第1章:紫髪の『名無し』(1)
 かつてシュレンダイン大陸には一つの大国が存在した。
 栄華を誇ったその唯一王都は、ある日突然空から降って来たくろがねの城の下敷きとなり、国王や多くの民の命と共に消えた。
 守護者を失った王国は、それまで鳴りを潜めていた辺境の蛮族達に蹂躙され、残された国民は苦難の日々に怯える事となった。
 しかしある時から、侵略者に天罰が下るようになる。
 それは、あるいは大陸にはびこる魔物の姿をとって蛮族を喰らい、あるいは天のいかづちとなって敵を焼き、またあるいは、紫に光り輝く剣を握った乙女の姿となって、侵攻者を殲滅せしめたりもした。
 決して真の姿を捉える事の出来ない救世主ではあったが、いやだからこそか、その神秘性に人々の心は強く惹きつけられた。その偉大なる存在の遣いだという、黒いローブをまとった者達の言葉に酔いしれるように、多くの人間が唯一神『機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナ』を讃え、救いを求めた。

 それでも辺境では尚、蛮族の勢力は強く、信仰は弱いまま、無法地帯は果て無く広がっている。
 シュレンダイン南方の海沿い、ザクト地方の街ベルカもそんな場所のひとつである。
 遠い昔には王都と港町を繋いだ街道を整備する者も長らくおらず、元は舗装されていたはずのひび割れた道を、馬の蹄の音がふたつ、叩く。その背に乗る人間達は、砂埃除けのフードがついたマントをすっぽりとかぶり、無言で馬を走らせていた。
 風が潮のにおいを運んでくる。やがて、海風に侵食されてあちこちが風化した、黄ばんだ壁に囲まれた街を見下ろす丘に出た時、彼らはどちらからとも無く馬を止めて、しばらくの間街を眺めていた。
「本当にここなの?」
 後ろを走っていた者が、前を行っていた人物に問いかける。その声は、声変わりはしたものの、高さを残す少年のそれだ。
「――ああ」
 応えるは、低めの声。苦難と後悔がにじみ出るかのようだ。
「今度こそ、間違いは無いはずだ」
 そうして、二人は再び馬を走らせる。
 丘の下に広がる、混沌の街へ向かって。

 ベルカは南方をまとめるギサ族の支配する街だ。酒と煙草と客寄せ女の香水の香りと、そして、血のにおいに満ちている。
 中でも血のにおいの発生は、元を辿れば街の奥にでかでかとこしらえられたコロシアムに行き着くのだ。
 そこでは、各地から連れてこられた奴隷剣闘士が、奴隷同士、あるいは腕に覚えのある流れの戦士、あるいは魔物とすら戦わされる。
 そのほとんどは一方的な蹂躙で、粗末な革の胸当てとなまくら剣をだけを与えられた剣闘士は、ろくな反撃もできぬまま相手の餌食になる。それを詰めかけた観衆は、手を叩き口笛を吹いてはやし立てるのだ。
 こと奴隷同士の潰し合いに至っては、刃がぼろぼろの剣で決定打を与えられずに殴り合い、血みどろの戦いになる。その様をやんやの喝采をもって見ているのだから、ここに集う人間達の娯楽に関する姿勢は、悪趣味と言わざるを得ないだろう。
 だが、数日に一戦だけ、彼らの興味が一点に集中する。その時ばかりは、人々は出てきた奴隷剣闘士に注目し、今日はどんな吃驚びっくりする戦いを繰り広げてくれるか、胸躍らせるのである。
「名無し! 名無し! 名無し!」
「今日も魅せてくれよ!」
 観衆の声を一身に浴びながらアリーナに姿を現したのは、まだ十代後半と思しき、少女だった。薄い胸を革鎧の下に隠し、ばさばさの紫髪を高い位置で結って、なまくら剣を手にしている。
 しかし、彼女が他の奴隷剣闘士と一線を画すのは、その瞳の力であった。春の海を思わせる碧眼はつりがちで、絶望に曇ってはいない。生きる事を諦め、そう遠くない未来に訪れる死を前に、既に目力さえ死んでしまった奴隷達とは真逆の、生命力に溢れる光を宿している。
「名無し! 名無し!」
 名無しの連呼が響く中、アリーナに用意された複数の扉が開き、狼型の魔物が五匹、飛び込んでくる。丸一日餌を与えられずに腹を空かせた魔物達は、爛々と目を輝かせて、眼前にいる人間に飛びかかった。
 熱い息を伴った牙が喉に喰らいつこうとする寸前まで、名無しの少女は動かなかった。だが、不意にぎらりとした鋭さを碧の瞳にたたえたかと思うと、その細腕に似合わぬ勢いで剣を振り上げたのである。
 ごきゃ、と鈍い音ひとつ。少女に迫っていた魔物の一体の顎骨が陥没する。容赦無く刃が返り、今度は頭蓋骨の砕ける音がして、二匹目の魔物が地面に落ちた。
 わああっ、と、たちまち歓声があがる。「名無し!」の繰り返しが高まる。少女は、そんな周囲の反応は気にも留めないとばかりに身を翻すと、背後に迫っていた一匹の胴に剣を叩き込む。内臓を潰された衝撃で、魔物は一瞬にして絶命し、まだ痙攣しながら血の泡を吐いていた。
 残る二匹が両脇から挟み討ちにする形で襲いかかってくる。それでも名無しの少女は怯む事無く、大きく跳躍して左側の魔物の頭を踏み台にし、少女の喉笛をとらえ損ねてがちんと空気を噛む敵を眼下に冷たく見すえながら、後ろ宙返り。離れた場所に降り立つと、すうっと、剣を握っていない右手をかざした。
 途端、しゃん、しゃん、しゃん、と、鈴を鳴らすような音が聞こえて、観衆は更にどよめく。「来た!」と嬉しそうに手を叩く者もいる。
 直後、名無しの掲げた手から幾つもの氷の矢が生まれ、烈風と共に少女の紫髪を揺らしたかと思うと、魔物目がけて飛んでゆく。魔物達は慌てて火を噴いて応戦しようとしたが、時既に遅し。次々と鋭い氷に身を貫かれ、血の尾を引きずりながら跳ね飛ばされて、動かなくなった。
 たちまち大歓声がコロシアムを包み込み、賭け札が舞い踊る。
「名無しは今日もやりやがった!」「今日も出たぜ、魔律晶無しの魔法!」「流石は『魔物の子』だねえ!」
 誰もが口々にはやし立てる中、名無しは動かない魔物に背を向け、アリーナを去ろうとする。
 が、熱狂の渦に聴覚を塞がれていたので、彼女は気づかなかった。倒したはずの魔物の一体が、最後の力を振り絞ってふらりと立ち上がり、少女に食らいつこうと、よろめきながらも牙をむいたのを。
 魔物が名無しの背後から飛びかかったところで、ようやく人々も狂信的な興奮から醒めた。魔物の牙が、希代の星の命を狩り取ってしまう。その恐慌に悲鳴があがる。
 だが、周囲の異変に気づいた名無しが振り返ると同時、ぎゃん、と魔物は情けない断末魔を零してのけぞった。その脳天から血を噴き、地に倒れて今度こそ動かなくなる。
 先程までの昂揚した空気はどこへやら、コロシアムは今やしんと静まり返っていた。そんな中、少女は魔物を撃ち抜いただろう方角に見当をつけて、そちらにこうべを巡らせる。
 視線の先の観客席最前列で、まだ硝煙を立ちのぼらせる銃を左手で掲げた男が、青の瞳でまっすぐに少女を見つめていた。歳の頃は三十代半ばだろうか。前髪が長めの銀髪が、風に吹かれて揺れている。
「やっと、見つけた」
 男が明らかに名無しに向けて、感慨深げに口を開く。
「探したぞ、エクリュ」
 聞き覚えの無い名前と、自分を探していたという男の口ぶりに、名無しは眉根を寄せ、首を傾げる。その所作に合わせて、紫髪がざらりと流れた。
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