第3章:感情の理屈《ロジカ》(1)
「ロジカ」
 快い声が耳孔をくすぐる。この世に生まれ落ちてより魂に刻まれた旋律は、優しく、甘美で、名を呼ばれる度に、彼の心に喜びを満たす。
「見つかったわ、貴方達の一番上の、お姉さんよ」  その言葉に、論理的に、彼は答えを導き出す。自分達の『母親』である彼女の子の中で長姉といえば、一人しかいない。
「連れてきて。ここへ。そうして、皆一緒に幸せに暮らしましょう」
 そう、はぐれた雛鳥は親元へ帰すのが道理。母たる者の前に膝をついた、理屈ロジカの名前を持つ彼は、紫の瞳を伏せて、深々と頭を下げる。
「母上の、お望みのままに」
 薄緑の前髪がさらりと流れて、額の『信仰律』が垣間見える。
 まるで、彼の第三の瞳のように。

「――エクリュ!」
 唐突に、耳に突き刺さった甲高い声と、カーテンを開いて差し込む朝の光に、エクリュの意識は急速に覚醒を迎えた。昨夜の襲撃のせいか、何だか変な夢を見た気がする。その内容を思い出せないもやもやした気持ちを払拭したくて、もう一度眠りに落ちたい欲望に頭から毛布をかぶれば。
「ほらほら、いつまで寝てやがりますの! さっさと起きないと、朝ごはんを食いっぱぐれましてよ!」
 昨日一日ですっかり馴染んだリビエラの叱咤と共に、毛布が勢い良くはぎ取られた。そして、『朝ごはん』という単語に、エクリュは反射的に飛び起きる。
 昨夜メイヴィスが作ってくれた夕食は、今までの人生で味わった事が無いくらい美味しかった。あの食事を食べ損ねてはあまりにも勿体無い。エクリュは慌ててベッドから降りると、寝間着から手早く着替えた。
「朝ごはん!」
 きらきらと目を輝かせて振り返れば、リビエラが、緑の瞳を呆れ気味に細めて、「まったく、もう」とエクリュがぐしゃぐしゃにしたベッドのシーツと毛布を整えてくれる。
「ごはんにつられて行動するとか、貴女は犬みたいですわね。大きい犬」
 大きい犬、と言われてエクリュの脳裏には、コロシアムで日々戦っていた、狼型の魔物の姿が浮かぶ。一番身近なイヌ科といえば、あれだ。それが紫の体毛に碧の目をもって、がつがつと餌を食らっている様を想像すれば、あながち間違っていない気もしてくる。
「貴女」リビエラが更に呆れ入った、という表情を見せる。「なんで、冗談なのに納得したような顔してますの」
 冗談だったのか。エクリュがきょとんと目をみはると、リビエラは両肩をすくめ、エクリュが床に脱ぎ捨てた寝間着を拾い上げ、軽く叩いて手早く丸め込んだ。
「後で洗濯の仕方を教えますから、まずは朝ごはんを食べにゆきましょう。でないと、貴女はなんにもやる気が起きなさそうですから」
 そうして、二人で食堂兼台所ダイニングキッチンに降りると、パンの焼ける香ばしいにおいがふんわりと漂ってくる。視線を向ければ、昨夜と同じく、メイヴィスが火にかけた鍋と向かい合っていた。ただ、昨夜と光景が異なるのは、既にミサクとユージンが卓についていて、少女達の姿を見とめたユージンが、
「おっ、おはよー。あれから眠れた?」
 と呑気に軽く手を挙げた事か。
 彼女の隣のミサクは、こちらが向かいの席に着くと、「おはよう」と軽く挨拶をして、既に目の前に置かれていた茶をすする。仄かに血と土のにおいがするのは、昨夜の襲撃者達の死体を片付けたからだろう。コロシアムにいた頃、死んだ魔物や奴隷剣闘士の亡骸を引きずっていって、手ぶらで戻ってきた、ザリッジの部下からも、同じにおいがしたものだ。
 昨日までいた環境を、何年も前の出来事のように回顧していると、メイヴィスが、昨夜の残りのスープと、こんがり焼けたトースト、そしてスクランブルエッグとかりかりのベーコンが載った皿を、それぞれの前に配る。
「料理、上手いんだな」
 見た目だけで食欲が刺激されて、エクリュがしみじみと洩らすと、少年は軽い驚きに目をみはって、少しだけ紅潮し。
「別に、オレも人並なんだけど。他に出来る人がいないから」
 と、仕方無い、とばかりに、席についている面子をぐるりと見回す。つられて視線を巡らせれば、ユージンが肩をすくめ、ミサクは我関せずとばかりに茶をすすって、リビエラは「適材適所って言葉がありましてよ」と、少しだけ屈辱的に口元を引きつらせた。
 メイヴィスも座ったところで、朝食が始まる。トーストに蜂蜜を垂らしてかじれば、甘さと香ばしさが口の中にふわっと広がり、一晩置いたスープは、具材の旨味が更に溶け出している。スクランブルエッグとベーコンは、「これを少しつけると味が段違いですわよ」と、リビエラが皿にスプーン一杯分盛ってくれた赤いソースをつけて口に運ぶと、酸味と一緒に得も言われぬ美味がほどける。
 出来る人がいない、と言われたミサク達の事を笑えないほどに料理の仕方を知らないエクリュには、これだけ美味しい料理を作れるのだから、メイヴィスは「人並」などと謙遜する必要は無いのではないか、と思えた。
 各々が皿を空にすると、メイヴィスが手早く食器を片付け始める。
「エクリュは、酸味があるのと苦味が多いのと、どっちがいい?」
 こちらの目の前から皿を下げる時に少年が訊いてきたので、この後にも何かが出てくるのか、だが何が出てくるのかわからず、きょとんとしながら首を傾げてしまう。
「美味しければ何でもいい」
 素直に本音を口にすれば、「……だよねえ」とメイヴィスは溜息をつき、「じゃあ、皆好きだから、苦いほうでいいか」とひとりごちながら、洗い場に食器を突っ込んだかと思うと、火にかけたまましゅんしゅんと音を立てていた薬缶を下ろし、サイフォンに湯と挽いた珈琲豆をセットして、『火炎律』の火で沸かし始めた。たちまち、食堂兼台所にほろ苦さを伴った香りが満ちる。
「エクリュ」
 その香りを堪能しようと、すんすん精一杯鼻をきかせていると、唐突にミサクがこちらの名を呼んだ。彼が自分を呼ぶ時は、真剣な話がある時だ。においを追いかけるのをやめ、叔父に向き直る。 「デウス・エクス・マキナが君を狙っている、という件は、昨夜話した通りだが、あれで向こうが君を諦めたとは思えない」
 ミサクの言う事はわかる。むしろこちらの実力のほどを知った事で、更に本気を出してくるに違いない。
「これから数日、あるいは今日か明日。襲撃をしのいだとこちらが安堵しているところを狙って、第二陣が来る可能性が高い。決して短時間でも一人にならないで誰かと共にいる事、知らない相手についていかない事。それを守ってくれ」
 まるで落ち着きの無い幼児に言い聞かせるような話だが、親とはぐれて迷子になれば誘拐されかねない、という経験の無いエクリュは、それが社会通念である事も知らない。だから素直に、「わかった」とうなずくばかりである。
「お待たせ」
 話が一段落したところで、メイヴィスが人数分のマグカップを盆に載せて持ってきた。目の前に置かれたカップには褐色の珈琲がなみなみと注がれ、その表面には、興味深そうにのぞき込む自分の顔が映し出されている。
 珈琲はベルカでは嗜好品だった。エクリュの活躍でコロシアムがいつもより儲かった時だけ、ごく稀に、気分を良くしたザリッジが部下に命じて、奴隷剣闘士達に、チョコレートでコーティングされた珈琲豆を配らせた。そのほとんどは部下達が何だかんだでくすねて、奴隷達の口に入るのは、一人あたり一粒か二粒、運が良くて三粒だったが、甘さと苦さの同居したそれを大事に味わって、夜寝落ちるまで口の中で豆を転がしていたりしたものだ。
 そんな珈琲を、誰にはばかる事無く飲める。逸る気持ちに突き動かされるままマグカップの把手を握ったが。
「待って」「お待ちなさいな」
 エクリュの行動を既に読んでいたかのように、メイヴィスとリビエラが同時に制止をかけてきた。
「いきなりガバッと飲んだら、口の中を大火傷してよ」
「あと多分、初めての舌には苦すぎる。砂糖とミルクを入れて」
 少女が呆れた様子で溜息をついて、少年が角砂糖の入った小皿とミルクポットをテーブルの上に置く。横でリビエラがお手本を示すのをまじまじと見つめた後に、それに倣って、砂糖の塊を二つと、ミルクはマグカップの上でポットを一周。そしてマドラーでかき混ぜる。たちまち褐色が柔らかい色に変わった。
 マグカップを両手で包み込むように持って、口をつける。香ばしさが鼻を抜け、後から砂糖の甘味とミルクの柔和さが混じった苦味が、舌に触れた。
「美味しい」
 しみじみと洩らせば、「それは良かった」と席についたメイヴィスがほっと息をつき、自らも砂糖とミルクを入れて珈琲を口に含んだ。ミサクとユージンら大人組は、ブラックのまま飲んでいるようだが、慣れているのか、平気な顔をしている。
 砂糖とミルクを入れずに飲んだらどんな味がするのか。興味は尽きないが、それはまたの機会で良いだろうと思い、エクリュは今はとにかく、この柔らかい舌触りを楽しむ事にする。
 特に言葉を交わす事も無い食後の一服。だがそれが、エクリュにはやけに温かく、胸に沁みるものがある時間に感じられた。
BACKTOPNEXT