第6章:彷徨える海域(4)
 移動自体はそこまで苦ではなかった。事前にメイヴィスが見てきた道を通るだけなら、床板を踏み抜く事も無く、水に浸からねばならぬ場所は、システが事前に答えた通り『大気律』の泡に荷物を放り込んで、海水に濡れないように運びながら泳ぐ。ベルカ育ちで泳ぎ方を知らないエクリュは、「とりあえず、これ」とメイヴィスが教えてくれた犬かきで必死に水面を叩きながら進んだ。
 だが、苦にならなかったのは、あくまで移動の話である。
 船の墓場は、難破船の集う場所だけあって、時を経て、波に洗われ既に白骨化した死体がところどころに横たわっていた。その脇を通り抜けようとした途端、白骨を黒いもやのようなものが覆い、落ち窪んだ眼窩に光が宿って、むくりと起き上がったかと思うと、けたけたけた、と笑い声のように顎骨を鳴らしながら、生前手にしていたのであろう剣を構えて、こちらに向かってきたのである。
 咄嗟にリビエラが『勇猛律』でエクリュとメイヴィスを強化し、二人は武器を鞘から抜いて骸骨の腕を切り飛ばし、ロジカとシステが『火炎律』や『氷槍律』を使って、焼き払い、頭蓋を砕くと、彼らはあっという間に灰になって崩れ落ちた。が、敵は一体二体だけでは終わらず、周囲の白骨死体が次々と起き上がって迫りくる。
 更には、ひゅおおお……と情けなく笛を吹くような音を立てながら、ぼんやりと白い影があちこちから集まってきた。それはよくよく見ると、頬のこけた人の顔をしていて、ぼそぼそと何か呪詛じみた言葉を吐きながら、こちらに向かってくる。
 メイヴィスが骸骨の相手をする中、エクリュは人面の亡霊に向かって剣を振り下ろすが、刃はすかっと空気を裂くばかりで、敵に有効打を与えた気配は無い。
「姉上、霊魂に実体武器は効かない。魔法で対抗するのが適切と判断する」
 ロジカがエクリュの前に進み出て、『烈光律』を発動させる。実体の無い相手には実体の無い攻撃。金属がぶつかり合うような高い音を立てて、白い光の矢が幾つも亡霊に突き刺さり、敵は恨めしげな声を発しながら煙のように宙に溶けた。
 だが、この場に漂う無念の数は相当なものらしい。骸骨も亡霊も次から次へと現れて、際限が無い。
「逃走を提案します」
『雷撃律』で骸骨の一体を撃ち抜いたシステが、冷静さを崩さないまま言葉を発した。
「いたずらに相手をしていては、消耗するばかりです。一旦撒いて、態勢を立て直す事が適切かと思います」
 それは誰もが思っていた事だ。エクリュは周囲を見渡し、朽ちていない船室への扉を見出すと、「あっちだ!」と全員に聞こえるよう声を高めて指差し、ぎちい、と鳴るほどに床板を大きく蹴って走り出した。メイヴィス達も後からついてくるのを、気配で感じる。
 幸い、金属製の扉に鍵はかかっていなくて、少々錆は浮いているもののがたついてもおらず、ノブを回すだけで簡単に開いた。五人が中に飛び込むと、殿しんがりのロジカが扉を閉めて『氷結律』でドアノブを固めて即興の鍵と成す。扉の向こうから、がんがんと叩く音と怨嗟の声が聞こえてきたが、暗がりに息を潜めてじっとしていると、向こうも諦めたのか、音が止み、気配が遠ざかっていった。
 当面の危機が去った事に、五人は一様に息を吐いてその場にへたり込む。
「まったく、何なんですの、ここは!?」
 リビエラの悲鳴じみた叫びが、闇に空しく吸い込まれて消える。一旦とはいえ緊張の糸が解けた事で、今度は怒りがわいてきてしまったらしい。
「メイヴィス! 何でここまで調べてきやがらなかったんですのよ!」
 怒鳴りつけられた少年は、げっそりした表情で「……ごめん」と消え入りそうな声を発した。
 とはいえ、リビエラも、まさか幽霊が出るなどと偵察でわかるはずもなかった、八つ当たりだと自覚しているのだろう。「べ、別に謝られたい訳ではありませんのよ」と小さく爪弾くように呟き、『混合律』の杖を抱き締めたまま、壁に背を預けて黙り込んでしまった。
 システが『燈火律』で室内を照らす。小さなテーブルと箪笥、そして二人分の簡易ベッドがあるばかりの、何の変哲も無い部屋だが、一休みする事は出来そうだ。そう気づいた瞬間、エクリュの腹がぎゅるるる、と音を立てた。途端に、皆の視線が集中する。
「エクリュ、元気だね……」
「貴女、燃費が悪いのではなくて?」
「栄養補給は、出来る時にしておいた方が良い」
 メイヴィスが苦笑し、リビエラが呆れきった様子で息を吐き出して、ロジカが荷物からショートブレッドを取り出す。正直なところ、保存食は美味いものではないが、栄養になる事は間違い無い。エクリュは差し出されたそれを受け取り、袋を開けて、むしゃむしゃとかじり始めた。
 その間に、システは立ち上がり、箪笥の引き出しを開けて、中を覗いている。役に立つ物が無いか、吟味しているのだろう。だが、黴臭いにおいがエクリュ達の鼻にも届くばかりで、使えそうな逸品は見出せなかったらしい。彼女にしては珍しく、苛立ちを含んだ溜息を吐きながら、最下段の引き出しを閉めた。
 エクリュがショートブレッドを食べ終わって、口の端についたかすを指で拭い、その指をぺろぺろなめて、リビエラに「はしたない」と釘を刺される。メイヴィスがちらりとそれを見やってから、閉ざされた扉を指差した。
「本当は、この船の先端から隣の船へ移っていけそうだったんだけど。またあのお化けの大群に出くわすと思うと、ちょっと無理かな」
 ロジカが『氷結律』で凍らせたドアノブは、少しずつ氷が溶け始め、この休憩時間に限りがある事をまざまざと見せつける。エクリュはシュレンダイン大陸に格別な思い入れがある訳ではないが、故郷から遠く離れた海上で、誰にも知られずに亡霊の餌食になるか、無様に干上がってゆくのは、流石に嫌だ。溜息をついてふっと視線を横に滑らせた時、視界に入ってきた存在に、エクリュははっと目を見開いて再度そちらを向いた。
 いつの間にか、船室の端に、見知らぬ青年が立っていた。青年と呼ぶにはまだ少し若いかもしれない。だが、エクリュの驚きはそこには無かった。彼は先程の亡霊のように、半透明に霞んでいたが、その髪と瞳の色はたしかに、エクリュの髪と同じ紫色をしていた。
「エクリュ?」メイヴィスが怪訝そうに声をかけてくる。「どうしたの」
「そこ」「え?」
 青年を指差しても、少年は首をひねるばかり。
「えっ、やだ、何ですの? エクリュ貴女、何が見えてるんですのよ」
 リビエラが青い顔をして縮こまる。ロジカとシステもぱちくりと瞬きをしている。どうやら、彼の事が見えているのは、自分だけのようだ。
『エクリュ』
 青年の唇が、たしかにそう動いて、薄く笑った。そして、ふっと背を向け、歩くのではなく、滑るように船室の闇に消えてゆく。目を凝らすと、彼が消えた方向にも、奥に続く扉があるのが見えた。
 立ち上がって、扉を開ける。先は真っ暗で、試しに片足だけを差し出すと、靴底にぴちゃりと海水が触れる感触はあったが、すぐに床板を踏み締めたので、先へ進む事が出来そうだ。
 闇の先で、青年がこちらを向いて佇んでいる姿が、明かりも無いのに見える。
 案内してくれる、という事だろうか。
「そちらにも道があったのですね。暗がりで気づきませんでした」
 システが感心したふうに、顎に手を当て三つ編みを揺らし、
「ちょっと、何を呑気に言ってやがりますの。エクリュ、お腹が空きすぎて変なもの見えてるんじゃあありませんの」
 リビエラが完全に怯えた様子でこちらを睨む。
 だがエクリュは、青年が、この船にはびこる亡霊達とは一線を画す存在である事を、理屈ではなく直感で確信していた。彼は、決して自分達を騙さない。恐れさせようとか、陥れようとかしているのではない、助けようとしてくれているのだ。
 信じよう、彼を。
「行こう」
 荷物を取りに戻って、肩に担ぐ。最初に「わかった」と応じてくれたのはメイヴィスで、システは無言で続く。
「やだちょっと。得体の知れない何かについていって、余計大変な目にあったらどうしますの」
 リビエラは最後まで駄々をこねていたが、
「リビエラの恐怖は理解出来ないが、再び何らかの脅威に出会った場合は、ロジカがリビエラを最優先に守る事を約束する。それでは駄目か」
 と、ロジカが彼女の顔を覗き込んでしれっと言い放ち、リビエラは途端に顔を真っ赤にした。
「べ、別に、貴方に守ってもらわなくても、自分の身は自分で何とかしますわよ……」
 彼女はぼそぼそ言いながら立ち上がり、スカートの裾を払うと、「大体ね!」と少年に詰め寄る。
「き、恐怖なんかしてませんからね! こういう場所では、訳のわかんない奴に対しては慎重になるべきだって言いたかったんですのよ!」
 すると、ロジカはきょとんと目をみはり、「その意見には同意出来る」と前置きした上で続けた。
「だが、姉上が信用したのだ。姉上の直感は、時に失敗もするが、ロジカやシステの判断を上回る正しさの割合が多い事を学んだ。頼るに値する」
 何だか軽くけなされた気もするが、最終的には褒められたようだ。リビエラも反撃の糸口を見失って黙り込んでいるので、ここはエクリュの意見を貫いて良いらしい。
 システが『燈火律』の明かりをエクリュの前方に移動させてくれると、少しだけ浸水した廊下が奥まで伸びているのが見える。エクリュ達がついてゆく事を決意したのがわかったのか、半透明の青年は、やはり歩く様子を見せず、少し床から浮いた状態で、すうっと廊下を滑ってゆく。その後を追って、エクリュは足を踏み出した。
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