第10章:望みは儚く消えゆきて(1)
 ぽたぽたと。
 床に血が滴り落ちる音がする。
「何故、だ……?」
 ミサクの耳に届いた呆然とした声は、ユホのものだった。同時にナディヤの手の力が緩んだので必死に振りほどき、血管が解放されて急激に血液が送らればくばく痛む頭をおさえながらも、よろめくナディヤを反対の手で支えて、そして視線を魔女に向ける。
 その大きく開いた背中から、氷の槍が突き出している。勿論ユホが放ったものではない。自滅するはずが無いだろう。
「何故、何故、あたしの魅了が効かない!?」
 信じられない、信じがたい、という声色を満たしてユホがわめく。その視線の先を見やって、ミサクは我が目を疑い、いつに無い驚きを顔に満たした。
 いつ何時、眠る時さえ決して取らなかったコキトの色眼鏡が外れていた。その下から現れたのは、紫水晶のごとき瞳。そしてその目元は、昨夜向かい合った魔王に酷似していたのである。
「まさか、貴様」
 ユホが愕然と呟くと、魔法士は一回血を吐いた後、それでもなお瞳を細めてにやりと笑ってみせた。
「中級魔族のくだらない魅了が、魔王に効く訳無いだろう?」
 それを聞いて、ミサクの聡い頭はすぐに理解する。
 アナスタシアには、数多の魔族が間諜かんちょうとして入り込んでいる。それは特務騎士の把握する所で、実際何人かを魔族として抹殺した事もある。
 だがまさか、魔王の血族までもが唯一王の膝元に入り込んでいたとは、思いもしなかった。
「私は、お前がアルダを連れ去った後、代打で急造された魔王だよ」
 ユホの驚愕を煽るように、コキトは乱杭歯を見せて禿頭を撫でる。
「大慌てで造られたから、力はアルダよりかなり劣るけど、わかる奴に色を見られたら一発だからね。目を隠して、髪は薬で一本残らず抜いて。顔も少し変えた」
 そして、ユホに突き刺した氷の槍をぐっとつかむと、更に押し込む。
「それもこれも、身勝手な行動に走ったお前さんに天誅を下す機会を見計らう為だったのさ」
「ぐぎゃああああ!」
 ユホが女にあるまじき悲鳴をあげてのけぞる。しかしどこにそんな根気が残っているのか、ぎんと怒りに狂った炎を瞳に宿すと、
「……許さない」
 がつ、とコキトの頭を両脇からわしづかみにして、ぐりぐりと爪を立てた。
「全てはあたしのものだ。邪魔する奴は許さない。消す、消す、消す!」
「ったく、救えないな」
 執念深い魔女に投げかけられたのは、嘲りを込めた溜息だった。胸を貫かれてなお、コキトは平然としている。やはり魔王は生命力も尋常ではないのだろうか。ミサクが唖然と見つめていると、紫の瞳がこちらを向き、魔法士がにっかりと笑みを見せた。
「そういう事だ、騎士殿。私はこいつと一緒に魔族として消えるよ。ヘルトムート王あのじいさんに言い訳をするのに手間をかけるけど、よろしくな」
「待て……」
 ミサクの制止は功を成さなかった。瞬きをする間もあらばこそ、魔法士を中心に紅い光が発せられ、爆音が轟く。咄嗟の反射でナディヤを抱き締めてかばったが、凄まじい爆風と熱風に、ミサクの身体は部屋の外まで吹き飛ばされ、廊下の壁にしたたかに背中をぶつけた。
『爆裂律』を用いてユホを道連れに自爆したのだと認識するには、鋭い痛みが邪魔をした。かばわなかった右腕の、肘から先に感覚が無い。ただ、そこを中心にどくどくと激しい脈拍が響いて、だらりとぶら下がった腕の先から熱いものが流れ落ちる気配を自覚すれば、頭からさあっと血の気が引いた。
「騎士様、騎士様、どうかしっかり!」
 ナディヤの声が、酷い耳鳴りの向こうに聴こえる。全ての感覚が遠ざかりそうな中、ミサクの耳に届いたのは、
「許さない、許さないよおお……!」
 呪詛のような呻き声と共に、ずるり、ずるりと何かが床を這い迫ってくる音だった。
 ちかちか星の舞う視界をゆっくりと動かせば、血の絵画を描きながら、下半身を失い、妖艶な顔も焼けただれたユホが、そればかりはぎらぎらした琥珀の瞳を見開いて、こちらに向かってくる。
「あたしは、生きるんだ。全ては、あたしの為だ。あたしの思い通りにならない奴は、皆、死ねええ……!」
 救えない、とコキトが呆れ果てて言い放ったのを思い出す。あの魔法士がその命を犠牲にしてまで倒そうとしたのに、何という執念か。背筋がぞっとするのを感じつつも、ミサクはナディヤから手を離し、「見ないで」と言い含めると、動かない右腕の代わりに、無事な左手で、傍に落ちていた銃を拾い上げ、ユホの目の前に仁王立ちになり、彼女を冷たく見下ろし、銃口を向けた。
「くたばれ、下種が」
 ぜえぜえと喘ぐようにそれだけを言いながら、咆哮の無い発砲を、三度。ユホの顔に、脳天に三つの穴が開き、多くの人を殺し、様々な人の運命を弄んだ狂える魔女は、血の池に沈んで、今度こそ動かなくなった。
 常時飄々としている魔法士が、あの色眼鏡の下にここまでの覚悟を隠していたとは。それは冷静なミサクをして、驚嘆を抑えられなかった。
 だが、驚きに浸りきる暇も、哀しみに暮れる余裕も今の彼には無かった。ホルスターに銃を戻す所までは出来たが、血が足りないのか、いよいよ立っていられなくなり、荒い息をしながら壁に背を預け、ずるずると崩れ落ちる。右腕がどうなっているか。見る事は勿論、触って確かめる事さえ怖くて、特務騎士隊長に相応しくない震えを伴った。
 と、その腕に手が添えられる気配がして、青い光が視界に入り、痛みが徐々に消えてゆくのを知覚した。
 はっとして顔を上げる。いつの間に歩み寄ってきたのか、ナディヤが神妙な顔つきで『回復律』を使っていた。
「私はここに囚われている間に、様々な実験を受けました。人間でも、魔律晶無しで魔法を使えるかも、その内のひとつです」
 過酷な体験であっただろうに、何という事はないかのように、彼女は淡々と告げる。やはりアティアの妹、それなりに芯のある娘のようだ。
「簡単な回復や補助と、『天空律』なら、魔律晶無しで扱えます。止血は施しましたが、ここまでになってしまった腕を再生させる事は出来ません」
 その言葉に、右手を動かそうとして、反応する指の感覚が無い事にようやく気づく。肘から先がどうなったか。もう想像には難くなかった。
「ここを出ましょう。しかるべきお医者様に診てもらうべきです」
 白い服が血に汚れるのも構わず、ナディヤはミサクの残る左腕を自分の肩に回して立たせてくれる。
 もう戦えない以上、離脱するしかないという騎士としての理性が、ミサクの胸に生まれる。だが、もうひとつの感情が彼の胸をよぎった。
(シズナ、すまない)
 よろよろと一歩一歩を踏み出しながらも、彼の想いは、先程別れた勇者の少女へと馳せていた。
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