をつくと。
「試行する事も出来る」
 相変わらず淡泊な声色のままロジカが言い出した事に、リビエラはぎょっと目を見開いて、彼の顔を凝視してしまった。曰く。
「ロジカとリビエラの子供ならば、人間の寿命になる。実際に確認を必要とするか」
「――ハァ!?」
 素っ頓狂な声が自分の喉の奥から放たれるのを、リビエラは止める事が出来なかった。途端に首から上が熱くなり、心臓がばくばく言い始める。果たしてこの少年は、その意味をわかって言っているのか。
「あ、あのですね」
 きょときょとと落ち着き無く周囲を見回し、手を揉みながら、リビエラは続く台詞を必死に吐き出す。
「あ、あなたね、わ、わかっていますの? そういうのって、好意を抱く相手同士が、する事なんですのよ?」
「リビエラはロジカに好意を抱いていると推察するが」
 爆弾発言に、顔から火を噴きそうになった。何だそれは。人間の感情など知らないという態をして、こちらの想いは筒抜けだったのか。
「ロジカの誤認か」
「ああ、もう……そうじゃない、そうじゃないですけどね!」
 恥ずかしすぎて相手を直視出来ない。『混合律』の杖に寄りかかって、ひっくり返らないようにしながら、鬱屈した思いを呪いのように吐き出す。
「どうせ貴方は、わたくしの事なんて、どうとも思っていやがらないでしょうに」
「ロジカはリビエラに好意を抱いているが」
「ハァァァァァ!?」
 二度目の叫びが迸った。人間としてもうこれ以上は無いだろうという程に真っ赤になった顔を上げれば、紫の瞳はじっとこちらを見つめている。
 どうせかなわない想いだと信じ込んでいた。所詮『機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナ』の子供に、感情が届く事は無いと思っていた。その相手が今、自分に好意を抱いていると言う。夢ではないかと手の甲をつねったが、きちんと痛みが返ってきた。期待をかけても良いのだろうか。耳の奥でうるさく騒ぐ鼓動の音を必死に抑えようと深呼吸していると。
「姉上にも好意を覚える」
 少年は平然とした様子で先を続けた。
「システも、メイヴィスも、キラも。好意に値する存在だと認識している」
 その途端、リビエラの顔からすっと熱が引いていった。大騒ぎしていた心臓が、急に平静を取り戻す。つまり彼にとっての『好意』というものは、普遍的な好悪なのか。それに気づくと、代わりに湧いてくるのは、怒りだった。
「……もういい」
 恐ろしく低い声が、自分の口から洩れる。
「貴方もうほんとどうでもいいってんですのよ、このアンポンタン!!」
 勢い良く杖の先端で少年の額をどつくと、リビエラは椅子を蹴るように立ち上がって、大股に部屋を出てゆく。
「……あんぽんたん」
 後に残されたロジカが、赤くなった額をさすりながら、不思議そうに首を傾げたのを、置き去りにして。
「ロジカの語彙知識に、該当する単語は無い」
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