第8章:仮面の下に秘められた(3)
 晩秋の星座がまたたく夜空、一本の広葉樹がささやかな風に揺れる下、彼が手を離して振り返り、向き合う形になる。黒の仮面をゆっくりと外す。その下から現れた紫水晶のごとき瞳を見た時、シズナの両目からとうとう熱い水分が溢れ出した。
 記憶の底に押し込めていた、誰よりも愛しい人。
「顔を見せて」
 柔らかい声が心地良く耳に滑り込んでくる。何度もうなずき、蝶の仮面を取り払う。
「泣いたら可愛い顔が台無しだよ」
「誰のせいだと思ってるの」
 混ぜっ返せば彼が困ったように微笑う。笑顔を見せようとしても、感情の波は次から次へと目から零れ落ちて止まらない。シズナは泣き笑いで、左頬を伝うものを必死に拭えば、少しひんやりした手が反対の頬に触れて、流れる涙を拭いてくれる。その指に銀色の輝きがいまだある事をみとめれば、更なる熱涙が訪れる。
 勇者と魔王の仮面を脱ぎ捨て、シズナとアルダは、一年ぶりに、素顔のままで向かい合った。
「会いたかった」
「私も」
 至近距離で本音の吐息が混じり合う。このまま彼が温かく包み込んで、口づけを降らせてくれる事を期待する。
 しかし、いつまで待っても、アルダはシズナの碧眼をじっと覗き込むままで、両の腕を伸ばしてはくれない。愛の行為に及んではくれない。
 広場の曲が遠く聴こえる他は、葉擦れの音と二人の沈黙しか残らない。不安を感じ始めた頃、アルダがふっと寂しげに笑んで、
「シズナ」
 こちらの名を大切そうに呼び、次に、予想だにしていなかった問いかけを、神妙に投げかけた。
「君は、この世界が滅びても良いか」
 突然の質問に、瞬間、シズナはぽかんとしてしまう。しかし、頭はやたら冷静に思考を弾き出した。
 彼は今、シズナを試しているのだ。あえて『シズナ』と『アルダ』の素顔をさらけ出した状態で、『勇者』に『魔王』として。
 この世界に、守る価値があるか、と。
「この一年、君に何があったかは、俺も知っている。アナスタシアには人間の姿をした魔族の者が入り込んで、情報を集めている上に、『透過律』である程度の情報は直接見る事が出来るから」
 つまり、アナスタシアが魔法でシズナの存在を感知していたり、特務騎士が一般人の間に溶け込んでいるのと同じような事を、魔族側もしているという事か。アティアがそうであったように、どれだけの人間が魔族に通じているのかぞっとすると同時に、冷静に理解もする。シズナの行動は、きっとアルダに筒抜けだったのかも知れない。自分達の大切な、絆の証が失われた事も。
 シズナがその考えに至るのを待っていたかのように、アルダが口を開いた。
「君が唯一王国に失望しているのなら、俺は魔王として、遠慮無くアナスタシアを滅ぼそう」
 そこで一旦言葉を切り、「だけど」と、深刻な紫の視線が、シズナを射抜いた。
「君が少しでもこの世界に守る価値を感じているのなら、どうか勇者として、聖剣『フォルティス』で俺を殺して欲しい」
 あまりにも、あまりにも唐突な依頼に、シズナは驚愕に目をみはって立ち尽くしてしまった。どういう事だ。魔王が勇者に、いや、誰よりも愛しいアルダが自分に、引導を渡す事を願うとは。
「……どうして?」
 二度、三度唾を呑み込んだ後、ようよう出てきた言葉は、それだけだった。口も変な形に固まってしまう。
「俺は、知ってしまったから」
 アルダは痛みを耐えているかのように目をつむり、苦しげに言を継ぐ。
「勇者と魔王の真実を。魔王の存在の真相を」
 勇者と魔王の関係については、シズナもエルヴェから聞いた。唯一王国を存続させるための一部品、出来上がった道の上を歩くだけの、道化師と変わらぬ存在。だが、魔王の存在の真相とは、一体何だろうか。疑念を顔に表したシズナには答えないまま、アルダの言葉は続く。
「俺にはもう、絶望しか残っていないから。君を抱き締める資格も無いから。だから」
 アルダが顔を伏せる。頬に触れた手がより温度を失くし、小刻みに震えているのがわかる。
「君の手で、全てを終わらせて欲しい」
 何故だ。何故今更、そんな事をシズナに言うのか。驚きはやがて、怒りへと転化する。
「ふざけないで!」
 シズナの喉から激情を包括した声が飛び出した。アルダの手を叩き落とし、碧眼で、ぎんと相手を睨みつける。
「今更、そんな事を私に言う為に、わざわざ来たの!?」
 今更他人の手による死を望むくらいなら、勝手に自分で死ね。そんな考えが脳裏を横切った後に、何故、の連呼が繰り返される。
 何故、魔王として人々を苦しめたのか。
 何故あの日、魔剣『オディウム』を振るって故郷を壊したのか。
 何故、シズナを愛したのか。
 訳がわからない。誰もがシズナの心を打ちのめし、削り取ってゆく。引っ込みかけていた涙が、再び目の端に寄せてくる。
「君にしか頼めないんだ。いや、君にしか頼みたくない」
 ゆるゆると首を横に振り、顔を上げたアルダは、今にも泣き出しそうな、置き去りにされた子供のように頼り無い表情をしていた。
「君の為になるのなら、俺は君の為に、君の手で」
 そこまで言った所で、アルダは弾かれたように横を向き、咄嗟に右手を掲げた。魔律晶を用いる事も無く青い光が彼の手から放たれ、『障壁律』が生み出されて、かきん、と高い音を立てて何かを受け止める。
 銃弾だとわかったのは、丘をのぼってきた新たな人影が、油断無くアルダに照準を合わせていたからだった。
「死にたがりの魔王のくせに、シズナ以外の他人に討たれる事は望まないのか」
 ミサクだった。調整を終えたのだろう銃を構え、青の瞳に敵意を存分に込めて、アルダを睨みつけている。
「シズナから離れろ、魔王アルゼスト。次は『障壁律』を使うより先に、その額を撃ち抜く」
「その前に俺の魔法がお前の首を飛ばす方が速いさ、特務騎士」
 青と紫の視線がぶつかり合い、一触即発の空気が流れる。
 緊迫した空気を破ったのは、ミサクだった。予備動作無しに引鉄を引く。間違い無く敵の急所を狙った一撃はしかし、アルダが身を引く事で避けられる。またも魔律晶無しに黒い光が収束し、刃と化してミサクに襲いかかった。彼も伊達に特務騎士隊長ではない。最低限の身のこなしだけで攻撃をかわし、三射、四射目を放つ。だが、アルダもそれは予測済みだったのだろう、既に発動させていた『障壁律』で受け止め、銃弾はぽろぽろと地面に落ちた。
「シズナを守って旅をしてくれた礼に、死を与えるのは無しか」
「生憎、シズナを裏切った罰に、相討ち覚悟でも貴様を討ちたいのさ」
 銃口と、闇の魔法球が互いを射程距離に捉えたまま、睨み合いに陥る。だが、その緊張の糸を断ち切ったのは、シズナであった。アルダをかばうようにミサクの射線に割って入り、両腕を広げる。
「シズナ?」
 珍しく、ミサクが驚きを顔に浮かべた。信じられない、とばかりに洩らす。
「世界の敵の味方をするのか?」
「違う」
 アルダも背後で戸惑っている気配がする。男二人の困惑を、身に染みるように感じ取りながら、シズナはぶんぶんと頭を横に振った。
「私にもわからない。アルダが本当に世界の敵なのか。そしてわからない。私自身がどうしたいのか」
 それはまごうかたなく、今のシズナの本音だ。唯一王国の言うままに『魔王アルゼスト』を討つ気はとうに失くなっている。かと言って、アルダの望むままに彼に死を与えるのも、それはそれで違う気がする。
 では、生きて欲しいのか。
 そう己に問いかければ、「わからない」としか返らない。
 アルダに生きろと言って、どうすれば良いのか。彼の首根っこを引っつかんでどこかへ共に隠遁すれば良いのか。彼を見放して一人で山奥へ帰るべきか。どこへ行き、何をすれば良いのか、今は全く見当がつかない。
 唇を噛み締め、顔をうつむけた時。
「シズナ」
 背後から、アルダがこちらの右手をつかんだ。反射的に振り払ってしまったが、その時には、掌に何かが収まった感触を知覚する。
「俺は君を待ってる。君が答えを出したその時、その『天空律』が、君を導いてくれるだろう」
 はっとして振り返れば、アルダは静かに微笑みをたたえていた。そうして、ミサクが次射を発する間も無く突風に包まれて空中に浮き、そのまま闇に溶けるように、消えた。
「『転移律』か」
 ミサクが目を細めて軽く舌打ちする。彼にしては随分と感情を露わにするものだと思いながら、シズナは自分の手の中に残された物へ視線を落とす。
『天空律』
 アルダが残した、果てしない可能性を秘めたような名を持つ魔律晶は、夜闇の中でもうすぼんやりと白い輝きを放ち、遠くから聴こえる踊りの曲に合わせて、りん、りん、と小さく鳴いていた。
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