第5章:理性の秩序《システ》(2)
 石鹸を一生懸命泡立てて身体を洗っても、鼻の奥にこびりついた血のにおいは取れる事が無かった。それが、自分の意志ではなかったとはいえ、戦いでもない場所で、敵ではない誰かの命を奪ってしまった事実をまざまざと思い知らされるようで、エクリュの胸はしくしくと痛んだ。
 とはいえ、精神の疲労に胃は連動しないのだろうか。風呂を出て服を着た途端、ぐうう、と腹が恨めしげな唸り声をあげた。
 食堂兼台所ダイニングキッチンに行けば、何か残り物があるだろうか。『火炎律』を使えば焦がしてしまうが、『加温律』で温める程度ならば、自分でも失敗しないだろう。そう思いつつ廊下を歩いて食堂の扉を開けた時、この十数日間で知った、小麦粉を使った菓子が焼ける時の香りがふうわりと漂ってきて、空腹が更に刺激された。
 台所に明かりがついている。そこに立つ後ろ姿は、もう見慣れた。メイヴィスだ。少年はエクリュの気配に気づくと、つとこちらを振り返り、「あ、ああ、エクリュ」とぎこちない笑みを見せた。
「夕ごはん食べてないから、お腹すいてるでしょ。少し要らない?」
 とことこと彼のもとへ近づいてゆけば、香ばしく焼き上がったスコーンが皿の上に積まれていた。プレーン、チョコチップ、ブルーベリー、紅茶、胡桃、色んな種類が、それはもう、こんもりと山盛りに。それだけにとどまらず、『火炎律』の上に置いたフライパンの中で焼き上がってゆく続きがある。
「何か、つい作り過ぎちゃってさ」
 メイヴィスの声は努めて明るく振る舞おうとしているが、目が笑っていない。視線もどこを見ているのかよくわからず、半ば自動人形のように焼き上がったスコーンを手に取っては皿に積んでゆく。その中の一つが、ころりと転がって床に落ちた。
 エクリュは身を屈めてそれを拾い上げると、そのまま口に運ぶ。まだ温かくてふわふわしているスコーン自体の小麦粉の甘味と、練り込まれたブルーベリーの酸味が相まって、得も言われぬ協奏曲を奏で、空っぽだった胃に温かく滑り落ちてゆく。
 あっという間に一個を平らげ、感想は素直に口を衝いて出た。
「美味いな」
 それを聞いたメイヴィスの橙色の瞳が、いきなり現実に帰ってきたかのように光を帯びた。のろのろとこちらを向き、目を見開いて、何かを言おうとして息を吸うが、上手くいかないらしく、ひゅうひゅうと変な呼気が洩れる。一体どうしたのか。エクリュが小首を傾げると。
「……ミサクも」
 蚊の鳴くような声が、耳に届いた。
「ミサクも、オレが作るスコーンを、いつも『美味い』って言って食べてくれた」
 直後、エクリュはがばりと両肩をつかまれた。
「ミサクは!」
 少年が取りすがるように面を伏せ、血を吐きそうな声で叫ぶ。
「オレを嫌ってなんかいなかった! きちんと家族として見てくれてた! オレが勝手に嫌われてると思い込んで、線引きをして、距離を置いたんだ!」
 着替えたばかりの服の、胸の辺りが湿ってゆく。メイヴィスの涙のせいだとわかったのは、顔を上げた彼の顔がぐしゃぐしゃに濡れていたからだった。
「もう、取り戻せない! 謝る事も、やり直す事も出来ない! ミサクは、もういないから!」
 千切れた思いを爆発させたその後はもう言葉にならず、嗚咽が洩れる。こんな時、どうすれば良いのかエクリュにはわからない。どうすれば良いか知らない。ただ、思いつくままに、少年の肩に両手を回し、引き寄せる。メイヴィスが溺れかけた子供のようにしがみついて、更なる慟哭を迸らせる。
『せめて君には叔父らしい事を、これからも色々とさせてくれ』
 彼はそう言った。だのに、その言葉を果たせないまま逝ってしまった。全ては自分のせいだ。
 目の奥が熱を帯びる。だが、眼球は乾いたままで、メイヴィスのように感情を水分に乗せて絞り出す事はかなわない。奴隷剣闘士として生きる間に、泣き方を忘れてしまったのだ。それでも、胸に重たく沈み込んだ後悔は、鋭い刃となってエクリュの心を抉る。
 フライパンの中に残ったスコーンが焼け過ぎて、焦げ臭いにおいを発し始める。それでも、二人は抱き合ったまま、喪失の悲しみを分かち合う事しか出来なかった。

「ちくしょう……ちくしょう、ちくしょう、ちくしょおおお……!」
 魔王城の奥、初源の間に、地を這うような呪詛の声が垂れ流される。デウス・エクス・マキナの本体である『複製律』から伸びた線に繋がれた鋼鉄の機械の中で、顔半分が金属に覆われた魔女――ユホは、ぎりぎりと唇を歪めた。
 シャンテルクで『フォルティス』を握ったミサクに叩き斬られた身体は、脳と心臓以外は機械のそれに成り代わっている為、命が途切れる危険性はほぼ無いと言って良い。だが、回路を断ち切られ、損傷した身は、デウス・エクス・マキナに『修復』してもらわないと、再び自由に動き回る事はかなわないのだ。
「また」という怒りの炎が、彼女の胸を焦がす。十七年前と同じだ。またあの特務騎士に煮え湯を飲まされた。あの澄ました顔を血みどろに潰し、四肢を引き裂いて心臓を握り潰しても、この憤怒は治まる事が無いだろう。
 そしてその憤りは、裾の長い紫のドレスを着て、平然と自分を見上げている、自分がこんな目に遭った原因の一端に向く。
「デウス・エクス・マキナ!」
 裏返った声をあげれば、かつて勇者だった少女の、感情を帯びない碧の目が、一回、瞬いた。
「何故、あたしをこんな目に遭わせた!? あんたを誰よりも助けている、誰よりも優秀な、このあたしを!?」
 神の答えは、無表情ですっと手を掲げる事だった。魔律晶無しに『雷音律』が発動し、ユホが繋がれた線を辿って、容赦無く彼女に電流が降り注ぐ。
「ぎゃあああああああ!?」
 金属は電気を非常によく通す。魔女が白目をむいて悲鳴をあげるのを、冷めた目で見やり、「調子に乗るな」と、平坦な声が、神の口から放たれた。
「お前は飛び抜けて優秀などではない。いれば役に立つ故、傍にいる事を許しているだけ。無用になればいつでも解体して脳を潰す。重々心に刻んでおけ」
 そうして神は踵を返し、靴音を高く響かせながら、『複製律』のもとを去る。電流がおさまり、苦痛から解放されたユホは、ぜえぜえと荒い息と共に、「……ふざけんじゃあないよ」と恨み言を吐き出す。
「たまたま神の依代になった小娘が。調子に乗りやがってるのはお前じゃあないか! いつか目に物見せてやる!」
 涎を垂らしながら魔女はそう宣い、どこを見ているのか判然としない金の瞳を細めて、けてけてけて、と笑いを洩らした。

 肩までの金髪を『燈火律』に赤く照らされながら、神は広間の中を歩く。そして、複数並ぶ硝子製の円筒の一つの前で足を止め、
「……ねえ、どうして?」
 本当にわからない、といった声色で疑問を放ち、円筒に両手をつけてもたれかかった。
「どうして私達、一緒になれないの? 幸せになれないの?」
「私にはわからない」
「わからない」
「理解不能」
 その声は、不幸を嘆く哀れな少女のものから、感情を一切帯びない無機質なものへと変化してゆく。円筒の硝子に額をつけ、神となった少女は碧の瞳を目蓋の下に隠す。
 円筒の中には紫の液体が満たされ、同じ色の髪を持った誰かが、ゆらゆらと揺蕩っている。少女の呼びかけは、相手には届かない。
 そして彼女は気づかない。
 円筒の一つの陰からその様子を見ていた、紫の瞳の存在に。
 その唇が、「理解不能なのは、貴女です」と淡々とした呟きを零して、静かにその場を去った事に。
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