第4章:奪われた光(2)
『勇者の娘が懐妊した』という話は、その日の晩には城内の騎士団員やメイドだけでなく、末端の兵士にまで広まっていた。
 流石に城下にまで伝わっては、自分達を救ってくれるはずの勇者が何をしているのか、と民達が不安がるので、ヘルトムート王が箝口令をしいた。だが、人の口に戸は立てられない。王都中に知れ渡るのは時間の問題だろう。
 それでも、主にミサクやアティアが気を遣って、そういった世間の野暮ったい噂話から遠ざけてくれるおかげで、シズナは穏やかな日々を過ごす事が出来た。
 具合が悪い時は素直に横になって、ぐるぐる回る視界が治まるのを待ち、身体が拒まない食べ物は積極的に口に入れる。
 秋はとうに過ぎ、冬の雪が唯一王都に積もる時期を経て、温かい春の足音が近づいてくると、つわりに悩まされる期間を抜けたらしく、身体が鈍らないように軽く剣を振り、合間にコキトに魔法を教わる事も忘れなかった。
「ひとつ、試してみたい事があるんだよね」
『流水律』の青い完全な球体を手でもてあそびながら、魔法士は色眼鏡の下の目を細めたようだった。
「魔法の素養は遺伝するのか、って。魔族の中には魔律晶を介さずに魔法を使える者がいる。それがどういう要因で生まれるのか、人間にも発生する可能性があるのか、あるとしたら、魔律晶を持たなくても魔法を発生させる事が出来るか。是非見てみたい」
 シズナに魔法を使わせて、その子供が魔律晶無しに魔法を発動させられるか。気の長い話の上に、完全にシズナ母子を実験台に使った、とんでもない言い分だったが、
『勇者が魔王の子を産むなんて、国王陛下も想定外の醜聞だろうに』
 と陰に陽に噂して嗤う城の連中に比べれば、遙かに正直に自分の興味をひけらかしてくれる、好奇心の塊のコキトは、シズナが信用を置ける数少ない人間だ。その役に立てるなら、自分自身の魔法の腕も衰えないし、この妊娠生活の気分転換ともなる。重たい身体で思うように剣を振り回せない分、シズナは魔法の修練に気を注いだ。
 そして暇が出来た時には、裁縫道具と柔らかい布をアティアに持ってきてもらった。
 裁縫はイーリエから一通り習っている。自分の服を繕う事は、自給自足の故郷では当然の行為だった。だが、赤子など抱いた事の無いシズナには、一体どれくらいの大きさの服を縫えば良いのか、とんと見当がつかない。
 そうぼやくと、アティアは、
「お任せください。心当たりがあります」
 と、ヘルトムート王の側室が産んだ王子の乳母を連れてきてくれた。
 唯一王には正妃のヘステの他に十数人の側室がおり、それ以外にも手を出して産ませた子供がいて、その数は百に届こうかというほどだそうだ。ヘステ妃が五十の齢に近づいても一人も子を生さなかった為、その百人近い王子王女は、それぞれの親の野心を背負い、次の唯一王の座を虎視眈々と狙って、水面下で静かな睨み合いを続けているとの事だった。
 だが、シズナにはそんな政争などどうでも良い。乳母から産着の型をもらって布を断ち、赤ん坊の柔らかい肌を傷つけないよう、縫い目を表側にして服の形にしてゆく。
 赤子が男か女か。産まれるまでどちらかはわからないので、
「どちらでも使える色を選ぶのが無難でございますよ」
 と乳母が苦笑した通り、黄色や薄い緑など、男女どちらにも似合いそうな布を選んだ。
 夜、アティアも下がった後の部屋で、一人黙って針を運び続ける。そうすると、色んな事が脳裏に浮かんだ。
 生まれてくる子は、男と女、どちらだろうか。どんな容姿をしているだろうか。父と母、どちらに似ているだろうか。
 そしてその子が成長したら、きっと疑問に思って訊いてくるだろう。
 父親の存在を。
 その時、勇者と魔王に分かたれてしまった両親の事を、どのように説明すれば良いのだろう。お前の父親は世界の敵だと、どうして告げる事が出来るだろう。
 目の奥が熱くなり、じんわりと視界が歪んでくる。その拍子に、ちくりと左の人差し指の先に痛みが走った。慌てて口に含めば、鉄錆の味がじんわりと口内に広がってゆく。そんなに深く刺したつもりは無かったが、なかなか血が止まらない。
 この先、これ以上の血を流す事になるだろう。鋭い刃でアルダを追い詰め、その心臓に剣を突き立てる夢は、これまでに何度も見た。そしていつかは、それを現実のものとしなくてはならない。
 アルダと共に生きたかった。一緒に新しい命の名前を考えて、やってくる命を笑顔で祝福し、その腕に抱いて微笑み合いたかった。子供が歩き出し、喋り出し、成長してゆく様を、二人で見届けたかった。
 だがそれはきっと、叶わない。他の誰でもない、シズナ自身がその道を断ち切る役目を背負っているのだから。
 決して果たされる事の無い夢想を思えば、ぽたり、と雫が産着に零れ落ちる。針を針山に刺し、その手で目を覆っても、溢れる物は留まる事を知らなかった。

 雨期が過ぎ、本格的な夏の季節が到来する。
 その日、シズナはいよいよ大きくなった腹を抱えて、コキトによる魔法指南を受けていた。
「確かに、あんたが私の研究に協力してくれるのはありがたいが」
 魔法士は眉毛の無い額に縦皺を寄せ、困ってみせたようだった。
「そろそろ大事な時期だろう。無理は良かないよ」
「無理なんかしていないわ」
 コキトの気遣いをよそに、シズナは不敵に笑って、雪の結晶のような形をした『氷結律』の魔律晶を手にする。彼女は基本的な魔法は最早一通り使いこなし、コキトが考えた応用術にまで手を出し始めていた。
『氷結律』は、城の氷室に氷を生み出し、腐りやすい食材をもたせたり、温いままでは不味い飲み物を冷やしたりする為に使われる。規模を大きくすれば、河川を凍らせ、大軍を向こう岸まで渡す事も可能だろう。シュレンダイン大陸にはアナスタシアしか国が無いので仮想敵国との戦しか想像出来ないが、万一、魔王が一軍を成して唯一王国に攻め込んできた際には、一対一ではなく、軍対軍の戦術を編み出しておく必要がある。
 そんな想定を抱きながらシズナは魔法を発動させようとしたが、不意に下腹を襲った鋭い痛みに、顔をしかめて、『氷結律』を床に取り落してしまった。魔律晶はそう簡単に壊れる事は無いが、コキトが色眼鏡の下で吃驚びっくりして、慌てて『氷結律』を拾い上げる。
 しかしシズナには、大事な研究材料を危うく破壊するところだった危機を詫びる余裕は無かった。痛みはじわじわと全身に広がり、最早立っていられなくなって、その場にうずくまる。
「あんた、まさか」
 脂汗をかいて歯を食いしばるシズナを見て、コキトも察したようだ。研究室の扉を開けて廊下に飛び出し、
「誰か産婆を呼んでくれ! 人手も出来るだけ集めるんだ!」
 と、珍しくうわずった声で怒鳴るのであった。
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