第3章:感情の理屈《ロジカ》(3)
 夕暮れ時の赤い光が柔らかく視界に映り込んでくる。風がカーテンを揺らす静かな音が耳に滑り込む。
 まるで母の腕に抱かれるような安心感を覚えるが、しかし身体の自由がきかない。
 それに母。母とは誰だ。ぼんやりとした意識の中、優しくこちらの名前を呼ぶ誰かがいるが、その顔はもやの向こうに霞んで見えない。あんなに愛していたはずなのに、こんなにも虚ろなのはどうしてか。
 戸惑いながら目を開くと、琥珀の瞳と視線が交わった。
「おっ、起きたね」
 白い歯を見せて相手の女性が笑う。人を安心させる笑みではあったが、しかし、恋い焦がれていた『母』では決してない。それだけはわかるが、やはり母が誰なのか思い出せない。身じろぎして初めて、自分が後ろ手に縛られて、白いベッドに寝かされている事に気づいた。
「ごめんねえ。起きるなり攻撃かまされたら、やっぱりアタシでも怖いからさ。一応用心させてもらった」
 成程、自分は彼女に危害を加えるような立場であったという事か。納得し、それから反動をつけて、ベッドの上に身を起こす。
「おっ、流石の身体能力」
 女性が興味深そうに笑って目を細めた。
「気分はどうだい? 寝てる間にちょっと色々見させてもらったけど、あんた、並の人間じゃあないね。どれかというと、エクリュに近い」
「エクリュ」
 出てきた名前を、おうむ返しのように口の中で転がす。自分は彼女に、何か大事な用事があって会いにきたはずだ。だが、その明確な理由を思い出せない。
『連れてきて。ここへ』
 そう言った誰かがいるような気がするが、それが誰だったか、いつどこで言われたか、記憶は脳内にかかった霧の中に消えて、全く手が届かない。
「ロジカ」
 ひとつ、思い出した事を唇から爪弾く。そうだ、自分の名前はロジカ。それでもやはり、それ以上の事を思い出せなくてぼんやりしていると、女性が一瞬唇を引き結んだ後、「あんた」と声をかけてきた。
「やっぱり『信仰律』の影響で、記憶障害が起きてるね」
 そう言いながら彼女は、ひびが入って砕けた紫の平べったい宝石のようなものをロジカに見せる。
「こんなもん、額なんかにつけてたら、そりゃあ脳もやられるって」
 そうか、とぼんやりする頭で納得する。どうも自分はこの『信仰律』に支配されていたせいで、過去の記憶を失ったらしい、と。
 少年の額から引き離された名残惜しさを示すかのように、差し込む夕日に照らされてきらきら輝く『信仰律』を見つめていると、部屋の扉が叩かれ、新たに四人の男女が入ってきた。
「気づいたか」
「あーうん。でも、駄目だね。やっぱり『信仰律』をつけてる間の事は忘れてるっぽい。何にも聞き出せそうにないよ」
 先頭の銀髪の男に、女性がひらひらと手を振ると、男は嘆息し、ずかずかと近づいてきて、青の瞳を鋭く細めたかと思うと、素早く銃を抜き、こちらの眉間にしっかりと照準を合わせた。
「記憶喪失を装っている可能性もあるな」
 ああ、殺されるのか、という諦念が胸に訪れる。顔も思い出せない『母』のもとへ帰る事もかなわぬまま、ここで死ぬのか。そう思うと、じわり、と岸水寄せる。こらえようと思ってもかなわず、つうっと、両目から水分が溢れ出した。男が銃を突きつけたまま、苦い物を含んだように顔をしかめる。
「ミサク。待って」
 そんな彼の腕を遮って引かせたのは、一人の少女だった。
「こいつからもう敵意は感じない。助けてやってもいいと思う」
 紫の髪が揺れ、碧の瞳がまっすぐに、ミサクと呼ばれた男を見つめている。その凛とした表情を見た途端、本能が告げた。
 彼女が、『エクリュ』、自分にとって大事な大事な『姉』だと。
「姉上」
 身を乗り出しそうとしたが、即座に銃口に押し戻される。
「やはり装っているだけか」
「違う」
 不快そうに口元を歪めるミサクにぶんぶんと首を横に振ってみせて、精一杯の今の自分の想いをぶつける。
「ロジカは過去を失った。どうやって生まれたかも、母の名も、帰る場所も、思い出せない。だが、姉上が大事な存在である事は記憶している」
「姉上、って、やっぱりあたしか?」
 エクリュが不思議そうに自分を指差す。大きくうなずき、言を継ぐ。
「ロジカはどこへ行けばいいのか、何をすればいいのかわからない。だから、姉上と共にいる。姉上を助ける。それが記憶を取り戻す為に賢明な選択だと、ロジカは思考する」
「何言ってんだかよくわかんないけど、もう敵にはならないって事だな?」
「約束する」
 口約束など、理屈に則れば、いつ反故にされてもおかしくはないものである。だが、目の前の姉は、こちらの想いを受け止めてくれたらしい。
「ミサク」隣に立つ男を見上げて、こちらに突きつけられた銃口を、静かに下ろさせる。
「縄も解いてやってくれ。こいつはもう本当に、敵対する気は無い」
 エクリュの言葉と眼力は、ミサクを説得せしめるに充分だったらしい。彼が嘆息しながら銃を収め、「リビエラ」と声をかけると、桃色の髪をした少女が、「背をお向けなさいな」とどこかつんけんした口調で指示してきたので、言われるままに背中を見せる。
「これでエクリュに何かしたら、また思いっ切りぶん殴ってやりますから、覚悟しておく事ですわね」
『また』という事は、どうやら自分は彼女にぶん殴られた経験があるらしい。花のような良い香りが鼻をくすぐるこの、一見大人しそうな少女を怒らせたのだ、余程の事だったのだろう。
「過ちは繰り返さないように努力する」
 今の思いをそのまま口にすれば、「まったく」少女が呆れ気味の吐息をつきながら、縛っていた縄を小刀で断ち切った。「じゃあ、その過ちをすすいでもらうよう、明日は責任を取って思いっ切り洗濯をしてもらいますから、覚悟していなさいな」
 言っている事は手厳しいが、決して腹の底から怒っている訳ではないというのは、声色が柔らかい事から判別出来る。自由になった両手首をさすっていると。
「とりあえず、お腹すいたでしょ。お昼ごはんの残りだけど、食べなよ」
 後方で口を挟まずに立っていた朝焼け色の瞳の少年が、盆を渡してくれた。セーレンというパンと、とうもろこしのポタージュである、というのは、最近の記憶が無くても、過去に知識として脳に入れ込んだ事らしく、すぐに認識出来た。
 外はかりかり、中はもちもちのパンを、ポタージュに浸けてから、口に運ぶ。たちまちえも言われぬ美味が口の中に広がって、
「……美味しい」
 感想は、思わず口をついて出ていた。
「メイヴィス、あたしも食べたい」
「エクリュはお昼に食べたでしょ。夕ごはんはちゃんと作るから」
 エクリュがこちらの食事を指差して少年に言うと、メイヴィスと呼ばれた少年は、嘆息しながら返す。たちまち少女の顔がぱっと輝いて、「夕ごはん!」と幼い子供のように嬉々として叫ぶ。
「何が食べたいの? 作れるものなら何でもやるよ」
「美味しいなら何でもいいぞ。お前が作る料理は何でも美味い」
 意気込んで詰め寄る少女に、少年は心持ち頬を紅潮させて、すっと視線を逸らし、「……それはどうも」とぼそりと洩らした。
「まったく、もう」
 リビエラが苦笑しながら肩をすくめてみせる。
「エクリュはすっかりメイヴィスに胃袋をつかまれましたわね」
 その言葉に、エクリュがきょとんとした顔をした。
「胃袋はつかめないぞ?」
 理屈ならそうだ。だが、それは。
「比喩ですわよ、比喩。もう、貴女は本当に冗談が通じないんですから」
 そう。世界は理屈ロジカだけでは回らない。感情というものが差し挟まれてくるのだ。
 記憶を失って空虚になっていた心に、新たに芽吹く何かを感じて、ロジカは無表情ながらも懸命にパンを頬張るのであった。
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