第3章:感情の理屈《ロジカ》(2)
 青空の下、竿に干された寝間着やシャツ、スカートが翻る。
「これで終わりですわね」
 すっかり綺麗になった洗濯物を見上げて、リビエラが満足そうに鼻を鳴らした。
 洗濯については、娼館にいた時に否が応にも押しつけられたので、手が覚えていた。とはいえ、娼婦達のきらきらしいドレスを、破かないように、飾りが取れないように、慎重に洗っていたのとは違って、「思い切り洗濯板にこすりつけて、とにかく汚れを取る!」というリビエラの大胆な指南のおかげで、遠慮無く力任せに洗う事が出来て、爽快感すら覚えたものだ。
 さわさわと。秋口の風がエクリュの頬を撫で、紫の髪を揺らしてゆく。太陽の光は、コロシアムにいた頃は、視界を遮る邪魔なもの、としか思っていなかったが、今こうして穏やかに照らされていると、このまま地面に寝転んで、昼寝――には早い時間だが――を貪りたい気がする。
「エクリュ」
 そんなこちらの心情を見抜いたかのように、リビエラが緑の目を細めてじとりと見つめてきた。
「何を考えているかは大体わかりますけどね、今日はこれからわたくしと魔法の練習。『回復律』くらいは覚えていただいてよ」
 その言葉に、エクリュも子供じみてぷうと唇を突き出す。
 練習とか訓練は、あまり好きな言葉ではない。
『噛みつく犬には、訓練だ』
 コロシアムに来た頃、剣と体術を教える名目で、いたぶるようにこちらを打ちのめしてきたザリッジに、反抗的な態度をとったり、泣いたりすれば、そう言われて、更に拳を浴びて頬を腫らした。
 ザリッジが死んだ今、もう二度とあの場所に戻される事は無いとわかっていても、嫌な記憶は、塞がりかけたかさぶたを無理矢理はがして血が溢れるように、脳裏に蘇ってくる。そして同時に、あの環境を「嫌だ」と思っている自分がいる事にも気づいて、エクリュは内心戸惑った。
 つい昨日までは、あの生活を、嫌だとか辛いとか思う事は無かった。思う暇も無いまま生きるしか無かった、という方が正しいのか。夕ごはんを食べて、眠って、朝ごはんを食べて、洗濯をして。間に危機を挟んだものの、人並の生活をした事によって、自分の置かれていた境遇の異常さに、初めて気づく事が出来たのだ。
 あの世界にはもう戻りたくない。その為には、戦って抗う事も必要だろう。そして更にその為に、新たな力を得る事を厭うている場合ではない。
「わかった」
 突き出していた唇をきゅっと引き結び、ひとつ、うなずく。
「頼む、リビエラ」
「はい、良い返事」
 リビエラがふんわりと笑んで、得意気に小鼻を膨らませる。エクリュも笑み返そうとしたところで、しかし不意に、きんと肌を刺すような感覚を覚えて、表情を引き締め、周囲を見渡した。
「エク」「しっ」
 胡乱げに問いかけるリビエラを制して、神経を研ぎ澄ます。これは、昨夜の『信仰律』に支配された集団と同じ気だ。だが、数は少ないが、放つ強さが違う。
「――来る」
 腰を低めて一方向を睨む。リビエラも、近くの木に立てかけてあった『混合律』の杖を手にして、エクリュと同じ方向を見すえる。
 それを待っていたかのように、空中から赤い魔法陣が複数現れ、そこから、灰色の狼型の魔物を従えた一人の人物が、ゆるりと出現し、軽い音を立てて地面に降り立った。
 エクリュとそう歳の変わらなそうな少年だった。黒いローブをまとい、こちらを見つめる瞳は紫。顎のあたりまでの長さで切り揃えられた薄緑の髪が微かに揺れ、前髪も律儀に整えられている。その下で、瞳と同じ色の何かが光ったような気がした。
 少年は、油断無く身構えるエクリュを、しばしの間観察するように眺めていたが、すっと胸に手を当て、恭しく腰を折り、メイヴィスよりは少し低い声で、
「はじめまして、姉上」
 と、言葉を紡ぎ出した。
「……は?」
 エクリュだけでなく、リビエラも異口同音で同じ反応を示してしまう。エクリュにきょうだいはいないはずだ。ミサクの話によれば、エクリュが生まれた時には、父と母は既に離れ離れになっていたから、エクリュの他に子供が生まれる可能性は無い。それにもし弟妹がいれば、ミサクはそちらも探しているはずだろう。
「自分を識別する個体名は、ロジカ。母に造られし、姉上のきょうだい」
 だが、エクリュ達の戸惑いにも請け合わず、少年は続ける。
「家族は共に暮らすのが道理。ロジカはそのように判断し、姉上と共に母上のもとへ帰る為に赴いた」
「言ってる事がいちいち四角張っていますけれど」
 リビエラが不機嫌に目を細めて、杖の先で、ロジカと名乗った少年を指し示す。
「要は問答無用でエクリュをさらいにきた訳ですわね、このド外道」
「外道」
 ロジカが紫の瞳をきょとんとみはり、本当に訳がわからないとばかりに、首をひねる。
「ロジカの理屈は破綻していないと、ロジカは思考する。外道と判断される根拠を見出せない」
「ごちゃごちゃうるさいんですの、黙りやがりなさい、誘拐犯!」
 リビエラが激昂して、『混合律』を振りかざす。ばあん、と金属の板を叩くような音と共に、赤い光がエクリュに吸い込まれたかと思うと、身体の底から力がみなぎってきた。
「『加力律』ですわ。やっておしまいなさい、エクリュ!」
 友の叱咤を浴びて、エクリュは深くうなずくと、ほとんど予備動作無しで地を蹴った。
「対話での交渉は決裂と判断」ロジカは相変わらず平坦な口調のまま、すっと手をかざす。「捕獲行動に移る」
 その手が振り下ろされた途端、狼型の魔物達が四体、一斉にエクリュに向かって飛びかかってきた。
『君が得意にしている長剣はまだ用意出来ないから、護身用に持ってて』
 とメイヴィスに渡されたダガーを腰から抜き放ち、一匹目の初手をいなすと、叩き込むように斬りかかる。切れ味の良いダガーは簡単に魔物の喉を切り裂き、噴き出した返り血で、エクリュの服はたちまち赤に染まった。
 ぱん、と空気が弾けるような音が聴こえた。同時に身が軽くなる。リビエラの『敏捷律』だ。思考するより先に動くようになった身体で、身をひねり、後方宙返りをして、魔物の牙や爪をかわし、隙を見つけてはダガーを突き刺す。か細い悲鳴をあげて二匹目が崩れ落ちた。
 一気に二体も仲間を倒されて、警戒したか、残りの二匹が咄嗟に間合いを取る。だがその一体が、横様に衝撃を受けたかのように血を噴き、ふっ飛ばされて、呻きひとつあげられないまま絶命した。
 この加勢の仕方は昨夜見た。攻撃が飛んできたと思しき方向を振り向けば、予想通り、ミサクが銃を構えたまま、ロジカを睨みつけていた。
「まさか本当に、昨日の今日で来るとはな」
 忌々しそうに吐き捨てる彼の脇をすり抜けて、短剣を抜き放ったメイヴィスが飛び出してくる。自棄になったのか大口を開けて少年に飛びかかった最後の一体は、彼が勢い良く喉の奥へ短剣をねじ込んで、思い切り振り抜いた事で、血を吐きながら白目をむいた。
「……さて」
 ロジカに照準を合わせ、警戒を解かないまま、ミサクが相手に一歩一歩近づいてゆく。
「四対一だ。逃げ帰るなら今のうちだぞ」
 だが、ロジカは紫の瞳でぐるりとエクリュ達を見回すと、平坦な調子で言葉を紡ぐ。
「数の不利。だが、ロジカの戦闘能力を鑑みて、撤退の理由にならないと判断する」
「何、訳のわかんない」
 機械的な口調に、メイヴィスが呆れ気味の声をあげた瞬間、ごう、と空気が唸り、風が強さを増した。かと思えば、その場に竜巻が発生したかのようにエクリュ達四人の身体が持ち上げられる。
「『烈風律』か!?」
 風の中、ミサクが珍しく驚いた声をあげるのが聞こえる。エクリュ達は別々の方向に吹き飛ばされ、エクリュは、今さっき干したばかりの洗濯物に突っ込んだ。洗濯竿を支える柱がゆっくりと傾き、とうとう倒れて、折角白くなったシャツが土に汚れる。「ああ!」とリビエラの絶望的な声が耳に飛び込んできた。
 洗濯物が衝撃を和らげてくれたとはいえ、吹き飛ばされた痛みはやはり身体に伝わる。じんじんした疼きが身体から去ってくれるのを待って、目を開ければ、紫の鋭い光と視線が交わった。
「雛鳥は親鳥のもとへ。子は母の手へ。それが理屈。どんな手を使っても」
 魔律晶を持っている気配は無いのに、魔法が発動しようとしている。恐らく氷魔法の『氷結律』で、こちらの自由を奪う気だろう。魔王の血か、それを本能で察知して、エクリュは身を固くする。
 しかし、ロジカが魔法を発動させる事はかなわなかった。
「折角洗った洗濯物汚しやがって! 理屈理屈うるせえんだってんですの、よっ!!」
 リビエラの甲高い声が耳を刺したかと思うと、がいん、と鈍い打撃音がして、ロジカが目を見開き前のめりに倒れてくる。恐らく『混合律』の杖で殴ったのだろう。エクリュは咄嗟に追撃をかける方法を模索し、素早く身を起こすと、その勢いで、手加減なく敵に頭突きを叩き込んだ。
 ごっ、と。
 強い打撃が脳を揺らし、頭がくらくらする。だが、ぶれる視界で目をこらせば、ロジカも白目をむいてのけぞるところであった。
 そこでエクリュは初めて気づいた。彼の前髪の下から、瞳の色と同じ、きらきらした何かの欠片が散ってゆくのを。そして思い返す。額に埋め込む紫の物体。魔律晶。
「『信仰律』?」
 同じものに気づいたのだろう。リビエラが唖然と洩らす。
「理屈。ロジカ。子は、親元へ」
 エクリュの頭突きをもろに食らったロジカは、よろよろとふらつき、虚ろな目をして、夢遊病者のように呟いていたが、ある瞬間に、ふっつりと糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ち、動かなくなった。
「……死んだの?」
 恐る恐る近づいてくるメイヴィスが訊ねると、「いや」とミサクが応え、ロジカの身体を抱き起こす。固く目を閉じた彼の前髪の下に、『信仰律』はたしかにあった。だがそれは、エクリュの頭突きのせいで完全にひびが入って砕け、血が溢れ始めている。
「だが、何とか外さないと、このままでは死ぬな。ユージンに除去を頼もう」
「助ける気ですの!?」
 ミサクが当然のごとく放った言葉に、リビエラが目を真ん丸くする。それはそうだろう。さっきまで、命のやりとりをしていた相手を助けようなどという考えは、なかなか浮かばない。一思いにとどめを刺してやる方がよっぽど親切だ。
 それでもミサクは、平然として言ってのけるのだ。
「どうもこの子は、昨夜の連中とは違いそうだ。素性を吐かせる事が出来れば、敵について何かわかるかもしれない。わからなければ、その時はその時だ」
 やはり、ミサクは親切心だけでロジカを助けようとしている訳ではないらしい。それをひしひしと感じた少年少女三人は、当惑の視線を交わし合うのであった。
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